畿内の現状と農業改革
「靖十郎様。冨樫菊酒の売れ行きは好調にございます。引っ張られて我が商店も盛況にございますれば、感謝に尽きませぬ」
善兵衛が深々と頭を下げる。菊酒は案の定売れに売れた。まず味は他の酒に劣らないどころか、「天下一の美酒」と称賛され、また透明感の強い見た目に欲しがる声が後を立たないという。俺は予想以上の結果に口角を緩ませる。菊酒に冨樫と名を冠することにより、冨樫家の名声も高まった。その冨樫家が懇意にしていると聞くと、善兵衛の実家は恩恵を受けて売り上げも伸びているらしい。
それだけでなく炬燵の抱き合わせ商法のおかげで、莫大な利益を生んでおり、石鹸も消耗品であるために変わらず売れているようだ。挟碁は模倣品が作られているものの、高まる名声に従って一定以上の売り上げを生んでいるのは、嬉しい誤算だろう。
「感謝はこちらがせねばらなぬ。商いに疎い私ではなし得なかったことだ」
商人の世界は俺にとって未知の領域だ。いくら新しいものを売っても、売り方を知らなければ利益の幅は狭まる。そういう面で、感謝しないわけにはいかなかった。
「誠に勿体なきお言葉、光栄にございます」
夏が深まりつつあるからか妙に身体が火照りを帯びて感じ、己の手のひらで何度か煽って風を受ける。僅かに沈黙が走った。
「嬉しいものだ。加賀が豊かになっていくのを見られるのは」
俺はひとりごちる。偽りなき本心だ。一年前には見られなかった光景だ。
「これも靖十郎様が成したことにございますぞ」
「私一人の力ではない。お主もそうだが皆の助力がなくてはなし得なかった。それにまだこれは序章に過ぎぬ。畿内の情勢はあまり芳しくないのだろう?」
「畿内の情勢は複雑怪奇になりつつありますな。堺にも戦火が及んだ影響で堺での商いが滞っておりまする。商品はその分を他の地に回しても売れるので大した痛手にはなっておりませぬが」
実質的な畿内の支配者であった細川京兆家の細川晴元は、元々堺公方を打倒する為に本願寺と連携して堺公方を滅亡に追い込んだのだが、仏敵として滅ぼした三好元長の死後も一揆の増長は止まらず、これを脅威に感じた晴元が一向一揆との決別を決意した。この対立が原因で山科本願寺の焼き討ちを引き起こし、証如が大坂に走ることとなったのだ。
当初は細川陣営有利な状況が続いていたが、本願寺は年が明けてから頽勢を一気に翻している。そして一月には本拠の大物城を落とし、二月には堺が陥落した。畿内の拠点を失った晴元は淡路へと渡るまでの劣勢に立たされたが、その後晴元に協力する法華一揆によって局面は再び巻き返したことで、両者の和睦が後の三好長慶である千熊丸によって成された。三好長慶はこの時十二歳に過ぎないが、この時からもう頭角を表していたのだ。この後、史実では父の仇を討つ形で下剋上を敢行し、『日本の副王』と称されるまでに飛躍を遂げる。
「やはり本願寺は脅威だ。加賀の一向一揆が指導者不在であっても蜂起する可能性は否定できない。戦う術を用意せねば、こちらが飲み込まれるだけだ」
俺は意志を固く持ち、悲惨な末路を辿らないために頭を回す。
「一向一揆の力は計り知れませぬな。行動も読めませぬ」
単純な火力を底上げするには鉄砲を買うのが最も効果的な手段だが、残念ながら現時点では鉄砲は伝来していない。鉄砲が伝来するのは天文十三年(1544年)で、普及するのはまだまだ先になる。故に戦力として期待することは現時点ではできないのが実情だ。
一向一揆を排除しない限り、この国に平穏が訪れることは決してない。俺とて多くが百姓の練度の低い軍勢に刃を向けたいわけではない。しかし増長して全国に火の手が上がってしまっては元も子もないのだ。
まずは戦略的拠点に位置付けている鶴来城を早期に完成させたい。冬の間は建設が滞るので、夏から雪が降るまでの間になんとか進捗を伸ばしたいものだ。
秋になり、米の収穫が終わった。正条植えや塩水選を試行したのは一部だったが、その生育の良さは一目瞭然で、やっていなかった田と比べて稲穂のなり具合や高さに歴然な差が出たのだ。
「塩水で沈んだ種籾だけを選別し、等間隔に植えるだけでこれほどの差が出るとは、信じられませぬな」
末松家為が感心した様子で手元にある二つの稲を見比べて言う。
「そうだ。これを知った者は皆来年から喜んで行うはずだ。今年は例年通りの収穫のようだが、来年からは領内全域で広まるはずだから、収穫量は格段に増えるだろうな」
「正条植えと塩水選を行った田は他と比べて三割の増加とのこと。まさに画期的な手法ですな。お見それいたしました」
尊敬の念をひしひしと感じるが、俺は知っていた情報をそのまま実行したに過ぎない。微妙な気持ちではあるが、これが領内の発展に繋がっているのならばとても良いことだ。
「正条植えと塩水選が領内全域に広まった暁には、現在の『六公四民』から『四公六民』に変えようと思っている」
「折角増えた年貢を回収した方が当家にとってはよろしいのではございませぬか?」
「確かに現状維持ならば年貢の量は増える故当家は得するだろう。しかし別に食糧に困っているわけではないのだ。ならば他領よりも税率が低いことを示した方が良い」
他領よりも年貢が軽ければ、それを魅力的に捉える者も多いだろう。ましてや裕福になりつつある冨樫領だ。足枷となるのはもはや一向宗だけだろうな。
「成程。税が低ければ一向一揆に与していた百姓も当家に身を寄せるかもしれませぬな」
「そうだ。ただ現時点で冨樫に臣従していないということは、それだけ一向一揆に染まっているということだ。どのようにして危害を加えてくるか分からない。その場合は一向宗から完全に足を洗うよう指示すべきだろうな。それを断るのなら、もはや一向一揆に魂を売っているのと同義だ」
「緩い戒律ならば曹洞宗冨樫派、白山神社も再興されましたからな。一向宗に固執する者を受け入れる方が確かに危ないでしょうな」
一向一揆はその数と行動力で様々な勢力を打破してきた。冨樫領が豊かになる様子を見てもなお一向宗への信仰から他領に逃げたというのに、戻ってくる者を無条件で受け入れるなど虫のいい話だ。この点は徹底すべきだろうな。破った時の法度も定めておくこととしよう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます