第6話 迷路の出口



 言ってしまったという自覚はあったけれど、何度か疑問に思うことがある。それは今こうして呟いた言葉というのは、声として空気を震わせていたのか、それとも頭の中で思っていたことなのか、もしくは誰かが言った言葉だったのか。そう一旦自問してしまうと、どこかゴールのない迷宮に迷い込んでしまったような寂寥感に苛まれてしまう。

 だから、そんなことはなるべくなら感がないように、と思うけれど、またその言葉がしゃべっているのか、そうでないのかが、わからなくなってしまうのだった。

 こんな自分に死んでも嫌気がさすなんて思いもしなかった。しかも、こんな小さい悩みなんかで。

 私の部屋の絨毯は、入った当初は赤色に見えていたと思ったけれど、この色は私の部屋なんかよりもずっとずっと澄んだ色だった。

 どうすればこんな小さな悩みなんかに、思いを馳せることなく生きられるんだろう。今となってはもう過去形でしかないけれど。なんとなくそう思った。部屋の慣れない空気を目一杯吸い込んで、鼻腔にたくさんの元素が固まるのを判然と理解した。

 その深呼吸と同じくして、先ほどの閻魔ではない人が香りなく戻ってきた。ドアが何気なく空いたことに対し、一瞬の驚きを感じていたものの、もうそのぐらいでは動じなくなっていた自分自身にさらに驚いた。

「一応聞いておきたいんですけど」

「どうした」

「さっきは開かなかったドアが、なんで今は普通に開いたんですか」

「何を言うか。開かないドアはただの壁だ。」

 確かにそうかもしれない。さっきまであったのなら、きっと心の奥底から反発していただろう。でも何故か今はそんな気分にとてもなれそうもなかった。だからぶっきら棒に、

「じゃあ、さっきは何故開かなかったの」

「それは私に聞かれても答えかねる」

 そう仕向けたのは自分じゃないのだろうか、と思いつつも、やはり閻魔大王ではなくその代理の人なんだから仕方ないのだろうか。

 そんなことを考えているのがバレたのか、閻魔大王ではない人は軽く咳払いをしながら顔を背けた。その姿はやはり人間のおじさんそのものだ。

「もうすぐ閻魔大王がお見えになる。そこでおとなしく待っていろ。」

 もはやこの人は何をしに来たのだろう、と思いつつも黙って待っていた。何故ならば先ほどから眼光だけは鋭く、人間とは比べものにならなかったからでもあり、さらに言えば、私自身先ほどからの体制を変えるつもりなど、毛頭なかったからである。

 だけれども、頭の中で考えていただけだと思ったが、どうやら口に出してしまっていたようだ。目の前の閻魔ではない人はこちらを鋭く睨み、こう放った。

「いいか。無駄口を叩くと殺すぞ」

 私はもう死んでいるのに。そんなことも思ったけれど、それをいうと本当に痛い目に合いそうだから、気をつけます、と言って今度はしっかりと口を噤んだ。

 乾燥した空気で唇が荒れている。右手の人差し指の第二関節でそっと下唇に触れて確かめた。剥がれた皮膚が、めくりたい衝動を掻き立てる。

 ここに閻魔大王がくるということは、この目の前の閻魔のような閻魔じゃない人と見分けがつくのだろうか。私が思うことではないかもしれないけれど、なんとなく心配になった。



 ここに閻魔様がくるってことは、閻魔っぽい人と本物の閻魔で見分けつくのかな。ちょっと心配。もう少しコスプレの方が安っぽければいいのに、本気コスだからな。これ生きてたらフォロワーとか絶対食いつくよね。

 聞き慣れたドアの音が耳に届く。誰か入ってきた。その閻魔もどきよりも人間に近いみたい。細くてスラリとした体型で、黒髪で黒いスーツに黒メガネ。なんだかできる秘書官みたい。それに程よく流した目の先は切れ長でクールだ。なんだかあれとは正反対。

