大海原のガーベッジ

林檎飴

本編

世の中にて忘れてしまうコトほど恐ろしいモノは無いでしょう。忘れてしまったモノは思い出すには中々難しく、思い出せてもイマイチ釈然としないのが当たり前なのですから。認識はリアルタイムのみが確かで、数秒前は二度と戻ってこないものです。

今を大切に生きようともいずれ過去へと移ろってしまう。一瞬一秒で全てが胡散臭くなってしまう。


ともすれば、一度手放してしまった物事というのは先の未来、いったい何で真贋を付けるのでしょうか。コトの発明者やモノの持ち主はいかにして判別すれば正しいのでしょうか。


嘘と真実は二律背反に見えても実は大差がありませんように、永遠の真実というのは、世界に存在するかも怪しい概念なのです。

ソレがあったとしても、我々人間が認識出来るかどうかが分からない。かくも人間とは面倒くさい生命なのでしょう……。




***




例えば浜辺に落とし物がぽつんと一つ佇んでいるとしよう。年季の入ったソレは何であっても構わないが、持ち主と思しき者の名前が刻まれていないのが適当だ。その使い古されたであろう落とし物を、誰かが見つけたとすれば果たしてそのブツの所有者は誰にあるのだろうか?───もっとも、この世界ではそのブツは貝殻に限られる故無記名だが。




「───」




一人の美少女は浜辺の静けさに包まれるように座っていた。ぺたんと腰をつけて、貝殻のように美しいワンピースのお尻のところを汚していた。夏風は生暖かくて曇っていて、少女は左様な環境下にて耳を遊ばす。耳元に貝殻を当てているのだ。紺鼠色の髪の毛はさわさわと夏風に揺れている。少女の顔立ちは何とも愛らしかった。

少女の耳には何処からか漂流してきた貝殻。殻の中に内包された幾千の記憶が、彼女の耳へと、凄惨な過去いつかを想起させるが如く響いている。


空はすっかり暮れていて、陽光はドクドクと蠢いて世界が鼓動しているよう。少女は貝殻を介して、自然世界の内臓にでもなろうとしているようにも見られた。その姿は自然を擬人化したかのよう。

この浜辺には少女が一人だけいて、まるでを待ち続けているようにも見受けられた。


いずれにせよ、彼女は世界をしっかりと視界に切り取れていない。世界を別次元から俯瞰しているという訳でもなく、ただ単に視認した景色の輪郭をぼやけて彼女は観測してしまっているのだ。


虚ろ目の少女が手当り次第貝殻の音を貪り始めて、約■年経った。


変わらない毎日。相変わらず夏風だけが吹く永遠の夏。

郷愁なぞこの世界には無く───つまりは此処は死後の世界なのである。




「……きれい……」




***




「どうですか、此処に辿り着く以前のコトは何か思い出せましたか?」




瞳に新鮮な光を見せないままの少女は首を横に振って、それっきり静止する。

波の音だけが静かに鳴っていた。




「…………過去の貴方はもう死んでしまって、次の世界に転生するのですよ?何故そこまでして所有権を失くしてしまった人生のコトなんかを思い出そうとするのでしょう。新たな世界へ生まれ変わってさえしまえば、どうでもいい記憶だというのに」




なにせこの世の中、転生後の世界で元の世界の記憶を保持したままでも郷愁を感じるコトなく、今という時間を楽しむ人種も一定数いるくらいである。その彼らは、転生前の思い出を失っても困らないと言わんばかりの喜びを振りかざす生き物だ。そしてきっとソレが普通なのだ。

けれど彼女はそういった人達の仲間には入れないらしく、ひたすら確かにあった筈の時間の記憶を求め続けているらしい。


後ろ髪を引かれるほど魅力的な人生であったかは分からないが、それでもタダで失うには惜しいらしかった。




「あとその貝殻の記憶、たぶんハズレですよ。転生過程における中間地点がこの世界ですから、色んなモノの記憶が混在しているんですよね。天使さんの話聞いたでしょ?」




それを聞いて少女は貝殻を下に落とした。貝殻を掴んでいた手から力が抜けたらしい。彼女は暫くの間呆ける事になった。

その様子を見た後ろの大人びた麗人は彼女を哀れに思ったのか、なるたけ少女の事情を聞き出す事に決めたのである。




「記憶ってそんなに大切なものですか?」

「……たまに、夢でみるんです」

「前世の記憶をですかい?」




弱弱しく少女は首肯した。なるほど、何やら彼女は度々見る記憶の光景が、その実前世の人生によるモノなのではないかと期待している訳だ。死人が夢をみるというのもおかしい話だけれど、永眠をとっている訳だし無い話でもないのかもしれない。




