一荒に祓いし先に

 夕忍ゆうしのぶ廊下を歩いていた奇乃あやのは、学校帰りで制服のままの実景みかげに後ろから飛びかかられて、前に仰け反った。


「ぐはふっ!?」


 奇乃は不意打ちを喰らって肺から空気を吐き出した。


 咄嗟に右足を踏み出して体を支え、倒れるのだけは堪える。


「奇ちゃん、聞いてー!」

「危ないですの、急に飛びつくんじゃありませんのー!」


 実景の歓声と奇乃の絶叫が一緒に屋敷を突き抜けた。


 奇乃に叫ばれた実景は、目に涙を浮かべる。


「ふぇえ! ごめん、奇ちゃん嫌いにならないでー!」

「こんな下らない理由で見捨てる訳がありませんの。見くびらないでほしいですの」


 慌てふためく実景に、奇乃は呆れて果てる。


「ほ、ほんと?」


 実景は、いさよわしく上目遣いに伺う。


「はいはい、友達ですよー。仲良しですよー」


 奇乃は子供をあやすように、実景の頭を撫でてあげた。


 それで実景は機嫌を良くして、にへらを相貌を崩す。


「それで、なにか話したいことがあったんじゃないですの?」

「あ、そうだ! わたし、一人を選んだよ!」


 実景が勢い込んで話すけれど、奇乃は目を平らかにして見返すだけだ。


 しばし、沈黙が続く。


 奇乃は三、四度、瞬きをして、首を傾け、天井を見上げて、そして実景に顔を戻す。


「なんの話でして?」

「覚えてないの!?」

「……なにをですの?」


 昨晩の会話が完全に覚えてないと言われて、実景はがっくりと床に手を付いた。


 奇乃は自分が悪いのを察しているけれど、心当たりが全くないので悪気も持てないでいる。


 ただ、実景が何かを頑張ったんだろうなとは理解した。

 そしてそれが、例のクラスメイトに関することなんだろうとも。


 精神を観ても、かなり安定しつつあるのが分かる。


 だから、奇乃はふっと息を吐いて笑った。


「よくわかりませんけど、いいことがあったみたいでよかったですのー」

「むー」


 しかし、奇乃の知らないところで一大決心をして、今までの人生で起こらなかった一大イベントを成し遂げた実景は不満で唸る。


 唸ったけれど、数秒も経たずに肩の力を緩めた。

 奇乃があの時に眠気に負けていたのは、実景にだって分かっていた。何かと人並み外れた奇乃だから、それでも覚えているかもと期待をかけたのは、実景の勝手である。


「奇ちゃんが来てくれて、わたしは変われたと思うの」


 でも、奇乃が実景の躊躇いや自己否定を、真剣に打ち破ろうとしたのは本当だ。


 時には実景を傷つける言葉でも、振るった。


 人の弱さは、人の一部なのだから、それを取り除くには痛みを伴うものだ。


 それを奇乃は恐れず、手元を狂わせず、丁寧に接してくれた。


「あなたは、わたしの思い込みを一荒に薙ぎ払って綺麗にしてくれたんだよ。ありがとう」


 真っ直ぐに奇乃を映す実景の愛鏡まなかがみに、きょとんと目を見開いた顔が宿る。

 それはすぐに、にこりと微笑んだ。


「まぁ、こんなに成長して、感慨深いですわ」


 奇乃は、実景の脇に手を差し込んで立ち上がらせた後に、誇らしげに自分の胸に手を添えて、背筋を伸ばす。


「それで、一荒に、ってどういう意味ですの? あの、未言っていうものですの?」


 奇乃は、実景が口にした聞き慣れない表現が気になっていた。


 実景がその言葉に大きな意志を込めていたのが観えていたからだ。


「うん。一荒に、は、自然災害みたいなのが、あっという間に被害を出して通った後を更地にすることだよ」


 実景は、自信満々、満面の笑みを浮かべて、その意味を語り。


 奇乃は、大きな納得と共に、意地悪く笑みを描いた。


「つまり、実景ちゃんにとって、わたくしは災害でしたのね。悲しいですわー」

「うぇあにゃはぅあ!? ち、ちがうよ! いや、違くないけど、いい災害だよ!」

「いい災害という言霊はインパクトが大きいですわね」


 一体どこから出てきたのか分からない程に奇抜な実景の魂の叫びを楽しんで笑いながら、奇乃は肩を竦めた。


 どうやら、もう十分に役目を果たせたらしい。

 そう思えば、奇乃の眸は、自分でも意識しないままに細まる。


 それつまり、もう実景の側にいなければならないという理由が薄まり、家に帰らないと親が心配と怒りを募らせるという理由の荷が勝つということだ。


 それとなく実景に、闘ってもらえるのを待っているのが無理になったと納得してもらって、帰路に就くべきだった。

 親が遂に堪忍袋の緒が切れたとでも言えばいいかと、奇乃が思考を巡らせていると。


 実景が一歩、間合いに踏み込んで、奇乃の目の前に立った。


 咄嗟に奇乃は思考を打ち切り、顔を上げて、気を張る。


 実景は強い。

 間合いに入られて、意識しないではいられない。

 鼻がもう少しで触れそうなくらいに顔が近づいている今、奇乃は最大の警戒を全身に張り巡らせる。


「奇ちゃんは、わたしのお願いを聞いてくれて、わたしの願いを叶えるのを助けてくれた」

「え? まぁ、そうですけれど、わたくしが自分からしたことですから」


 改めて、何を言われているのかと、奇乃の思考は空回る。


 普段と違って、冷静な思考が働かない。


 実景の息遣いが、目の動きが、指の軌道が、奇乃の集中を奪い去る。


「だから、今度はわたしが奇ちゃんのお願いを叶える番だよね」

「ええ、でも別に断られてもわたくしは何も気に致しません――なんて?」


 奇乃の気が逸れた思考は、勝手に、いつも通りに実景が闘いたくないと言ったのだと前提して返事をしていた。


 けれど、ほぼ最後まで口から出たところで、自分の答えている内容が、奇乃の申し出に噛み合ってないのに気付いて、やっと聞き返す。


 見れば、実景は頬を膨らませて不機嫌になっていた。


「奇ちゃんてば、いつもわたしの言うことちゃんと聞かないで返事してたの?」

「い、いえ、そんなことはなくってよ」


 実際、奇乃は今まで実景の話をちゃんと聞かなかったことはないのだけれど、今は確かに反射で思考を介さずに受け答えしていた。

 その言い訳出来ない罪悪感で、奇乃はしどろもどろに返事を突っ返させる。


「もう」


 実景は怒ってます、と腰に手を当ててポーズを見せた。


「わたし、月見里やまなし実景は、丹堂にどう奇乃さんから申し出された果し合いに応じます」


 それから、もう一度、はっきりとゆっくりと、定型に則って、もう一度実景は申し出た。


 それでも奇乃はやっぱり信じられなくて、自分の頬を抓って、これが夢でないのを確かめていた。

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