191 忘れられた王国(ロストキングダム)

「ベッテガ! 今度はこっちに行こう! ついてきて!」


「お嬢様……旦那様に叱られてしまいます……」

 あどけない笑顔を浮かべる茶色い髪を靡かせた一〇〜一一歳くらいの少女……その姿をオロオロしながら追いかける少し背の低い使用人の服を着た男性を見て村人たちは微笑ましく見つめている。

「プロヴァンツーレ男爵家のお嬢様もお綺麗になったわねえ……」

「都の貴族様とのご婚約の話も出ているそうよ」


 村人……特に婦人の立ち話で、笑顔で走っている元気な少女を見て噂しあっている。少女の名前はカレン・ヴェラ・プロヴァンツーレ、このメナ村一帯を支配する下級貴族の一人娘だ。

 ブランソフ王国はここ数百年平和な時を過ごしていた……大陸中央では帝国と聖王国の戦など、戦乱が絶えなかったがシャールド地方は大荒野の南西、大きな山脈を隔てた先にあるため直接この地方へと攻め入ろうという国家もなかったため、平和な時が過ぎていたのだった。


 ブランソフ王国自体も国土が肥沃ではなく、これといった産業も多くなく経済的には小国家レベルの小さな影響力しか持っておらず、人によっては西方諸国の一国家と混同しているものすらいる、そんな『忘れられた王国ロストキングダム』でもあった。

 この国は永遠に時が止まったかのような、そんな弛緩した時間の中に生きているのである。


「ねえ、ベッテガ。私の旦那様になる方って知っている?」

 あどけない顔のカレンがベッテガを見上げてニコニコ笑っている。この頃のカレンはまだ少女だったため、ベッテガよりも背が低く、ベッテガは優しくそんなお嬢様を見つめて、笑顔を向けて説明を始めた。

「そうですな……私が聞いておりますのは、王国の重臣であらせられますニーノ・セルジ様のご子息であるヴァンド・セルジ殿とお嬢様のご婚約とお聞きしております」


「ヴァンドさま……というのね」

「はい、お嬢様。セルジ家はこの王国の政治を司るとても大事な貴族であります。その御子息との婚約というのは非常に名誉なことでございますぞ」

 ベッテガは、婚約以降お嬢様の身の回りを世話する女官と交代して、このメナ村に留まりプロヴァンツーレ家の当主である、ランベルト・ヴェラ・プロヴァンツーレの執事として支えることが決まっている。

 正直いえば……幼い頃から懐いてくれたカレンと別れるのは少々寂しい気もしている……ベッテガは使用人という枠を超えて、妹のようにカレンを可愛がってきていた。そんな働きが認められて当主直々の指名で執事に抜擢されることになったのだ。

 どちらがより幸せなのか……まだ若いベッテガには判断がつかなかったのだ。


「ベッテガも都について来るんでしょ?」

 カレンは考え込んでいたベッテガを不思議そうに見つめて……キョトンとした顔で見ている。ベッテガはその視線に気がつくと……にっこり笑って首を横に振る。

「私は……この家の使用人です。お嬢様の嫁ぎ先へはお供はできません。ただ……お嬢様が何らかの機会にご自宅に寄られることがありましたら、喜んでもらえるようにこのご自宅……そしてメナ村を守っていきたいと考えています」

 幼いカレンにはその意味がよくわからなかったようで、少し難しそうな顔をしていたが……まあいいや、と呟くとベッテガに手を差し出す。

 その手を恭しく取ると、ベッテガはそっと頭を下げてお嬢様を優しく立ち上がらせる。

「疲れちゃった、あんまり遅くなると怒られちゃうから帰ろ」




「お嬢様! お嬢様!」

 ベッテガは必死に屋敷の中を走っていた……窓の外では炎と、悲鳴、そして不気味な叫び声が聞こえる。一体何が起きたのだ……屋敷にいた自分にはなぜこんなことになっているのかが理解できない。

 ようやく到着したカレンの私室に飛び込むと、ベッテガの姿を見たカレンが寝台の下から飛び出してきた。

「ベッテガ! 何があったの!?」


 ベッテガも訳も変わらず……首を振って何もわからないことを伝える。

「わかりません……まずはご主人様……お父様のところへまいりましょう」

 その言葉にカレンは目に大粒の涙を溜めながらも必死に我慢して……ベッテガにしがみつく。ベッテガは優しくカレンを抱き上げると、急いでカレンの私室を出てランベルトの執務室へと走り出す。

