勝ち惜しまずに降す

 大分ぐだついたが、道場で師範たる壮年と押しかけてきた奇乃あやのが向き合って立つ。


 壮年は娘に母屋にいなさいと言ったのだけど、当の本人は自分が原因なのだからと立ち合っている。

 すらりと伸びた手足が細く、一見に華奢に見える体付きの少女で、しかし芯の通った筋肉が体を真っ直ぐに支え、立ち振る舞いにはありのままで隙がないのを奇乃は道場までの道のりで観察していた。


「着替えはいいのかな」


 壮年は、靴と靴下を脱いだ以外は訪れた時のままの服装で道場に立つ奇乃に問いかけた。


 問われた奇乃はまた頬に血を昇らせて顔を反らした。


「その、道着は前に着てから洗っていないんですの……少しでも節約したかったのですから」

「……そ、そうなんだね」


 門前で一触即発まで至ったのに比べれば、なんとも締まらない空気の中で、二人の勝負は始まる。


 向い合せに直立し、奇乃がまず息を吸い込んだ。


「義はまさに此を示すべし。丹堂にどう奇乃あやの、お相手をお頼み申し上げますわ」

 奇乃は厳かに名乗りを上げる。


 対して、壮年もまた姿勢を正して一礼した。


「山合外海流師範、月見里やまなし景隆かげたか。我が武の全てを以て向かわせていただく!」

 壮年は裂帛の名乗りと共に、腕を伸ばした。


 まさに伸びたとしか見えなかった。実際には、足を一拍で開き、体幹を捻り、拳を突き出したのだ。


 逆手を引くことで右拳は槍の如く伸び、奇乃へと突く。


 空気が擦れて悲鳴を上げるほどの速さだった。


 だがその音も、奇乃が踏み締めた床板の響きに掻き消される。


 踏み出した右足の震脚は、景隆の足までも揺らし、打ち据えて踏ん張りを散らす。


 合わせて、上下を返した奇乃の右の掌が、景隆の突きを迎え撃った。


 間に挟まれた空気が弾け飛び、響乃ゆらのを散らす。


シィッ!」


 しかし、景隆はそこからさらに拳を回し螺旋を描いた。


 肩からさらに腕が伸びて、奇乃を貫かんと威が奔る。


 奇乃はその流れに目を細めた。本家である山合流とは手合いが違った。


 彼方が合気道にも似た受け流し、巻き込み、相手を捻って投げ捨てるものであったのに対して。

 景隆は体の発条と捻りで威勢を増幅して直接力を打ち込んでいる。これは中国拳法に通じる技術だ。


 奇乃は景隆の拳に合わせて手を回し。


 回転に巻き込まれて腕から体を転がされるのを、腕を大きく肩から回して作用点をずらした。


 大回りする腕で逆に景隆の拳を巻き込んで体の外へと放った。


 景隆の腕は大きく飛ばされて、しかし体は揺るがない。


 景隆が左足を踏み込み、体の背後まで引き寄せた左の貫手を矢の速さで射る。


 奇乃は右肩を押しこんで、そのなだらかな曲線で貫手を滑らせて脱がす。


 奇乃はそのまま体を回し、景隆の眼の前で一転して。


 景隆は喉に向かい来る奇乃の左肘を見た。


 奇乃の肘が喉に突き刺さる前に、景隆は彼女の体を挟むように投げ出された自身の両腕で円を描いた。


 くるり、と奇乃の視界が切り揉んだ。

 奇乃の足が床を離れている。


 体が凩に攫われた落ち葉のように空中で回っていた。


 今の一手で円運動の発条を蓄えた景隆の両手が奇乃の体に触れようとする。


 奇乃に触れた点から景隆の手が巻き戻れば、それは竜巻のように奇乃の体を吹き飛ばし内から威を弾けさせるだろう。


 奇乃は空中で身を捩る。鯨が海面から飛び出すように、背中を仰け反らせて回転運動の向きを捩じった。


 天井の板の目を見つつ、奇乃は頭を後ろへと引き寄せて、前へと落ちる方向へ力を操作した。


 奇乃は腕を伸ばして景隆の肩を掴み、そこを視点に逆立ちする。


 一念。真っ直ぐに背筋を伸ばした奇乃は逆さまに停止して。


 腕の力で体を引き寄せて、景隆の背中に向けて膝を落とした。


 景隆の体が蹴飛ばされたゴミ箱のように吹き飛んだ。


 その場にいた三人の息継ぎが挟まる。


 奇乃は床に素足を付けて、関節に遊びを持たせて柔く構えを取った。

 月見里の娘は、息を飲み父を見守る。

 その父である景隆は、左右の上腕部を壁にぴたりと付けて受け身を取り、叩き付けられた衝撃をいなしていた。


 衝撃を受け止めるために折られた膝が伸び、景隆は体の強張りを逃がす時間を取るためにゆっくりと振り返り、奇乃に向き直った。


 その目は爛々と焦げ付いている。


 食いしばった歯は鬼の牙じみた形相を見せていた。


 怯えで震える心臓を飲みこみ、威圧を敵と自分に押し被せている。


 奇乃は景隆をじっと見つめ、ぱさりと構えを解いた。

 今と同じ程度に解放した実力で打ち合えば、何合でも景隆と競り合うことができる。


 けれど、奇乃が望むのはそのようなしんで伸ばした闘争ではない。さらに、懸命に立ち向かう者をいたぶる趣味もない。


 ならば、今此処で、奇乃が勝負を終わらせない理由は何一つとしてないのだ。


は全霊を以て此を救うべし」


 奇乃は大地に注ぐように、丹堂家の教えを告げた。


 その音が空気に消えた瞬間に。


 奇乃もまた二人の視界から消えた。


 月見里の娘がバッと勢いよく首を振り、黒髪が慣性で舞った。


 景隆はコマ落としのように目の前に現れた奇乃の旋毛を見る。


 奇乃は景隆の右足の外に並べて左足を踏み込み。


 掌底を丹田に叩き付け。


 鍛え上げて筋肉で重みを増している大人の体を持ち上げ、その足を床から逸れさせる。


「かはっ!」


 景隆は腹から空気を押し出されて口から吐き出させられた。


「ぅらあぁあ!」


 奇乃が吠える。


 一念。右足を景隆の浮いた足の下に踏み込んだ。


 腰が、そして背骨を通じて体幹がその動きに追随して前に出る。


 左肩を後ろへ逃がせば、上半身の捻りが足から伸びる力を右の掌底へと伝え。


 振り抜いた右手は、サイドスローと同じ要領で景隆の体を投げ飛ばした。


 景隆の背中が道場の壁板に叩き付けられて、木材がたわみ、戻る反動が振動となって屋根と床を駆け抜けた。


「この結末を悟りながら、なお背を向けずに守るべきもののために恐怖へ挑んだその意気や良し、ですわ。敗北の事実こそが、貴方の勇敢さを証明したのだと、賞讃させてくださいまし」


 闘志に研ぎ澄まされて感情を削り落とした眸で、奇乃は気絶した景隆を睥睨する。


 その彼女の背中を、月見里の娘はじっと見つめていた。

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