ゲームをやらなくなってしまった
森山智仁
ゲームをやらなくなってしまった
嘘である。
ウマ娘をやっている。600以上で星3出るってホントかねと疑いながら回している。遊技機業界での仕事が長いから確率の下振れには慣れっこのはずだがそれにしても出ない。一体どうなっているのか。
魅力的だと思うキャラは何かと話題のゴールドシップで、付き合いたいのはナイスネイチャ、正直付き合いたいのはマヤノトップガンである。ナイスネイチャの感じが一番一緒にいて疲れなさそうだしマヤノトップガンみたいな子にぐいぐい来られたら絶対楽しい。
と、要は、ゲーム性もキャラクターもしっかり楽しんでいる。
あと、実はパズドラもやっている。何年も前にアンインストールしていたのだけれど、9周年のタイミングでふらりと再開(引き継ぎでなく再スタート)した。最初のガチャで引いたシラナキをずっと使っている。スキルと覚醒が噛み合っていて、人気のマーベルと相性が良い。呪術廻戦コラボが始まったら貯めた石を使い切ろうと思っている。
そんな感じで、やっているスマホゲーはある。
しかし、熱心とは程遠い。
ウマ娘はデイリー消化しかしていない――デイリーが長いタイプではあるが。
パズドラは、アンインストール前はスタミナが余らないように緻密に管理していたのに、今はどれだけ余ろうがまったく気にならない。
変わってしまった。
中学までの僕は、スーパーファミコンと共に育った。ファミコンでもプレステでもない。間違いなくスーパーファミコンである。
スーファミのシナリオに対する感動が、僕に物語を書かせてくれたと言っても過言ではない。『天地創造』は原点であり、『ワンダープロジェクトJ』はめちゃくちゃ感情移入した。高3のクラス演劇で書いた脚本『遠衛兵』の「青の歌」とは、『ダウン・ザ・ワールド』の「ザバンザ」そのものである。
大学生から20代にかけてはモンハンに傾倒した。
実家にいた頃はよく和室で寝落ちするまでやっていたし、一人暮らしを始めてからも3DSのスライドパッドのカバーが砕け散るほどやり込んでいた。
武器はブシドーのチャージアックスとブレイヴの太刀。高出力属性解放斬りはロマンであり、剛気刃カウンターには中毒性がある。辞めてもう随分になるのに、用語は結構覚えている。
そういった時代と比べると、今は本当にめっきりゲームをやらなくなってしまった。
登山という「リアルRPG」にハマったのが大きな要因であることは間違いない。
理詰めが通用し、体が強くなり、行動範囲が広がっていく。育成の自由度は無限に近い。難所や天候、資金やスケジュールといった「敵」もいる。こんなに面白い遊びはない。
文章は「書きたいものを書く」と思っているのに対して、山は「行ける範囲で楽しむ」では満足できない。もっともっと、はるか遠くまで行きたいと思っている。作家適性もB+ぐらいはあると信じたいが登山家適性はAで間違いない。
向いている。だから面白い。叶うものなら毎日山にいたい。
何しろこの文章すら山へ向かう電車の中で書いているのである。
けれども、山だけがゲーム熱を冷ました要因ではない。
テレビCMやWEB広告で、面白そうなゲームだなと思うことはある。
子供の頃と違って、買う金はある。モンハン卒業後、ゲーム専用ハードを何も持っていないのだけれど、買おうと思えば全然買える。
Switchとか欲しいなと、思うことは、ある。
しかし買わないのである。
何故か。
仕事や登山で忙しいから――だけでは説明し切れない。
明らかに、「新しい遊びを覚えるのが億劫」だと感じている。
パズドラを再開して、なんだかんだ続いているのも、「すでに知っていたゲームだから」というのが大きい。
学ぶ意欲が――遊ぶために学ぶ意欲が――衰えている。
登山について勉強するのは苦にならない。が、これは「すでに始まっているから」である。
どんな分野も「始めるまで」がしんどくて、一度始まってしまえばさほど苦痛でなく、ルーティーンになればさほどコストをかけずに続けられる。
新しいゲームを買い、開封し、説明書を読み、コツをつかむ。その過程が昔は好きだった。というか、昔はその過程を勉強だなんて思っていなかった。
