第2話 天使と魔法

 いつだかは定かではない、ある昔のこと。

 実習で人間界に降りた天使が人間にこう聞いて回ったことがあるらしい。


 あなたが想像する天使がどんなものか教えて欲しい。


 その突拍子のない質問にある者には首を傾げられ、ある者には訝しがられることこそあったが、最終的にかなりの数の人間の声を聞くことが出来たと言う。


 では、どんな声が多かったか。

 結論を言ってしまうと、人間は天使を超常的な存在と捉えているようだった。

 神の使いであり、神から何かしらの権能を与えられた存在。生死の概念からも切り離され、いつ生まれいつ死ぬのかも定かではない。信仰する宗教や住む地域によっては、実在すらも疑われている。その見た目に関して言えば、背中に羽が生え、頭の上には輪っかを乗せている、等々。


 中には思わずこめかみを押さえたくなるような勝手な想像もあるが、これらは残念ながら幻想であると一蹴せざるを得ない。


 実のところ、天使は実在する。

 最天上さいてんじょうと呼ばれる、天界よりさらに上の世界。そこにいる神によって統制される天界に実在する。

 ただ、その在り方は人間と大して変わらない。

 親から生まれ、伴侶を得て子を成し、寿命がきたらその命を終える。

 当然そうである以上、天界にも営まれる生活がある。人間界で言うところの中世の西欧に似た文化、文明のもとに天使の暮らしはあり、食事を摂れば、睡眠もとる。親が働きに出れば、子は学舎まなびやに通う。貨幣経済が形成され、街には店が並び、あらゆるものが貨幣を介して流通している。音楽、芸術、歌劇といった娯楽も市井しせいに溢れ、そこには確かに豊かな文化が構築されている。


 意外かもしれないが、これが天使に関する真実である。

 もちろん、天使と人間。天界と人間界で異なることも多々ある。ただそれ以上に、共通することは多い。それが事実だ。少なくとも人間が想像しているよりかは遥かに多く。


 それでも、天使と人間の違いに焦点を当てるとするのであれば、その時はある一点に関しての言及は避けては通れないだろう。


 それは、魔法。


 天使は、魔法を使うのだ。


 あれだけ好き勝手な想像を天使にしていた人間でも、天使が魔法を使うと空想した人間はその天使によればそういなかったらしい。


 でもある意味、そこだけは大方の人間の想像通りでもよかったのかもしれない。

 事実、魔法の存在は天使を「持つ者と持たざる者」に二分した。

 魔法を放つ源である魔力を持つ者と持たざる者。そして魔法によって得られる富を持つ者と持たざる者。そのように、天使の中に決定的な差を生み出したのだ。そしてそれは、今もなお変わっていない。






 生まれもった魔力が少ないことを知った時、ミーアは6歳だった。


 初等部に入学し半年後に始まった魔法の授業。

 授業を数回終えた時にはもう、各々の魔法の実力が生まれもった魔力の大きさに裏付けられるかたちで目に見えるようになっていた。


 教えられたことがうまく出来ない。

 周りの天使の多くが簡単にこなしてみせることが、自分には出来ない。


 それは、自分に与えられた魔力が少ないから。


 自分の不甲斐ない現状を鑑みるに加え、クラスメイトの何気ない会話や授業で教師が話すことをぼんやりと遠巻きに見聞きした結果、どうやらそういうことらしいとミーアは知った。


 悔しかった。

 でも、焦りはなかった。


 ミーアには初等部で教師をしている祖父がいた。名はセトと言った。

 大好きな祖父だ。何人なんぴとをも拒むことのない夏の森のように大らかで、暖炉の側でうたた寝をした時にみる夢のように温かい。ミーアが何かを知りたがると時間に限りを設けずにそばに付き添ってくれる、そんな優しい祖父。


 だから、大丈夫。

 今度もきっとセトが教えてくれる。

 今は他の天使よりも少ないであろう魔力を増やすすべを。


 そう信じ、ある夜ミーアは仕事を終え家に戻ってきたセトに逸る気持ちを抑えないまま訊ねた。


 どうすれば魔力を増やすことができるのか、と。


 瞬間、少しだけ時が止まったような気がした。

 緊張が走ったわけでも、空気が張り詰めたわけでもなかったと思う。ただ、お互いのの息遣いがわずかに深くなったような、そんな些細な変化。


 その問いに対し、セトは年季が入り渋みがかった薄手のブラウンのコートをハンガーにかける手をとめ、ゆっくりと目が合う位置まで腰を下ろし、その両の掌でミーアの肩を優しく抱いて答えを返した。


