正条植えと塩水選
結論から言うと、炭団を無償で配る政策は効果覿面だった。冬が始まった当初はこれまで散々と振り回されてきた冨樫家の人間の言葉を信用することはせず、様子見の国人が大多数だった。
しかし冨樫家が帰還して数ヶ月、様々な施策をとってそれがことごとく良い結果となったため、徐々にその目は変化を帯びる。あまり気は進まなかったが、「冨樫泰俊は仏の御使いである」という噂を国内全域に広めた。宗教によって変わってしまった民の心を引き戻すにはそれに対抗しうるものが必要だと思ったからだ。
冬を越えて二月下旬に差し掛かり、冬を通して降り積もった雪が徐々に融解していき始めた頃には、石川郡だけでなく河北郡の大部分が冨樫家の傘下に入っている。傘下に入った国人の村は、寒さで凍え死んだり、飢えて亡くなったという事例が殆どなかったということで、効果を実感するに至った。
中でも意外だったのが、創設した「曹洞宗冨樫派」に改宗する者が予想を遥かに超える勢いで増えていることである。冬を越すために「食糧」という餌に釣られた人間も勿論多いのだろうが、純粋に「冨樫泰俊が仏の御使いである」という噂とこの短期間で領内を遥かに豊かにした実績に目が覚めたことと、単純に戒律が一向宗以上に緩く肩肘張らずに信仰できるという点が大きかったのだと思う。
いくら洗脳同然の状態であっても、目の前に遥かに美味しそうな餌があれば喜んで飛びつくということだ。しかし、実際は加賀における一向宗の信者は国を丸ごと飲み込むレベルで多く、臣従した国人が多い一方で門徒の多くは南の江沼郡や能美郡に居を移した。
これは加賀を支配していた本願寺の上層部が江沼郡の大聖寺城や日谷城、能美郡では林超勝寺など、南に多く拠点を築いていたからだ。江沼郡には南二郡を差配する超勝寺が強い力を持っている。南部に本願寺の拠点が多い理由の一つとして、二十一代当主の冨樫政親が、石川郡と河北郡の本願寺の坊主や門徒の百姓の首を片っ端から切っていき、味方しない者を排斥していったことが挙げられる。これが冨樫家への悪感情を生んだのだが、そういったこともあって北部は比較的本願寺勢力の地盤が緩く、それが冨樫家の順調な掌握を助けた。その分門徒であった者の多くが南に流出してしまったのは、生産性の面で大きな痛手ではあるが。
幸いなのが、史実で織田軍を苦しめた尾山御坊がないということだ。尾山御坊は石山本願寺のように城内に広大な寺内町を築いた平山城で、非常に堅牢な造りを誇っていた。史実では天文十五年(1546年)に建てられるので、それまでの間に加賀一向一揆は更に勢威を強めていったのだろう。
そして何より、越中に向かうケースが最も多かった。越中に向かう門徒は南に向かう者より遥かに多い。それは今現在加賀が指導者不在の状況になっていることから、それを不安視した門徒たちが門徒の多い越中に身を移す決断をしたからだ。北二郡を任されていた本覚寺もその動きを察知したからか、配下の門徒を引き連れて越中に逃げた。超勝寺とは元々あまり良好な関係とは言いづらく、下間一党の力なくしては共闘関係にはなり得なかったために越中に逃げたのだという。
国を跨ぐため一国の守護でしかない冨樫家が容易に手を出すことはできない。冨樫軍が越中に兵を出すには、越中守護である畠山家との協議が必要になるからだ。そもそも越中に兵を進める気は毛頭ないし、兵を挙げる余裕もない。去る者追わずの堂々とした姿勢であった。
冬の間は雪のせいで滞っていたが、春を迎えてから鶴来の街の復興にも取り掛かった。加賀一向一揆によって荒らされたこの町だったが、本宮を中心に発展していたのが窺える。鶴来の酒造所はこの本宮の北側にあり、周囲には酒造所が増設され始めている。酒造所のある付近は白山衆徒が築いた白山城のある舟岡山という山の北側に位置しており、西側にあった町の中心部とは異なり戦火を免れたために、運良く残存したのだという。
復興後に一向一揆に再び町が荒らされることのないよう、抵抗も虚しく破却されたこの城を再建することにした。そして中心部を北の御堂山という山と挟まれた窪地に移し、戦火に巻き込まれるリスクを低減している。
加賀一向一揆に滅ぼされた白山衆徒の総本山・白山本宮も再興することにし、冨樫家の庇護下に入り兵を持つことを一切認めず、信仰の地としてのみ認めることとしたが、白山衆徒の残党はそれはそれは喜んでいた。
白山城は山裾を南に手取川、北に平等寺川が流れており、天然の要塞となっているため、一向一揆に対する戦略的拠点に位置付けている。本拠である野々市館は守護の滞在する居館としての役目しかなく、全盛期には高尾城という山城を築いていた。しかし長享の一揆によって廃城となり、戦うための拠点がない現状だった。
白山城はそれに代わる役目を期待している。いずれにせよ、まだ町の再建も築城も始まったばかりだ。
加賀百万石という言葉がある。実際のところ加賀は四十万石程度であり、百万石という言葉は能登と越中を合わせて構成された加賀藩の領土である。
肥沃な穀倉地帯が浮かぶ加賀だが、実の所大雪に襲われがちな過酷な環境にあった。農業で栄えているのならば、国が貧しいために一向一揆に参画する者が国の趨勢を決めるまでに増えるはずがないのだ。
「去年の米の収穫はかなり少なかったと聞いた」
「一昨年に比べればマシではありますが、不作なのは紛れもなき事実ですな」
末松信濃守家為が現実を憂う様子で答える。一昨年は国中を荒らした大小一揆があったから、土地が荒れ果てたのだろう。
冨樫家の年貢は基本六公四民であるが、かつて戦時など多い時には八公二民で年貢を徴収していたこともあったという。それは民心も離れるわ、と先祖の愚行を嘆きながらも、もうすぐ田植えの季節なので、収穫を増やす方法を模索することにした。
「以前田を見た時はかなり密集して植えられているように見受けられたが、普段からああなのか?」
「左様ですが、何かおかしな点でもございましたか?」
「ふむ、やはり特段植え方を意識しているわけではないのか。ならば正条植えを行えば、格段に生産効率が上がるはずだ」
「正条植え、にございまするか?」
「うむ。田植えの際に苗を縦と横の列を揃え、等間隔で植えるのだ」
「それではむしろ収穫量が減ってしまうのではありませぬか?」
一見植える本数が少なくなるため収穫量も減りそうなものだが、日光が稲に当たる面積が増え、風通しも良くなるため、稲穂の生長や穂のなり具合に好影響を与えることが期待でき、一株あたりの実付きが良くなるために収穫量が増えるのだ。
「まあ一度試してみればわかる。それともう一つ、『塩水選』という手法も採用したい。これは種籾を塩水に付け、沈んだ種籾を抽出するだけでいい。これで良好な生長をする種籾を選び出すことができる」
沈んだ種籾は、種子の比重が大きなものであり、これをするだけで少なくとも一割の収穫量増加を見込めるらしい。
「ふぅむ、半信半疑にございますが、やってみる価値はありそうですな。指示を出しておきましょう」
「うむ、頼んだ」
農業は国の資本だ。作物が十分に採れなければ、運営に支障をきたすのは必定というもの。これまでの冨樫家のやり方ではダメだ。生産性を上げることができれば、国力も上がる。俺は怪訝そうに眉を寄せる家為を見て、成果を見た時の顔が楽しみだ、と微笑んだ。
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