泣き晴れるまではまだ遠く

 今日も美味しい夕食を頂けて、奇乃あやのはご満悦で居間で寛いでいた。

 夕食の準備から先は、手伝いは必要ないから客としてもてなされてほしい、というのが景隆かげたかから申し入れられている。


 庭で鳴く虫の音が微かに耳に届くのを愛でていた奇乃は、襖の向こうに人の気配を感じて顔を向けた。


 ぱたり、と音を立てて開いた襖から現れたのは実景みかげだった。

 実景は居間に入って来ると、ぺたんと奇乃の横に座り、ちらちらと顔を覗ってくる。


「どうしましたの?」


 奇乃が問いかけると、実景は恥ずかしそうに顔を背けてしまった。


 奇乃が肩を竦めて庭へと顔を向けると、視線を外された実景が腕を伸ばして服の裾を摘まんできた。


 ここで振り向くと、またそっぽを向かれて振り出しに戻ってしまうから、奇乃は意識して虫の声に集中した。


 きゅっと、実景の指に力が加わって、奇乃の服に皺が生じる。


「あのね」

「はいですのー」

「あの、わたし、そのね。奇ちゃんにまだ、帰ってほしく、ないの」


 実景の声は、虫よりもさらにいさよわしく響いた。


 奇乃は、意識して数秒の間を作ってから口を開く。


わたくしも、目的を遂げるまでは帰りたくありませんわ。なにも言わずに消えるようにいなくなったりしませんから、ご安心なさいませ」


 奇乃の服の裾が、実景の掌の中へともしゃもしゃと手繰られて丸まる。


 奇乃はただ為されるがままにさせておく。


「……じゃあ、わたしがずっと手合わせを拒否し続けたら、ずっとここにいてくれるの?」

「待っていてくれるのかという意味での質問でしたら、いくらでも待ちますわ、というのが返事でしてよー」


 答えた途端に、ぐいっ、と服を引っ張られて、奇乃は体勢を崩して畳に転がった。


 奇乃の体の上に、実景が体を覆い被せた。


 奇乃は震える実景の肩を抱き止める。


「わたし、やだ、やだっ」


 奇乃の胸に熱い雫が降ってくる。


「どうして、あなたはそんなに強いの? どうしてわたしは、こんなに弱いの! やだよ、いやだよぉっ」


 奇乃の側で溢れる嗚咽が虫の声を踏み潰す。


 帰ってしまうのが、嫌なのか。

 友人の頼みも聞けない自分の醜さが嫌なのか。

 それとも、そもそも出会ってしまってれなしさを知ってしまったのが、嫌なのか。


 観れば分かるけれども、奇乃は瞼を閉じて実景のプライベートを守ることにした。


 ただ、その背中を擦って、実景が喉に込み上げる嗚咽で窒息しないようにだけ気を遣う。


わたくしを押し倒す方に強いだの弱いだの言われるのも心外なのですけれどー」


 呑気に間延びした声を上げる奇乃だけれど、実景の力に圧し潰されて身動きが取れないのは本当だった。

 組み敷かれて、それを振り解けないなんて奇乃にとっては初めての経験だ。なんなら、覆い被さる相手を丸ごと持ち上げてことさえある。


 ここに来て、奇乃に出来ることはない。


 決断とは、誰もが自分でしなければならないものだ。

 実景がどうするのかは、彼女自身が決めるしかない。


 これが善悪や、正しいとか間違いとかで分けられる問題なら、奇乃だって良い方に導こうと言葉を重ねるけれど。


 今、横たわっている問題は。


 友達と離れたくないという実景の我儘と。


 家にずっと帰らないでいて親が遂に激怒したという奇乃の都合と。


 強い者と闘えば満足できるという奇乃の欲望と。


 友達の願いと自分の望みを秤にかけて、自分を優先しようとする実景のエゴと。


 つまりは、たった二人の女子の、今をどうするのかという、取るに足らなくて大いに悩ましいただ一時のものでしかない。


 また会いにくればいいだとか。

 なにも叶わなくても友達だとか。


 そんな将来に対してなんの分岐点にもなりえない、どうだって何も変わらない今をどうするのかという話なのだ。


 そんな大人みたいに割り切れたら、思春期なんてわざわざ心理学の世界で名前を付けられなかっただろう。


「取りあえず、わたくしは気長に待つつもりですから、実景ちゃんも焦らずゆっくり決めればいいと思いますの」


 奇乃に今出来るのは、泣きじゃくる実景を胸に抱き止めて、心が墜ちてしまわないように腕に力を込めて抱き締める、ただそれだけだった。

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