 というか、何しに来たんだろう。ファイル持っているし。本当に閻魔様の秘書だったりして。

「失礼します」

 程よく低い透き通った声だ。

「ご苦労様です」

「お疲れ様です」

 歯切れの良い口調だった。そう言うと、閻魔もどきは軽く頭を下げたので、私もつられた。

「・・・お疲れ様です」

 何だか言わなきゃいけないような空気だった。何だか冷たく鋭い空気が充満する。

「あなた、彼女襲ったでしょう」

 え、とあの閻魔もどきは狼狽えている。よっぽど強い人なのか。

「いや、そんなことは・・・」

「全部知っていますよ?」

「すみませ———」

「ごめんで済んだら裁きは要らないんです」

 場が凍りつくというのは、こういうことなんだと身を以て感じた。殺気というのか、相当ヤバい。

「発言にも気をつけて下さい。これから審査しようという者の補佐が、あんなこと言って良い訳ないのがわかりませんか」

 なんだかわからないけど、やっぱりかなりキレてる・・・。

「あくまでも、代理でも補佐なんですから」

 秘書の人でも、やっぱり閻魔様ってすごいんだな、なんて感心にも似た感覚が湧いた。

 そういえば、その肝心の閻魔様っていつ来るんだろ。ちょっと待ち惚け感も否めないよね。

「あの」

「なんだ」

 あ、閻魔もどきが答えるんだ。まあ、別に良いか。

「閻魔様って、いつ来るんですか?」

 視線が鋭い。え、何かおかしいこと言った!?

「何を言っている! このお方こそが閻魔大王であられるぞ!」

 ・・・・え? ええ! このスラッとしたスタイリッシュな人が閻魔様!? いやいや、詐欺でしょ!?

「紹介がまだでしたね。失礼いたしました。私が閻魔です」

「うそ!? 見た目サラリーマンにしか見えないのに!?」

「おい貴様! 閻魔大王に向かって通行人Bとは何事だ!」

「そこまで言ってない!」

 何かこのコスプレイヤーは閻魔様にコンプレックスでもあるのかな。

「おい、そんなに殺されたいのか! 確かに、確かに通行人Bに見えるかもしれないけれど、正真正銘、閻魔大王様なのだぞ!」

 もう、これは悪意だよね? これ以上言ったらきっと代理補佐の方が危ういと思う。

 当の閻魔様は、え、ちょっと微笑んでる? 何か逆にそれが怖い。

「そ、それでは、私はここで失礼する」

 すごい動揺してたな。あのガタイなのに意外と小さいんだね。

 閻魔もどきが部屋を去ろうとした時、本物の声がした。

「あ、代理補佐」

 体がわずかに跳ね上がっていたように見えた。

「はい、何でしょう・・・?」

「机と椅子を持ってきてもらえますか」

「はい、かしこまりました!」

 そう言って出て行ってしまった。聞き慣れたはずの軋んだ音は、私の胸裏で反響している。

 どうしてだろう。

 また一つ、空気の重みが増した。しっかりと閉まった扉の音はとても大きく私の鼓膜を振動させる。


「緊張してますか」

 吃驚した。このタイミングということもそうだけれど、まさか仮にも閻魔様にこんなことを聞かれるとは思わなかった。だから、自分でも驚くほどにしどろもどろな返事になってしまった。

「あー。かなり緊張していますね」

 言葉がない。

「初めては皆さんそんなものです。」

 そうなのか。というか、大体みんな初めてじゃないの、なんて思ったりもした。

「ただ」

「・・・ただ?」

「あまり緊張しすぎていらっしゃると笏で叩かれちゃうので気をつけて下さいね」

 凄く生返事になってしまった。あのなんとも言えない気持ち悪さはもう勘弁願いたい。

「もしかして、もう叩かれました?」

「二回ほど」

「はは、そうでしたか。それはそれは、お気の毒に」

 何がおかしいんだ。こっちはか弱気乙女の頭部を二度も叩かれているっていうのに。

「叩かれてどうでした? 痛かったですか?」

 いや普通に痛いでしょ! ・・・あれ、でも待って、条件反射的に痛いって思い込んでたけど、本当に痛かった・・・?

