女帝-L’ Imperatrice-

 最近は師匠の教えで詩作に打ち込んでいる。

 詩作は思索。

 というわけだ。

 私には文学の才能はないというのが私個人の見解。である。

 ああ、私には何でこう才能がないのか。

 私には現実というものがない。

 現実とは幻想の集積に過ぎない。

 単に何らかの詩的直感ムーサイの託宣が働いたとしても私はそれを通りすぎるだろう。

 それが才能のなさに繋がる。

 才能とは現実を見抜く力だ。

 哲学者や詩人は凡夫には届かない真理を見届け口にする。

 だが幻想に生きる私に何ができる?

 あ……私は星を見る。

 星は私など見ない。

 屈辱を感ずる私は狂人だろう。

「どうだ?詩作思索は?」

 師匠は尋ねる。

「詩ではありません、駄文です」

 私の答えに

「この世に駄文などない」

 断言する。

「価値もなく意味すらない文は駄文では?」

 私は質問する。

「価値と意味は一義的ではない、それらは世界精神の一部として存在し肯定される」

 師匠は呟くように答える。

 私には理解できない。

 全てに意味も価値もあるならば全てに意味も価値もない。

 簡単な道理です。

 もし無と有の境界が消えたならば無と有は全て渾沌ケイオスに変わる。

 それは無。

 本当の意味での無は本当に存在しない。

 人は理解できない無限の多元的原理を渾沌と感じ無と呼ぶのだ。

「母と息子はその存在原理からして他人になることを決定付けられている」

 ?。なぜそんな話をするのですか師匠。

「また、詩作も世界のなのだ。万能の神は足り得ない」

 師匠はそう続ける。

「より正確に言おう父は至高であり母は創造である父は母にたいして解釈と言う創造の亜種でしか勝れない」

 師匠はそう言ってどこかに消え去る。

______

____

 私は一つ詩を産み出した。


 全ては存在ならば存在者とは?


「存在とは存在者ではない、それを逆照射したか。転倒とはある一つの真理を浮かび出さされる……哲学の歴史を一行で表したか」 

 師匠の詩の解説に。

 そんなこと思いもしなかった。

 と私は思った。

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