「どんな夢をみるの?」

「───よくわかんないけれど、素敵すぎる夢」

「むぅ、曖昧な感じ」




夢の内容なんてそう鮮明に覚えていられるものではない。それでも確かに、彼女は起床する度に夢から”暖かな”感覚を持って帰って来るらしいのだ。




「曖昧なモノでも思い出したいのですか?思い出せないのならば、大した人生じゃなかったのかもしれませんよ?」

「───確かに貴方の言う通りなのかもしれません。私のような臆病な人間が自分を貫く英雄のように泥臭くて綺麗な英雄であったとは思えませんもの。ごくありふれた一般人の追憶なんて無意味なコトなのでしょう。そも最近の貝殻に、運命を覆すような英雄なんてものは存在する訳ないのですし」




少女の瞳は波打ち際のように、閑寂に揺れた。




***




さて次の日。少女は同じ浜辺で、またまた貝殻の奏でる”運命の音”を聴いていた。此処に流れ着く貝殻というのは、持ち主を失った記憶が内包されているのだ。

少女の耳にて佇む物語のメロディは小さなものであったが、彼女にとっては潮騒のように広大に騒がしかった。




「それもたぶんハズレですよ」

「……」




昨日と同じように少女は貝殻をぽとりと落とす。彼女は後ろを振り返り、どうにも白昼夢でもみているのかという目つきで一人の麗人の姿を認めた。




「初めてですね、私の姿を確認するのは」

「あなた、誰……?」

「ここ最近、ずっと話しかけては現実を叩きつけてきたお姉さんですよ」




空は暗くて冷たい天気模様である。でも相変わらず空気は暑くて雨は降らない。少女は麗人の顔は伺えなかったけれど、声色はいつも通り涼やかなものであった。




「……じゃあ、また今日も夢も希望も無いコトを言いに来たんでしょうか?」

「いいえ。夢と希望しかありませんよ。なにせ今日はを持ってきたのですから」

「───えっ!?」




そう言うと麗人は少女に一つの貝殻を見せてくれた。曙光が射したかの如き少女の瞳には、あまりにキラキラな貝殻が映っている。貝殻は、暗雲を断つ月の光芒が如きの輝き。空模様なぞ気にもならぬ宝石であった。




「……でしたら……その……」

「もとよりこれは貴方の為のモノですゆえ、無論、貴方にあげますとも」




かくして少女の手には一つの貝殻が渡った。貝殻の感触はつるつるとしたもので、これまで触れてきた他者の記憶が内包されてあった貝殻より特別に感じられた。




「貝殻の音、聴いてもよいでしょうか?」

「ご自由に」




少女は満面の笑みを浮かべて、貝殻が奏でてくれる音に想いを馳せるのであった。




***




「ああ素敵な私だけの王子様、貴方との人生が大好きでした。これ以上もう、私は何も望むことはありません。ですから、もうそんなに涙を無邪気にさせないでください。もう少し子供を抑えてください。一人の親である貴方がたかが人間一人の死でそう感情を高ぶらせないでくださいませ」




一人の綺麗な女性は言う。血だらけ。戦争によって壊された人間が彼女である。空襲が理不尽にも街一つを焼き尽くされたゆえ、住民たる彼女も被害にあったのだ。

女性は無事であった夫に赤ん坊を預けて、涙も流さず健気に笑う。


───そう、彼女にはなにせ悔いがまるで何も残っていなかったのである。


これまでの人生はとっても幸福なモノで、これ以上続けてしまっても蛇足にしかならない。

彼女の人生はそれ以上でもなくそれ以下でもない。

死後持ち帰るべきでもなく、墓に大切に保管しておくべきなのだ。




「……私という一人の人間の人生は、今回限りのものなんです……」




***




豪雷雨を想起させるが如き貝殻の調べが、少女の耳でじんわり。少女はそのあまりにも切ない音色に心を曇らせた。

気付けば暗雲も晴れていて、世界に朝がやって来たようであった。もっとも、時分は夕方の後半だけど。




「その貝殻が貴方にふさわしい記憶です」




ドクンと少女の心臓が跳ねる。そうかこれが自分の歩んできた道のりなのか、と。

悔いなく終えられたのが前世の私なのであるのか。ただ美しいだけの人生が私であったのか?




