一荒に新ためる・漸
朝日はまだ地平線の下にあり、けれど黎明が木々の隙間から森に入り込んで光を普いている。
人の踏み入れた道はなく、けれど実景と奇乃は木の幹を避けながら着実に標高を上げていく。
二人が手つかずの山を登るのは、他人に迷惑をかけずに決闘を果たすためであった。
大切な道場を傷物に出来ないと判断した二人は、人目のない山奥で闘うことを決めた。
先を行く実景が、木々の空隙に立ち、足を止める。
奇乃がその背中を追い越して行けば、険しい斜面が崖のように切り立って端を描いていた。
奇乃の眸に、山の稜線を越えてきた太陽が現れて、世界を明るく
奇乃は目を細めて、その景色を眺めて。
そして実景に振り返った。
実景もまた、世界と同じく、黄金に染まっていて。
当たり前のように美しく表情を引き締めていた。
奇乃は、その顔を見ただけでも胸が詰まる想いがした。
だから、ここから先は想いの丈を吐き出すことにする。
奇乃が地面を踏み抜き。
実景が地面を踏み締めた。
奇乃の起こした震脚が、実景の足に踏み潰されて行き場を失くし、外へと迸る。
ざぁ、と木々が全身を揺らし、老いた葉を振るい落した。
奇乃が口角を持ち上げた。
「
ずっと自分を諫めていた教えを諳んじる。
それは漸くそれに従って、かつ、自我が解放されるのを実感する慶びだ。
実景が一足で跳んだ。
彼我の距離などまるでなかったかのように、瞬時に間合いに飛び込む。
縮地と一体に、実景は拳を伸ばす。
至近で空気と擦れて
左手を押しこみ、体を捻って、威を受け流す。
奇乃の背後に位置していた空間が、破裂して風と音を生む。
奇乃は左肘を繰り出された実景の拳に繋がる肘に当て。
右手の伸ばし腕を掴む。
体を割り込ませて、実景を背負う体勢を作る。
変則の背負い投げを繰り出そうとして。
奇乃の腰に、実景の腕が纏わり付いた。
ぎちりと、もやい結びした縄のように、奇乃が引く力で実景の腕が締め付ける。
奇乃の肩幅に開けた足の間に、実景の右足が差し込まれる。
奇乃は右足を上げて、払われるのを躱す。
二人の足が同時に地面を踏み締めて、土を躙る。
奇乃は両腕に力を込めて、実景の片手を空中に押さえつけた。
奇乃と実景では、実景の方が僅かに自力が勝っている。
数値で例えれば、お互いに五桁の膂力を持ち、その差は百前後だ。ただし、それは一般成人男性一人が発揮する膂力に等しい。
実景が両手で奇乃を抱えれば、奇乃は放り投げられるのを耐えられない。
組み合いの状況は奇乃に不利だった。
だから奇乃は右手を放し、腰に絡まった実景の手の甲に爪を立てて抓り上げた。
びくりと実景の手が跳ねて、奇乃の腰を放す。
その刹那を逃がさず、奇乃は身を捩って密着を振り解いた。
三歩、ステップを踏んで、奇乃は間合いを取る。
仕切り直し。
お互いに高揚も落胆もない、平静とした心持ちで相対する。
小手調べにも満たない、相手の確認は済んだ。
奇乃からすれば、実景は夢にまで見た強敵だ。身体能力は僅かに奇乃を上回り、試合として縛りがあったなら、十回勝負して九回は負けるだろう。しかし、真面目な性格と今まで実戦を拒否したことが災いして、礼儀正しいまでに型通りの動きしか出来ず、また動きにも錆び付きがあって動作に荒さが見える。尤も、奇乃だからこそ分かり、付け入る隙になるだけの完成度ではあるけども。
実景から見れば、奇乃は恐ろしい程の強敵だ。動きの見極めも周囲の把握も、実景より遥かに優れていて、そこから組み立てられる流れを実景は捌けない。無理矢理、力任せに竿を立てるように割り込んで食い止めるしかなく、体力を消耗する。
そう、体力こそが実景にとって最大の弱みにあった。他の膂力は同等か実景が優っていると見立てているけど、体力は逆だ。実景は同じだけの消費なら先に動けなくなるのは自分の方だと想定して彼我の戦力を計る。稽古を怠ったツケを実感する。それに流派を持たない奇乃は、決まった連がある訳ではなく、むしろなんでもありだ。格闘の果し合いで、女子のケンカみたいに手の甲を抓られるなんて思ってなかった。
チリチリと、お互いの思考が相手の次を探り、手の潰し合いが空気を焦らす。
奇乃が震脚を放つ。
実景が足を踏み締めて、振動を砕く。
どちらも、立ち位置を一ミリとして動かさない。
「羅ァ!」
実景が裂帛の気を放つ。
並の相手なら、それだけで身が竦み、動きが硬直しただろう。
だが奇乃は一睨みでその闘気を打ち据える。
奇乃の背後で、落ち葉が舞い上がる。
さらに実景が遠当てを打つ。
空気が打撃を伝えて、奇乃の体に行き着いてその威を顕す、それを。
奇乃は右手を体の前で回し、空気を巻いて、打撃を実体ある拳であるかのように、いなした。
奇乃の左足の横で、地面が抉れた。
奇乃が右足の裏で、石を一つ踏み付けて、転がした。
足の裏から逃れようと石が空中へと弾けた。
奇乃はその石を蹴り抜き、実景に向けて飛ばす。
実景は手の甲を上から振り下ろし、向かって来た石を叩き落す。
その隙に、奇乃が縮地で実景に迫る。
実景の振り切った右腕が返ってくる前に、奇乃が左の拳を実景の右肩に向けて繰り出す。
奇乃の手に向けて、実景が左手を伸ばしてきた。
後出しであっても、実景の方が速いから辛うじて間に合ってしまう。
奇乃は即座に左手を引っ込めて、入れ代わりで右手の掌底を押し出した。
奇乃は、実景が伸ばした左腕の肘を狙ったが、触れたのは二の腕だった。
奇乃は構わず、緩めた肘を弾いて、徹甲榴弾の如く後追いで衝撃を叩き込んだ。
けれど、実景は拳を握り締め、筋肉を収縮させてその衝撃を弾いた。
反動で奇乃の右手が退き、実景は右手を体に引き寄せる。
奇乃の左拳と実景の右の掌底がぶつかり、お互いを弾き飛ばした。
奇乃が続けて右の拳を走らせる。
その手首を実景が打ち据えて、奇乃の拳は彼女の頬の横の空気を切り裂いた。
実景の眼前に位置する自分の肘を、奇乃は押し出す。
実景は右足を大きく後ろに退げて、体の位置をずらした。
奇乃の肘が衝突するのが、本来よりもコンマ二秒遅れる。
その遅延は、実景が奇乃の肘を掌底で迎え撃つのに十分だった。
奇乃が体重を乗せた肘は、実景の掌を突き破れない。実景は多少体勢に無理があるのにも関わらずだ。
奇乃の腕の力では、実景の腕の力を突破出来ない。
かと言って、蹴りを繰りだせば、実景は軸足を払ってくるのが目に見えている。
それで地面に転がれば、実景は力任せに奇乃を組み敷くだけで押さえつけられる。
だから奇乃は、上半身を地面へと落として、その回転を使って実景に向かって足を振り上げた。
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