いさよはしく希う

 壮年が顔を強張らせているが、そんなものがなくても、奇乃あやのは直観していた。


 強い、と。


 奇乃は声の軌跡を辿って振り返っていき。


 それよりも早く、彼女の父である壮年が奇乃との間に割って入り、まだ見ぬ姿を背に隠した。両腕を広げて壁と為らんとするその姿は、正しく父であった。


「え、なに。どうしたの?」

「しっ。喋るんじゃない」


 戸惑う娘に、壮年は鋭く叱責して黙らせる。


 それがどんなに意味がないものかはわかっているのだろう。さっきまで平静を保っていた彼の額には汗が浮かんでいる。


 奇乃は物欲しそうに目を輝かせ、口元を緩め、それでもせめて声は飲みこんで礼を失しないように努めた。

 しかし、求めていた人がそこにいるのを知って昂る心は、奇乃の指を震わせた。


 壮年が鋭く睨む視線に、奇乃の興奮した視線がぶつかり、火花を散らす。


わたくし丹堂にどう奇乃あやのと申します。どうか、貴女のお名前を教えていただけませんこと? 強いお方よ」


 奇乃は丁寧に自己紹介から始めて、堪えきれずに足がアスファルトを擦って半歩前に出た。


 壮年もまた奇乃の動きに呼応して、足を摺り肩幅に開く。


 奇乃は、息を荒くしながら胸を押さえて自分を律し、足を地面から引き剥がして元の位置に戻す。


「……お父さん、この子は」

「いいから、父さんに任せなさい」


 不安げに声をかける娘に振り向かず、壮年は奇乃に立ちはだかった。


 壮年の立ち位置は流石に巧く、奇乃からは背に隠された相手の姿がほとんど見えない。

 辛うじてわかるのは、黒髪が背に落ちるくらいに長いこと、背の高い壮年に隠れてはいるけれど肩までの背があること、肌が日に焼けていることくらいだ。


「娘は戦うことはない。箸にも棒にも掛からぬ普通の娘だ。どうか帰っていただきたい」


 壮年は真剣に闘志を研いで奇乃に突き付ける。


 それは確かに、奇乃には届かない強さであった。本気を出された今ならはっきりと分かる。

 身を呈して娘を守る父は偉大なのであろうけど、奇乃はそれを尊重して自分の願いを取り下げるほど、まだ人間ができていない小娘だった。


「それは出来ませんわ。だって、求めてやまない人がそこにいるのですもの。お分かりいただいているのでしょう?」


 奇乃はほんの少しだけ、目を鋭く細めた。


 空気がぴりりと感電した。


 生半可な覚悟であれば、腰を抜かす程の殺意を抜いた。


 それでも、壮年は立つ。穏やかだった表情を鬼のように歪め、波がぶつかり砕ける巌の如く、立ちはだかる。


「娘に手を出すというのなら、この私が相手になろう。けして譲らぬ」

「ちょっと、お父さん、待って!」


 それまで一向に手合わせの申し出をはぐらかしていた壮年が、自ら奇乃に挑むと宣った。


 その背中に、娘が悲鳴にも似た声を上げる。


「ならば」


 奇乃は厳かに口を開く。


わたくしが負ければ、潔く帰りましょう。けれど、わたくしが勝ったならば、彼女が手合わせをしてくれるつもりになっていただけるまで、この家に居候させてくださいませ」


「……居候?」


 奇乃の予想外の条件に、壮年の顔が人に戻る。


 負ければ娘に向けて拳を振るわれるだろうと考え、それでも何もせずにおめおめと引き下がれないと勝負を挑んだ壮年は毒気が抜かれた。


 奇乃は故郷よりも強い日射しに焼かれて熱に浮かされた顔を、恥じらいでさらに赤くして俯けた。


「お恥ずかしながら、もう旅費を使い切って、家に帰る交通費しか残っておりませんの。彼女が今手合わせをしてくれないと言うのでしたら、それを待つのに宿も取れませんので、不躾で無礼とは承知なのですが、どうか勝った者の報酬として寝床を与えていただけませんでしょうか」


 奇乃は頬に手を当てて、それはもう申し訳なさそうに要求を告げた。


 壮年も青年も唖然としていた。奇乃からは見えないが、壮年の背に隠れた娘の方からも呆れた雰囲気が漂ってくる。


「ねぇ、これ、父さんが戦う必要ある?」

「いや、しかし、勝てば帰ってくれるそうだし……」

「うわぁ、師範もそうだけど、圧倒的強者が慎ましいのってある意味とても厄介ですね」


 道場主達が声を潜めて交わす会話に、奇乃はますますいさよわしく体を縮こまらせた。


「や、やはり高望みがすぎるでしょうか……」


「逆。逆です。普通、師範が負けたら看板奪われて、ここは俺のもんだと主張されても仕方ないのに、泊まらせてもらいたいだけとか望みが低すぎるんですよ」


 青年が真っ当なツッコミを入れると、奇乃はそうなのですかと言わんばかりに恐る恐る彼の顔を覗った。

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