一荒に新ためる

奈月遥

一荒に訪れる

 雪国育ちで汗腺の少ないその乙女は、僅かにしか噴かない汗がとっくに塩になって綺羅肌きらはだが九州の太陽の光を跳ね返していた。


「あっちぃな」

 訛りのきつい抑揚で彼女は喘ぐ。


 それでもリュックを背負う歩みは止めず、靴底のだいぶ擦れたスニーカーをアスファルトでさらに減らしていく。


 故郷では肌を撫でる皐風さはかぜを吹く田んぼも、ここでは日射しをえて光と熱を照射してくるようにも思える。まぁ、故郷は故郷で盆地であるから、夏の暑さはいい勝負をしているのだけども、じんわりと湿度を持つ大気と刺すように鋭い日射しのせいで、まとわりつく熱が不快指数を上げていた。


 故郷の七月なら、日射しは暑くても、もっとからりとして、気温は高くても身体に熱は籠り難くはあった。


 短く切りそろえた髪が額に張り付くのを、首を振って払い、一緒に噴き出した汗が跳んだ。

 日焼けで赤くなった頬は、血が上って朱色を更に加えて、喘ぐ喉からは水分が湯気になって逃げていく。


 彼女はすらりと長い腕を後ろに伸ばし、リュックの側面ポケットに入っていたスポーツドリンクに口を付ける。

 一息吐いて、もう一口含んで、舌で転がしながらペットボトルを戻す。


 惜しみながら少しずつ嚥下していき、綿のズボンのポケットをまさぐってスマートフォンを取り出した。開きっぱなしのマップアプリが、彼女の目的地が近いことを教えてくれる。


 角を曲がり、住宅街の路地へと踏み入れて、しばし。


 彼女はやっと、目的の大きな門を構える家屋に到着した。


 門の右側には、大きな木の看板に『山合外海流武術』との文字が威容を誇り、逆の左には小さく『月見里』との表札が門の板と一体化したポストの上に掲げられていた。


 彼女は、ぷくりと膨らんだ唇をにんまりと持ち上げた。

 大きく息を吸い、胸を膨らませる。


「頼もう! でしてよ!」


 万全の肺活を十全に発揮して放たれた叫びは、門の向こうの空気も一荒ひとすさに吹き飛ばした。


 彼女はやり切って誇らしげな表情を湛えて、背筋を伸ばして待つ。


 しかし、門の向こうはしんと静まり返って、暫く待っても人の気配がやって来ない。


 ぱちぱちと、信じられないとばかりに彼女は瞬きをした。


 留守ではない。彼女の眸は中に人がいるのを認識している。


 声が聞こえなかった、というのも考えにくかった。彼女の声は目の前の家屋どころか、町内にも響き渡っている。


 彼女はちらりと表札の方を見る。その脇にはインターフォンがあった。

 もしかしたら、あちらを押さないと反応がないのだろうかと、リュックを背負い直して、門の正面から左に体を寄せる。


 人差し指をピンと伸ばして、インターフォンのボタンを押そうとして。


 その横で、ぎぃ、と門が軋みながら開かれた。


「まるで戦前のような声かけをしてくれたのは、誰だい?」


 門から出てきた人物に彼女は注視した。

 細身ながら体幹がしっかりとしてブレのない歩みを見せる壮年は、肘までの長さの道着に袴を合わせている。


 彼女はずらしていた立ち位置を門の正面へと戻すために足を踏み出した。


 門から出てきた壮年も、彼女にすぐ気づき、黙ってその動きを目で追う。


 彼女は、すっと腰を折ってお辞儀をした。


「急に参って申し訳ありません。わたくし丹堂にどう奇乃あやのと申します。不躾を重々承知で申し上げますが、此方で最も腕の立つお方と手合わせをお願い致したく罷り越しました」