「ベッテガ……みな無事よね……?」


 カレンが心細そうに窓の外が炎で揺らめく光景を見て呟く……ベッテガは何も答えられない。使用人の集合室にいた彼は、外から血まみれで逃げてきた他の使用人から異常事態が起こったことだけを告げられた。あまりに只事ではない様子に、カレンの安全を優先すると決めて、走っただけなのだ。

「大丈夫……大丈夫ですよ……」


 ベッテガの声も、手も軽く震えている。執務室はもう少しだ……扉を開けて……中へ飛び込むベッテガとカレン。

「旦那様……ご無事……で……」

 そこには……二人の人物がいた。

 一人はこの屋敷の当主であるランベルト・ヴェラ・プロヴァンツーレ……が謎の大男に胸を貫かれて口から血を吐いて苦しんでいる。


 そしてもう一人は、頭を丸刈りにしているが、顔中に不気味な刺青が刻まれ、板金鎧プレートメイルを着用した戦士風の男……背中には巨大な槌矛メイス凧盾カイトシールドが背負われている。

「いかんなあ男爵……お前は大事な取引先だったが……」

 男はぐにゃりと歪んだ不気味であまりに凶暴な笑顔を浮かべて、言葉にならない呻き声をあげるランベルトに微笑む。

「わ……私も……王国貴族としての責務がある……も、もう商売の加担などできん……」

 口から血を吐き出しながらも、ランベルトは必死にもがきながら抵抗しようとするが、男はそのランベルトの必死の抵抗すら楽しむように、ゆっくりと体を貫いた手を引き抜くと、まるで物でも捨てるかのように床へと投げ出した。


 何度か血を吐き出して痙攣していたランベルトが絶命すると、呆然とその様子を見ていたベッテガと歯をカチカチと鳴らして震えるカレンに気がついたのか、血まみれの手をそのままに二人へと向き直る。

「おや? その娘は……ランベルトの娘だな? 君のお父さんは私たちと手を切りたい、と申し出てきててね……お仕置きをしたところなのだよ」

 ゆっくりとランベルトの血液が付着した指を少し長い紫色の舌で軽く舐めると、その不気味な男は二人に向き直る。板金鎧プレートメイルの部品が擦れる音と、その男のそもそもの重さもあるのだろうが、ズシリという重量感のある音を立てる。


「名前を言え……ランベルトに娘がいたのであれば……商売を継がせたいのだよ、私は……」

 カレンはあまりの恐怖に、斃れた父親を見て声も出せないままに泣いてベッテガに必死にしがみついている。ベッテガの本能がこの男は危険だ、と告げている。

「さあ、その娘をよこせ……その娘の血で贖うのだ……」


 ズシリと再びその男が歩を進める……ベッテガは自分にしがみついて震えるカレンをもう一度見て心を決めた。

「お嬢様は……渡せないッ!」

「あ、おい! 貴様ァッ!」

 ベッテガは脱兎の如く走り出す……背後で怒号が響くが、その時に屋敷に燃え移っており、柱が炎で砕けて屋敷が崩壊していく。

「いやぁあああ!」

 カレンの悲鳴が響く中……ベッテガは必死に、まったく周りも見ずに全速力で走り抜けていく、村は炎に焼かれ親しかった村人の家も炎に包まれ、道端へと地面へと倒れた焼け焦げた死体が誰のものかもわからないまま、ただ必死に走り続けた。




「一〇年前カレンは……家を失った。俺とカレンは都に向かって、この事件のあらましを説明しようと思っていたが……なんてことはない、プロヴァンツーレ家は混沌の花弁ケイオスフラワーを原料とした麻薬の製造に関わっていたと糾弾され、家は取りつぶしになった」

 ベッテガは、地下水道の出口へと歩きながら悔しそうな顔で拳を握り締め……カレンはいつの間にか俺の腕にしっかりとしがみついて……暗い顔で奥歯をじっと噛み締めながら歩いている。


「俺とカレンに血のつながりはない……ただ俺にとってカレンはあの時に守った、大事な妹のような存在なんだ……だから俺とカレンは家名再興のために傭兵をしている」

 そして俺にカレンとベッテガの過去に出てきた男について心当たりがあった。それは明らかに混沌の戦士ケイオスウォリアークラウディオ……ヴィタリに稽古をつけているという顔中に不気味な刺青の入った大男だった。

 ベッテガは前方に見えてきている出口であろう光に気がつくと、振り返って寂しそうに笑う。


「そろそろ出口だ……気をつけろよ、こういう時は大体待ち伏せがあるもんだからな……」

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