 ひとつ。生まれ持った魔力を増やすことは出来ない。

 ふたつ。その魔力の大きさは親の遺伝によるもので、ミーアの両親はもちろん、その親にあたるセト自身の魔力も大きくはない。


 セトは穏やかさをたたえた顔でゆっくりと、まだ6歳のミーアにも分かりやすい言葉で説明してくれた。


 それでも、それを聞いたミーアの頭に浮かぶのは「何で?」の一言だった。

 話を理解できないわけではない。

 何でそんな理不尽な。そういう意味での「何で?」


 ただ、それを口にすることはなかった。

 それは「何で?」と口にするだけでは、時として何も解決することは出来ないと知っていたから。ミーアはそのことを5歳で母親を亡くした時、そしてその葬儀に父が仕事に出た遠方から戻ってこなかった時に思い知っている。


 だから、ミーアは俯くだけしか出来なかった。

 セトの言う通りなら自分は魔力が少ないまま。周りに出来ることが、自分には出来ないまま。月が叢雲むらくもに呑まれるように、胸の中にあった未来への期待の灯りが霞んでいくような気がした。


 けれど、涙は我慢した。

 涙だって、何も解決はしないから。


 そんな時、肩を抱いていたセトの両の掌がミーアの頬に移り、そっとその顔を持ち上げた。

 自然とセトと目が合う。

 温かかった。その掌も、眼差しも。

 そして不思議と、胸の中の灯りはまた輝きを取り戻していくようだった。


 付いてきなさい。

 セトは優しい声音でそう言い、歩き出した。

 ミーアはその背中を追い、セトに続くかたちで廊下に出る。向かっているのはセトの書斎のようだったが、月光が差し込み青白く照らされた廊下には静謐さが充ち満ちており、今宵は普段とは少し異なる様相。まるで違う場所に誘われるような気分のまま、セトが扉を開けた書斎に足を運び入れた。


 扉を閉め、セトは何も喋らないまま書斎の左奥まで進み、そこにある壁に向き合った。そして、右手を当て数秒の魔法詠唱。

 すると、先ほどまでただの壁だった場所に扉が現れる。

 ミーアはそれをただ呆然と眺めていた。もしかしたら口は半開きだったかもしれない。恥ずかしながら。


 セトはミーアのその様子に微笑をたたえたまま、いつの間にか手にしていた鍵を鍵穴に差し込み扉を開ける。

 キィィ、といかにもな音を立てて開いた扉の向こうに広がっていた闇も、セトの魔法で一瞬のうちに照らされる。そして明らかになる、秘密の部屋の全容。


 少し埃っぽい室内。まず目に入ってきたのは、おびただしい数の本。

 おそらく魔導書の類だろうが、綺麗に整理された書斎とは打って変わり、棚に並び切らなかった本が雑然と机の上に積まれている。そこにも乗り切らなかったものは床の上に。そして、紙の資料の量にも驚かされる。本のように机の上に束で積み上げられているのもあれば、天井から弧を描くようにたゆませて張られているロープにもいくつも吊り下げられている。魔法薬を入れる小瓶や羽ペンのインク瓶などは部屋のところどころに散乱し、部屋は混沌としている。


 中でも目を引いたのは、傷だ。

 ミーアの住むこの屋敷では滅多にみることのない傷。

 それがこの部屋には壁や床、本の装丁など至る所に見受けられた。

 とりわけ酷いのは机の上の積み上げられた本の間にポッカリと出来たスペースにあるもの。手前に椅子が置かれているところから察するに、セトの作業スペースのようだが、羽ペンが散らばり黒いインクがこぼれたそこにある傷はひときわ深いもののように見えた。


 一通り部屋を見渡したところで、ミーアには思うところがあった。


 祖父らしくない。

 その一言に尽きた。


 この部屋には普段のセトからは感じない、荒々しさがあった。

 何かにもがき、何かに抗い、何かを必死に叫にぶような、そんな荒々しさが支配している。


 遅れてそれを実感し、ミーアは身がすくむ。

 今まで一度として祖父のことを怖いと思ったことはなかったが、この時だけは隣にいる祖父を見上げることが躊躇われた。どんな表情をしているのかを確かめる勇気が、ミーアにはない。


 ミーアは思わず後退りをしそうになり、その肩をセトに掴まれる。

 ビクッと、身体が跳ねた。そのまま口を真一文字にしたまましばらく身体が動かせなくなる。ただ、セトの掌はいつもと変わらずに温かかった。その事実がミーアに次第に落ち着きを取り戻させる。


 ごめんね。

 セトはそう言った。

 驚かせてしまったね、と。


 それから、柔らかく、でもどこか芯のある口調でこう続けた。


 今から大切なことを教えよう。

 最愛なる孫娘であるおまえに、余すことなく。

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