 流暢に、今時は上流階級の子女でもそう使わないようなきっちりとした敬語で、奇乃と名乗った彼女は挨拶とここに来た意図を申し立てる。


 それを受けた壮年は眉を寄せて皺を刻む。


「帰りなさい。ここに貴女に敵うような者はいません」


 素気無い断りを頭上から浴びせられて、今度は奇乃が衝撃をありありと顔に浮かべる。


「そんなことはありません。わたくしは此方から迫る強さを観ました。今もこの土地に染み付いた気迫を観ております。どうか、その方とお手合わせを願いたいのです」

「この道場の師範は私だが、貴女の眼に強者と映らないだろう。それに丹堂と名乗る女子が本家にやってきて当主を打ち破った話は連絡が来ているのだよ。恥ずかしい限りだが、傍流の我が道場では貴女を相手出来ないのは道理と思わないかね」


 奇乃は、師範たる壮年の言葉に首を横に振る。


 確かに、以前にこの道場から見て大元に当たる山合流の本家にも、奇乃は試合を申し込んだ。しかし、山と身を合して無為自然の境地より武を究めると奥義を置く筈の本家の当主は、若さを頼りに力を誇るような程度の低い人物で、奇乃が何度床に叩き付けても負けを認めず、戦闘不能に至らないのを良い事に奇乃を女子故に力不足と侮り続けた。


 業を煮やして肋骨を粉砕したのは我ながらはしたないと今でも恥ずかしい限りだが、あれを例に出されても腑に落ちない。


 少なくとも、今、奇乃が観ている強さをこの道場に染み付かせた人物は、本家で観た強さなど遥かに超えている。


 お互いに言う事は変わらないと知る二人は、黙して視線だけを交錯して、間合いを図る。


 帰るつもりはなく。


 語るつもりはなく。


 奇乃は力づくで訊いても求める答えは返ってこないと判断し、更に此方から手を出せば警察に逮捕される名実になると、待ちの姿勢を取る。


 壮年は武では敵わないことを冷静に見抜き、かと言って白を切っても彼女が確信を抱いているからには無意味と思い至っている。


 奇妙な我慢比べが此処に成立してしまっていた。


 そんな二人の横を、道場から列を成した人達が通り過ぎていく。着替えて普段着になっている人も多いが、道着のままの人もおり、この道場の徒弟達なのだろうと思う。

 現に、多くが奇乃の前に立つ壮年を師範と呼び、挨拶をして帰っていく。


 何人かは、師範と見合う奇乃を見て首を傾げ、極僅かに目を見開き壮年に気遣いの視線を向ける者もいる。

 壮年はそんな相手にうなずいて見せて、立ち止まらないように促していた。


 奇乃の細い顎を汗が滴り落ちる。浅く息を吐いて肺から体温を逃がし、後ろ手を伸ばしてペットボトルを取った。


 奇乃は一口だけ飲み、壮年から視線を外さずにリュックに戻した。


 人の列は途切れ、奇乃の眸にも中にいるのは二人ばかりだと映る。


 その一方が門から姿を現した。青年、という表現が似合いそうな爽やかな気配の男性だ。


「師範、これで皆帰りました」

「ありがとう。君も今日は帰りなさい」

「しかし……」


 壮年と言葉を交わす青年は、奇乃を見て難色を示した。


 奇乃はにっこりと笑い、害意はないと見せる。奇乃が求めているのは全力で武を交わす果し合いではあっても、無碍に相手を打ちのめす道場破りではない。

 それに、青年は奇乃が観た強さとは違うので、はっきりと言ってしまえば眼中になかった。


 しかし、師範と呼ばれる壮年も、奇乃の観立てに似てはいても、少し物足りなく思う。力を抑えて見せるのは強者の振る舞いなので、違うとも言い切れないので、後はもう手を合わせてみるしか判断手段がない。


 一般に考えれば、道場で最強であるのは師範の立場にある者なのだ。


 奇乃が観た強さは奇乃と互角か、或いは超える。目の前の壮年は、奇乃の意志も見抜いている様子であるから、その強さがあれば手を合わせてくれそうなのにと、夏の日射しで茹だった頭がぐるぐると回る。


 ふぅ、と奇乃は息を吐く。呼吸による体温の調節も間に合わないくらいに火食ほばむ。


 これは頭を下げて、一先ずは涼しい屋内に非難させてもらうべきだろうかと奇乃は考えて。


「あれ、お父さん、お客さん? 若い女の子なんて珍しいね」


 奇乃の背後から、淑やかな同年代の声が吹いた。

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