初竟に強き者の悩み

 奇乃あやのは庭に立つ。


 クマゼミが空気を掻き混ぜる中、瞼を閉じ、呼吸を整え、意識を研ぎ澄ます。


 ゆっくりと瞼を持ち上げて、地面に付けた右足を踏み締めた。


 足の裏で、小石が一つ擦れて転がり、足の端までやって来て、足と地面に挟まれた圧力の切れ目に向かって弾け飛ぶ。


 奇乃はその瞬間を過たず、右足を内に捻ることで、小石の運動ベクトルを右方向から上方向へと転換させた。


 奇乃の右肩に小石が跳ね飛ばした空気が微かに当たる。


 右足を軸に、体を回す。


 左足を振り上げて、蹴鞠のように小石の軌道を真上にして跳ね上げた。


 小石は月見里やまなし家の母屋の瓦を越えて、一瞬の停止の後に落下する。


 その小石に向けて、奇乃が右足を振り抜き、上段蹴りを放つ。


 靴を隔てて、奇乃の足の甲を滑る小石は、回転モーメントを加えられて空中に停まった。


 コンマ二秒にも満たない静止時間に間に合わせて、奇乃が右足を往復させて、今度は踵を上向きに動かして小石を空へ飛ばした。


 跳ねて跳び、それ相応の速さに落ちる小石を、今度は右膝を上げて空に返す。


 与えられた運動エネルギーが少なかった小石は、奇乃の目の高さまでしか上がらない。


 その位置に向けて、奇乃は膝を曲げた左足を伸ばし切り、人の顎を打つように真っ直ぐに伸ばす。


 爪先で溜めの入った力を与えられて、小石は太陽に向かって突き刺さらんとする。


 奇乃の右足が、三度翻った。


 右下、左下、真上とほぼ同時に三点から打撃を与えられて、小石が空中で行き場を失くす。


 今度は左足が躍り、小石は左右から打ち付けられた。


 いい加減、重力に引かれて落ちようとする小石を、奇乃は右足の甲で掬う。


 左足に力を籠め、体の発条を弾いて縦に一回転すれば、右足に乗っていた小石はまた空へと放たれた。


 胸の高さを起点にして円を描き、最小半径でまた地面に返った奇乃は接地した足で即座に跳ねて、もう一回転する。


 右足の踵から跳ね上がった勢いを叩き付けられた小石は、そこで破裂した。


「……加減を間違えましたわー」


 心なしか、しょんぼりと落ち込んだ声音を溢して、奇乃は小石が砕けて砂になった粒が散らばったであろう地面を見下ろす。


「いや、今のなんですか。どうやったらあんな人外みたいなことできるんですか」


 奇乃に声を掛けようとして、しかし今の小石を使ったリフティングが始まって傍観していた充雅みつまさが、思いっきり引きながらそんな感想を述べる。


 なお、リフティングと表現したが、完全球体で空気を内包し、柔らかく跳ねて動きも素直なボールと、形が歪で触れた面によっては明後日の方向へ跳び、固く蹴り上げる勢いと部位を間違えれば出血もするような小石とでは、言うまでもなく難易度が段違いである。


「石の向きと蹴るタイミングを計ればできますわよー。相手の動きを見極める目とそれに最適化した動きを実行する鍛錬ですわね」

「もしかして、人間よりも三倍くらい速かったりします?」


 言外に、人間業じゃないと指摘する充雅に、奇乃は微笑みだけ返した。


「人に見られてるから格好良い動きをしてたら、つい加減を間違えてしまいましたわ。やっぱり見栄なんて張ったらダメですわね」


 奇乃は肩を竦めながら、充雅の立つ軒先に腰を降ろした。


「それで、わたくしになんの御用ですの?」


奇乃が自分の横をポンポンと叩くと、充雅はそこに屈んで膝を抱えた。


「いやー、奇乃さんって物凄く強いじゃないですか。なんでそんな強くなれたんだろうなって、理由が知りたいんですよね」


 強さを目指す者は如何なる分野でも自分の限界を見つけてしまう。

 それを乗り越える原動力があれば先に進み、そうでなければ挫折する。


 充雅は、自分より先にいる者がどんな気持ちで鍛錬を続けて強さを目指し続けられたのだろうかという純粋な疑問だった。

 或いは答えを前借りしたがっているのかもしれない。


 そんな本音の一端を告白した充雅を、奇乃はきょとんと見つめ返す。


「え、ありませんわ、そんなもの」

「はい?」

「だって、わたくしは強さを目指して強くなったんではなくて、思う儘に生きて強くなってしまっただけですもの」


 けれど本物の強者とは時に残酷なもので。


 奇乃はあっけからんと、そんな苦悩にぶつかったことなんてないと宣った。


わたくし、強いお方と闘いのは確かですけれど、そのために強くなろうとはしてませんわ。わたくしと同等のお方と闘いたいけれど、それは強者しかいないだけですわ」


 弱かったら、相手は選り取り見取りだったんですけれどね、と奇乃は茶目っ気を出してぺろりと赤い舌を見せた。


 そんな本心を告げられてしまって、充雅からしたら全く参考にならないと絶望の限りだ。

 現に、脱力して膝を抱える腕に頭をのめり込ませている。


「貴方は自分の強さが足りないと感じているんですの? 実景みかげちゃんとは逆ですのね」


 実景は自分の強さのせいで、人と線引きされて避けられるのに苦悩している。彼女にとっては自身の強さは今の希望よりも余分なのだろう。


 見たこともない奇乃の強さを知ろうとする充雅は、問うまでもなく、より強くなろうと願っている。


「儘なりませんわねー」


 奇乃は歌うように節を付けて、呑気に言ってのけた。


 強さに足りないとか、多いとか思わない奇乃には、これまでもこれからも縁のない悩みだ。

 あるだけを身に着けて、それを前提に相手を探す。ないものねだりは奇乃には関係がない。


 だって、自分にあるかないかは、自我を持ってからずっとありありと目の当たりにしているから、きっととか、もしもとか、そんな夢を見る値間ねあいなんてなかったのだ。


「なんか、羨ましい生き方してますね」

「そう思うなら、見習うといいですわー」


 奇乃からしたら、みんなどうしてそんな悩んでも仕方ないことで悩んで、自分と環境を受け入れないのか、分からない。


 分からないから、救い方が見つからない。


 奇乃は、実景がどうすれば悩みから解放されるのかと、そんな悩みをおくびにも出さす抱えていた。

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