「ともすれば、私がここで前世の記憶に固執してしまっても昔の私を裏切るだけになるのですか……」

「そうです。ですから、前世の貴方の物語はもう終わっていて、これからは新たなる人生に思いを馳せていれば十分なのですよ」

「……嘘です。私の人生がこんなに臆病なモノであった筈がありません」




少女は信じられないといった表情を麗人に向ける。まるでこれは偽物の記憶だと言わんばかりの眼光を彼女に放つ。しかし麗人はまるで気にするそぶりなど見せない。寧ろ勝ち誇ったかのような表情をしている。




「それが嘘だとは言える権利は私にも貴方にもありません。ですが、少なくとも私は本当にこれが貴方に相応しい記憶だと思っているのです」

「…………」




彼女と少女はここ一週間の仲であり、また同じ境遇───すなわち前世の記憶を失った死者なのである。仮に前世で二人が知り合いであったとしても、ここでは意味の無いモノとなる。ともすれば、ここで取り扱われる彼女の前世のイメージは、本人の感覚と他者からの印象の間で漂流しているコトになる。




「私が思う貴方はそんな人だったと、少なくとも私は自信があります。それでも貴方はソレを違うと断定出来るだけの感触を今の貝殻の音色から感じとれたのでしょうか……?」

「…………じゃあ、貴方は何故これが私の記憶だと自信を持てるのですか?」




容易には浜辺に流れ着かない、海洋でぷかぷかと浮かび揺蕩う漂流物。

陽の光で時々うっとりと照るような漂流物。

海中に沈むか沈まぬかの瀬戸際の中、どこに辿り着くか分からずとも風と水に流されるだけの漂流物。

そして、その失われた記憶の所有権は誰かの手に渡る、つまりは漂流物。


───人の死後のお話……所有権がこの世にない記憶とはそのようなモノなのかもしれない。

世界の落日はとうに終えていた。




「だって、その愚直に待ち続けるだけの精神性があまりに清らかですもの。雨の日であろうと貝殻の音を聴き続ける貴方は綺麗だった」

「それだけ?」

「少なくとも今まで貴方の聴いていた泥臭いモノよりかは近いのではないかしら」




***




遠く夜空に星は流れる。結局麗人の言葉を最後まで認めなかった少女は、彼女に先ほどまでの貝殻を返した。「私はそんな人ではない!」と拒絶したのであった。仕方がないから麗人はその貝殻を持ってドコカへ去った。「私もこんな美しい人生だったらよかったのに……」と呟きながら。


少女は見送る事なく彼女と別れた。これから夜明けにその麗人がこの世界から消え、別世界に転生するコトなんて知らずに。


普段であればこのままうたた寝してしまうのだけれど、今日はまるで睡魔がやって来ない。仕方がないから少女は海の音を聴きながら新たな貝殻を探すのであった。徹夜はたぶん初めてだ。




「……綺麗じゃなくていいから、躍動感さえあればそれだけでいいから……」




裸足で彷徨う彼女の姿は、夢も現も分からぬ蝶かな。ひらひらと舞うように浜辺を歩く少女の瞳は真っ暗闇であった。行く先を魂では分かっているくせにどこか尻込みしてしまうのだ、こいつ。


「自分のかつて歩んだ人生を探す」と彼女は言うけれど、ソレはいつか自分についた嘘。過去の私が素晴らしいものであったと認めたいがゆえの宝探しなのである。


でもそんな彼女にもガタがきていたらしい。




「……どうせ私はあの人が言った通りのシンデレラなんだ。強い女の子じゃないんだ、自分を貫く英雄のように」




自身の魂の在り方が理想の過去を空想だと言う。この世界で迷う時間が積み重なる度に現実が後から追って来る。

いくら所有権の無い記憶を自己投影しても無意味なんだ。誰に所有権が無くとも他人の人生は奪えない……。

だったらせめて最後に夢を。数多と流れ着いてきた彼女の大好きな記憶に夢を。


叶わなかった理想の私を想いながら生まれ変わるしかないのだ。

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