ゲームの「物語」が好きだったんだと思う。未知の世界に入っていくのが好きだった。説明書を読むのはそのための必須事項だから面倒でも何でもなかった。何なら、説明書をずっと読んでいられた。
説明書で思い出したのだけれど、スーファミ時代はソフトに必ず付いてきた「小冊子」の説明書がなくなったのはいつからだろう。モンハンの何かは小冊子だったはずだがモンハンXXあたりはもうペラ1枚だったと記憶している。何ページもの冊子を読ませず、ゲーム内のガイドやチュートリアルで説明するのがいつからか主流になった。そのおかげで、新しいゲームを始めやすくなったのは確かだ。でも、ユーザーが甘やかされて軟弱になったと思う(老害)。親切丁寧に教えてもらえることが当たり前になり過ぎて、「知らねば」という能動的な意識が弱まった。
そんな、軟弱者でも手を出しやすい今のゲームですら、僕は億劫だと感じている。
なんか、ダルい。
パッケージに描かれた「未知の世界」を、自分がこれから分け入っていく対象として見ていない。ただの絵だ。普通の平面に見える。
そういう意味で、ウマ娘を新たに始めたのは奇跡だったと言っていい。
実は、ライター業の関係で始めたのである。「新しいゲーム」としてスタートしたわけではない。競馬に興味はなかったし、「流行ってんな〜」ぐらいの認識だった。ウマ娘の世界に入っていくために頭脳や時間を使おうという明確な意志はなかったのだ。
ある日ふと、久々になんかちょっとゲームとかしたいなと思って、Appストアのランキングを見ていて、結局落としたのがパズドラだった。
知らない作品には食指が動かなかった。
面倒臭かった。
第一歩を踏み出す気が起きなかった。
パズドラならあらましがわかっている。潜在覚醒とかアシストとか新しい要素が増えていて、それらを覚えるのはやはり面倒だったけれど、あらましがわかっていたからさほどではなかった。
物事のあらましは「言語」にたとえられるかもしれない。覚えてしまえば大抵のことは何とかなる。覚えるまでがつらい。
子供の頃は何ともなかったことが、今はいちいち気合いを入れないとできなくなってしまった。
この衰えは、かなりまずいと思っている。
本来、勉強は嫌いじゃない。
最近だと、動画編集のやり方はかなりの勢いで覚えた。脚本やライター業は「調べて書く」の繰り返しだから、慣れている。
仕事ならやれる。
けれど、「楽しむために学ぶ」というケースにおいて、ハッキリとモチベーションが落ちている。
未来が見えるのだ。
恐ろしい未来が。
老後、書く意欲も登る意欲も失った僕が、どうやって日々を過ごしているか。
イメージできる。
できてしまう。
きっと僕は、スーファミのリメイクのスマホゲーをぽちぽちやりながら死ぬだろう。
――ああ、書いてしまった。
文字に起こすとより鮮明になるからやめておいたほうがいいのに。
新しいことを学ぶ元気はないから、そこに帰着することになる。
「子供は?」
すまない、そのコストは払わないと決めている。
自分を育てるのに忙しい。
代償として、老いた頃、自分の子孫を眺める楽しみとは無縁になる。
願わくば、老いないことだ。
今のところは、相当な年齢になるまで書くことも登ることも続けられるだろうと思っている。
実力が鈍りはするだろうが、意欲が消える予感はしない。
しかし、未来のことはわからない。
できれば、意欲を取り戻したい。
ゲームに限らないのだ。自分が「リタイア」した後、新しい何かを脳に入れる気概が死んでいたら、本も読めなくなる。今は自分が書くための糧として読んでいるところがあるから、書かなくなったら読まなくもなる可能性は否めない。
あまり長生きしたいとも思っていないが、生きてしまうならなるべく楽しく生きたい。最終ターンまで前のめりでいたい。
不思議とボードゲームに関しては知らない作品にも興味があるので、復活の芽はあると思っている。人と会えない世の中につき、完全に休眠しているけれど。
ゲームをやらなくなってしまった 森山智仁 @moriyama-tomohito
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