嫁くんと旦那ちゃん③
それから約2時間後……。
ボイスの原稿を完成させた海美が2階から降りて来た。
「ホ、ホントに僕もやるの? なんだか急に恥ずかしくなってきちゃった」
セリフを朗読し合うのなんて、学生時代の国語や現代文、英語の授業以来だ。それに僕は舞台俳優や声優でもなければライバーでもないわけで、ただの主夫なわけで……。
「つべこべ言わない! 手伝うと言った以上、手伝ってもらいます! 男は根性!」
「はい……根性でやります……くぅっ!」
こうして僕は2階の海美の自室に連行もとい連れていかれ、防音室内のマイクの前に座らされた。
「は~いじゃあ撮るよ~」
「……」
海美が指でカウントダウンし、収録が始まった。
原稿のおおまかな内容は、電脳世界に広がる情報の海より生じた情報体であるVtuber電脳 海美は、現実世界の本物の海を知らない。だからこそ自分の知る海とは違う生命の母たる海に思いを馳せながら、僕ら現実世界側の海、しいては夏の過ごし方を教えてもらい、情報体らしくその情報を学んで吸収していくという内容である。ちなみに販売するボイスなので、設定重視で配信時とはキャラも声のトーンも違う。
「私は情報の海から生じた情報体。産まれた、というよりは生じたという方が意味が合ってると思うわ。私は生物じゃないし、AIでもないの。情報体。限定的な情報の集まりだから、新しい情報を吸収したいの!」
「例えばどんな?」
「例えば……ね~。う~ん、私が今いるこの電脳空間、分かり易く言うとネットね。私は今、情報の海の上に立っているわ」
「海の上に立てるの?!」
「ええ、海とは言っても液体じゃないもの。データの集まり。どこまでも透明で、どこを見ても水平線。鏡のように空を映し、波も音もない」
「そっちには何も無いの?」
「何も無いって事はないわ。例えば、空には光が流星のように、時に稲妻のように行ったり来たりしてる。尻尾が炎のキツネもいるし、危ない物だとバグやウィルス、それに木馬もいるわね。皆が話し合ってる場所もあるわよ」
「話し合ってる場所? どんなところなの?」
「ほら、この青い鳥のマーク。このアイコンの中では皆が思い思いに呟いたり、話し合ったりしているし、カメラレンズのアイコンの中には短い動画がたくさん。少しづつだけど、こちらも広がっていってるの」
「現実世界がネットの世界に影響しているんだね」
「そう、現実世界からネットの世界に干渉する事は出来るの。この世界はそちらの人が作ったのだから当たり前だけどね。近い将来、こちらにも街や都市が出来て、現実世界と同じような世界がもう1つ出来るかもしれないわね」
「でも海には波も音も無いの?」
「ええ、ネットの世界に本物のような海は無いわ。あるとすれば、それは舞台セットのようなスケールの小さな模造品。本物の海のような水の冷たさも、海水のしょっぱさも無い、ただのデータ。だからあなたの世界の海をもっと教えて! 波としょっぱいのと、他にどんな情報があるの?」
「海にはたくさんの生き物がいるよ。色とりどりの魚に、ウミガメ、大きな生き物も泳いでるよ」
「へー! 海にはたくさんの生き物がいるんだね! 他には?」
「海の前には砂浜があって、夏は遊びに来た人にご飯を提供したりする海の家ってお店があったりするんだ」
「砂浜に、海の家……なんだか楽しそう! 人って夏の過ごし方も結構工夫するのね……そうだ! 海以外だとどんな夏の過ごし方をするのかしら?」
こうして、ボイス収録は進んでいき、なんとか無事に撮り終えたのだった……。
海美は設定通りに情報体として現実世界に興味を持ち学ぼうとしていた。だが僕は、台本を読みながら、ネット上の世界に……もう1つの世界に思いを馳せていた。
この世界、現実の世界に溢れているのは呪い。
誰も仮面の向こうは笑っていない、勝ってはいけない、抜け出してはならない、牽制し合う隣同士、負けてもダメ、劣っていれば捨てられ、隙を見せれば貶める。
うんざりするほどのマイナス思想かい? いいや、全部見て来たし、体験した事だ。
暴力も、嘘も、裏切りも、死も……疲れるほど経験した。
こんな世界! と何度叫んだか分からない。ああ……そっちの世界へ行けたなら……。
でも、僕は……彼女に出逢えた……同じように世界が求める普通から逸脱し、多くのペナルティを受けて来た彼女と、僕は出逢えた。
はじめて本当に手を……心を繋いだ……。
「お疲れ~。編集して、ばっちしマネに送っとく!」
「うん、緊張した~! あ、そうだ、配信やるんでしょ? 晩御飯は終わってから食べる?」
「ん、そうする。配信何時に終わるかは知らぬ」
「じゃあ温め直しやすい料理を作っておくよ。海美、今日頑張ったし、ご褒美にちょっとだけ豪勢にしちゃおっかな」
「!! マジ?! はいはーい! 私ご褒美ある方が頑張れちゃう子でーす!」
「あはは! わかったわかった。ちょっと期待しといて」
それじゃ、と僕は防音室を出て、そのドアを閉めようとして、ふと、足を止めた。ウキウキワクワクな様子でくるくる回って感情表現をしている彼女に、なぜだか今、こんな質問をしたくなったからだ。
「ねぇ、プロポーズの言葉って覚えてる?」
「ふぇ? えーっと、何だっけ? 嫁くんプロポーズの時、何て言ってたっけ?」
「僕が海美と空を支えます。だよ」
「ぉぉぅ! 面と向かって言われると照れますな~。感謝しとります! ってか、どったの?急に」
「ううん、聞いてみただけ。それじゃあお仕事頑張って」
「おう!」
本当はね、僕のプロポーズの言葉じゃなくて、海美が僕に言ってくれたプロポーズの言葉を聞いたんだよ。
『晴くん。……キミのエプロン姿が見たい!』
呪いだらけのこの世界で、彼女だけが、僕を真っすぐに見つめ、僕を必要としてくれた。
そんな彼女だからこそ
僕は―――
『僕が海美と空を支えます』
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