魔溢して傷つける

「奇ちゃん!」

「はいですのー」


 学校から帰ってくるなり、随分と勢い込んで呼びかけてきた実景みかげに、縁側で涼を取っていた奇乃あやのは相変わらずに間延びした声で返事をした。


「聞いて!」

「聞いてますのー」


 ダン、と実景が床に手をついて四つん這いになると、その衝撃で一瞬だけ奇乃のお尻が浮いた。


 普通の人間なら、害意がないと分かっても怯える振動だろうが、奇乃は平然とそれを受け流している。


「あのね、昨日の子がね、クラスメイトだったの」

「あら、それは良かったです……いえ、待ちなさいませ。貴女、昨日はそんな話しませんでしたけれど、まさかクラスメイトの顔も覚えてなかったんですの?」


 きらきらと、幸運が舞い降りたと全身で主張してきた実景だったけれど、奇乃が自分の台詞の途中ではたと気付いて目元に陰を落とした途端に、さっと顔を背けた。


 その雄弁な態度に、奇乃は実景の頬を抓って引っぱり、顔を自分に向けさせる。


「毎日同じ空間にいる相手の顔も覚えてないとか、貴女、友達作る気本気であるんですのー! 欲しいものがあるのに努力を怠るとか論外でしてよー!」

「いひゃ! いひゃい、いひゃいでひゅ、ごみぇんなひゃいー!」


 奇乃の本気の体罰に、実景は一秒も耐え切れずに泣き言を叫んだ。


 きっちり一分かけて実景の頬を伸ばし切ってから、奇乃は指を離す。


 すっかり赤くなった頬を実景は涙目で擦って、自分を慰めた。


「まぁ、いいですの。それで、折角縁したんですから、話しかけるくらいは出来ましたの?」


 奇乃はどうにか気を取り直し、今日の成果を改めて訊ねた。


 しかし、実景の表情は余り芳しくない。


 これで声をかけるタイミングが見つからなかったとか言い出したら、拳骨を落としてやろうと、奇乃は手を握る。


「あの、ちがうよ、声をかけようとしたら、こう、ダメって目で訴えられて、それで後から人のいないとこでね、自分と話すのは良くないって言われて……」

「どういうことですの?」


 奇乃は要領を得ない実景の説明に眉を寄せた。

 口振りからすると、そのクラスメイトは実景を気遣っているようにも聞こえるが、助けてくれた相手を遠ざける理由が、奇乃の感性では分からなかった。


「あのね、彼女ね、自分はみんなから除け者にされてるから、関わるとわたしも無視されるよって言ったの」


 だから、実景が口にした、余りにも一般的で馴染み深い、虐めという理由を聞いても、奇乃は首を傾げるしか出来ない。


「人に無視されて、なにか困ることがありますの?」

「……えと、無視されることが、困りませんか?」

「別に、それで死にませんでしょう?」


 ぱちくりと、二人の乙女は目を合わせて瞬きを交わした。


 人間関係を重視する度合いの違いが、奇乃と実景の間を相互不理解の深い溝で隔てている。


 奇乃は実景の鼻先に人差し指を立てた。


「実景ちゃんは、友達でもない相手に無視されたくらいで、困りますの? というか、それ、現状と何か違いがあるんですの?」

「……ない、です。ないですけどぉぉぉ」


 現実を突き付けられた実景が床に崩れ落ちて、さめざめと泣き始めた。


 他人に話しかけられなくて、関係性を何も持っていないのと、無視されて関係性を拒絶されるのと、結果として出力される現実は丸っきり同じなのである。


 しっかりと現状を自覚させて齟齬を取り払った奇乃は、容赦なく話を進める。


「では、実景ちゃんは選べるってことですわね」

「選べる? なにを?」


 奇乃を見上げて問いかける実景に、奇乃はそんなことも分からないのかと溜め息を吐き捨てる。


「実景ちゃんは、その虐められている一人と友達になるか、彼女と距離を取って他のクラスメイトに馴染んで過ごすか、好きな方を選べるのですわ」


 奇乃は、食い入るように羨望の眼差しを向ける実景に、つらつらと二つの選択肢の未来を述べる。


「実景ちゃんなら、何かあれば昨日みたいに彼女の手を取って害悪の手から逃げるくらいは出来るでしょう。こちらから手を出さなければ誰も傷つきませんし、それで実景ちゃんの強さが分かるなら、そもそも手出しをしませんしね」


 奇乃は一度息を吸って、乾いた口を閉じる。

 じわりと口内が湿ってから、また口を開いた。


「彼女をそのままにしても、まぁ、恨みはしないでしょう。今のままですし、実景ちゃんが巻き添えになるのを厭うくらいには優しく物分かりのいい方みたいですしね」


 だから、実景自身の意志で、どちらの道でも選べるのだと奇乃は告げた。


 選択肢を差し出された実景は……目を泳がせている。


 戸惑い、怯え、自己卑下、自信の無さ、依存、懇願、弱さばかりが次々と瞳に浮かび、沈んでいく。


 奇乃はもう何も言わずに、目を細める。

 実景がどう決断するのか、それを待ち、今の精神の在り方を見極める。


 そして実景は何も言えないまま、俯いて固まってしまった。


 奇乃の眸にも、停滞して考えを放棄した精神の凪が映る。


「自分で選べないなら、どんなに欲しがっても、何にも手に入りませんわよ。誰も彼もがお母さんみたいに貴女を見ていて、心を汲み取って、差し出してくれるわけではありませんわ。むしろ、そんな風にしてくれる人はほぼいないんですの。誰だって、自分の気持ちをどうにかするのに手一杯で、他人なんか気にしてられませんもの」


 仕方なしに、奇乃はその場から立ち上がって、実景を残して去っていく。


 実景が咄嗟に伸ばして、しかし伸ばし切れなくて奇乃の服の裾に届かなった手を、気付かなったふりをして、奇乃は実景の視界から立ち去った。

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