お局の日傘の骨を二本折る

千住

2021年7月23日

 祝日出勤を終えようとしたら新人の中田くんがお局の日傘をへし折ろうとしていた。申し訳なくなった私は中田くんを食事に誘った。

「デートで使えそうなお店ですね」

 店についた中田くんの第一声はそれだった。私は言った。

「妻に教わった。女性の方が本当にうまいもんを知ってる」

「飲み屋の飯ってうまくないんですか」

「塩の味しかしないよ」

 二人ともパスタとワインを選んで少し、店員が去ってからやっと中田くんは本題に入った。

「なんであんなババア雇ってるんすか」

 ごもっともである。係長の自分にできることは皆無といって差し支えないが、気にかけてくれる人がいるというだけでマシかと思い食事に誘った。かつて自分がそうだったように。

「なんでと言う質問に答えるとね。新人をどんどん追い出すんで代わりが育たずクビにしそびれたまま、六年以上雇った非正規を無期雇用転換する例の法律が施行された」

「最悪じゃないですか」

「最悪だったね」

 釜揚げしらすとオリーブオイルの香ばしいパスタが運ばれてきた。それにあうという白ワインも運ばれてきた。

 アクリルパネルの向こうで中田くんがマスクを取った。はじめて見る口元には、まだ大学生が残っている。私はどう思われるのだろうか。へたってきた布マスクを取ると、油に溶けた磯の香とニンニクがふわり鼻へ飛びこんだ。

「良い匂いだな」

「そっすね」

 男二人がパスタを食うと、なぜか油そばの趣になる。口内に残ったオイルを白ワインの酸味で流す瞬間がたまらない。

「office365の導入がやりたいって言ったら採用されたのに、あのババアいたらそれどころじゃないじゃねっすか」

「そうだね。ハンコを廃止しようとして書類を改訂したら、あの人が古い書式でしか受け付けてくれないからって元に戻ったね」

「論外じゃないっすか」

 酒には弱いのだろうか。中田くんの頬はもう赤い。

「僕なんのためにいるんすか」

 がしゃん! 中田くんの手からフォークが滑り落ちた。中田くんが小さくすいませんと言うと、店員が新しいフォークを置いていった。

「今日なんで出勤してたか知ってます? あのババアがエクセルを印刷してファイルに綴じて元のファイル消しちゃったから復元してたんすよ」

「そういうのは事前に相談して」

「そうします……今度から……」

 その一言が聞けただけでも誘った甲斐があるというものだ。

 気持ちはわかる。相手のせい、相手の責任かのように思い込ませるのが得意なのだ、あのババアは。若くて組織の仕組みを知らないうちは簡単に騙されてしまうし、騙されなかった人は辞める。

 騙されてしまうと、なんのためにいるかわからない自分なんて、どこにも行き場がないと思い込まされてしまい、辞められなくなる。

「協力してほしいことがある」

 中田くんの目にほんの少し、恥ずかしげに、期待の光が灯った。

「パスワードつきの共有フォルダ作っておくから。そこに作業手順書を書き溜めてほしいんだ。さっきも言ったけど、彼女が業務を独占するからいつまでも強い。ちょっとでもやったことのある仕事は全部書き留めてくれ。多少間違っていてもいい」

「やります」

 中田くんは涙声だった。鼻をすすり始めたので、しばらく食べることに集中した。

 食べ終えてみると皿の底に思いっきり油が残った。美味しそうだが、すするのはマナーに反するだろう。コースを頼めばパンがあって最後まで食べられたのかもしれない。

「オリンピックは観るの?」

 しばらく黙っていた中田くんは、首を横に振り、鼻をかんだ。

「俺たちのためにやるんじゃなさそうなんで。嫁とゲームします」

「あれ? 奥さんいたんだ」

「入社してすぐ入籍しました」

「そういうのは教えてね。会社からお祝いがあるから」

「ババアに言ったらだからなにって鼻で笑われました」

 これは十中八九横領されているだろう。たかだか数千円とはいえ。


 店を出たところで携帯を忘れたことに気付き、中田くんには先に帰ってもらった。千鳥足だった。店に携帯はなく、私は会社に戻った。

 明るい月がブラインドの隙間から差し込んで、係長席を照らしていた。お局の席で書類の山が崩れた。僕は携帯を手に、月光にきらめく埃をしばらく見ていた。

 傘立てにはお局の日傘があった。黒くて薔薇の刺繍が悪趣味だ。僕はそれを手に取り、広げてみた。骨が一本だけ折れていた。

 隣の骨をへし折って傘立てに戻した。

 

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お局の日傘の骨を二本折る 千住 @Senju

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