恋人-L’ Amoureux-

 ああ、なぜ人は不幸なのでしょうか?

 それは人だからだ。とどこかで聞いた気がします。

「師匠、不幸とは自己修練で克服できるのでしょうか?」

 私はついそう問いかけます。

「その考え方じたいが不幸を呼ぶね」

 師匠は呆気なくそう言った後、

「自分で自分の全てをコントロールは常識的にも論理的にも不可能だからね」

 と付け加えます。

「理性は自己制御のすべなのでは?」

 私の素朴な問いに

「それは違う理性とは神あるいは『原』人間から与えられし認識の保証書みたいなものだ」

 それは単に形式にすぎない

 と師匠はポツリ呟く。

「そもそも自分を操る自分はまた自分に操られる。無限後退に陥る。簡単な理屈だ、自己言及は避けたほうが良いラッセルの警告だね」

 師匠はそう言って聖書創世記の一節を読み上げる。

「善悪を知る果実。では逆に聞こう善悪とはどういう枠組みなのかね?」

 そう尋ねた師匠は私を試すようだ。

「単なる快楽と苦痛では」

 私はあえて穿った言い方をする。

「快苦は快苦。それ以上でもそれ以下でもない。自分を偽り、愚かさをさらけ出すことは止めることだね」

 師匠の言葉に

「……はい」

 私は赤面する。

「簡単さ、善悪とは客観的あるいは間主観的な道徳の基準さ」

 それが何かは要研究だ。

 と付け加える。

「快苦と善悪は分かちがたく結び付いているから混同してしまいますね」

 私の先程の醜態を隠すための照れ笑いに

「公私という概念が啓蒙思想的だとも言えるね。かつて中世古代王政期近世では個人の徳をそのまま倫理にしたからね」

 確かにルソー、プロテスタント、そしてカントに代表されるドイツ啓蒙は倫理の王座を徳と幸福から奪い取り良心と義務にすげ替えましたから。

 結局。良心というどこまでも私秘的なモノと義務というどこまでも開示されたものに道徳が分離ししました。

「公がなければ私もない」 

 師匠はそう言って

「愛こそがそれを可能にする」

 なんだかそれはとても安い哲学のような……

 でも人はどこまでもモノが好きなのでしょう

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