「———なんていうか、難しいんですけど、今思えば痛くなかったかもしれないです」

「なるほど。面白いですね」

「はあ」

「では、未来さんは痛みとは別の何かを感じた、と」

「え、まあ、はい」

 痛みとはまた別の何か———。言い表せないけど、そんな感じが確かにする。

「つまり、新たな快感に目覚めたってわけですね」

「断固として違います!」

「冗談ですよ」

 閻魔大王様でも冗談っていうんだということの方が驚きだ。

「でも、良かったですね」

 何がですか? 今のところ良かった点は見つからないですけど。私、死んじゃってるし。

「嫌な、先日審査したある方は、笏で叩かれすぎて顔がパンパンに膨れあがってましたから」

「・・・そんなに叩かれることもあるんですね」

「流石に可哀相だったので、無条件に天国逝きにしようかと思いましたよ、ははっ」

 いいのか、そんな緩くて、ってちょっと思う。というか笑い事でもないよね。学校だったら完璧体罰だし。まあ、でも閻魔様だし、死んでるから関係ないか。

「あ、それで結局その人はどうなったんですか?」

 沈黙が流れる。もしかしてこれは聞いてはいけなかったのか? この間と雰囲気がいちいち怖いんですけど!

「———聞きたいですか?」

「あ、いえ、あの、ごめんなさい・・・」

 なんだか泣きそう。

「そうですか。でもまあ。屹度どこかで頑張っていますよ」

 頑張ってる、か。


 そう考えていると、椅子と机を同時に持ってきたゴツいあいつが来た。私の部屋、そんなに広くないけど大丈夫なのかな。

「お待たせしました」

「ご苦労様です。その辺に置いておいて下さい」

「畏まりました」

 椅子と机を一つを部屋のわずかに開いた隅のスペースにおいて代理補佐は出て行こうとしていた。

「あれ、未来さんの椅子は」

 閻魔様が非常に不機嫌そうに、それを包みながら代理補佐に声を打つける。

「あ、必要でしたか?」

 やばい。復た霊気が漂い、空気が痛い。

「何を言っているんですか、当たり前でしょう。私だけが椅子に座り、未来さんには立ったままで審査させようとしていたのですか」

「す、すみません、そこまで気を使えていませんでした」

「気を遣う、遣わないではなく。常識的に考えてわかりませんか」

 平謝りの代理補佐。なんかここまで来ると可哀相にも思えてくる。

「あなたは何年私の代理補佐を務めているのですか」

「すみません・・・」

「今年で三十四年ですよね? いい加減確りして頂かない事には困ります」

「はい・・・」

 三十四年って長いな。付き人? のような感じなのかな。あ、でも人間界単位の時間とも限らないのか。あっちは一年が長そうだな。勝手なイメージだけど。

 その間にも閻魔様の説教が続いていた。もうそろそろ居た堪れなくもなってくる。

「え、閻魔様」

「はい、なんでしょうか」

「あの、私の椅子は部屋にあるので、大丈夫です」

 ガラガラと軋む音と淀んだ音が床を伝う。

「そうでしたか。では、代理補佐。下がって結構ですよ」

 

 頭を垂れながら去る姿は先程よりも哀愁というか悲壮が纏っていた。何だか人間の大人たちもきっと同様にして、斯様な思いを持っているのかもしれない。そのようなことを言葉ではなく、判然とでもなく、ただただ漠然とした、若しくは概念的に思考しているにすぎなかったが、しかと確かに考えていた。

「それでは未来さん、どうぞお掛けになって下さい」

 椅子の背を右手で支えながら恐る恐る腰をかける。座り慣れたはずのこの椅子も、なんだか別のもののようにしっとりして、それに少し硬かった。

「すみません、先ほどはお見苦しい姿をお見せしまって」

「あ、いえ」

 意外だった。私なんかに対してはすっと簡単に謝ったりもするんだ。あ、でも、ただの社交辞令か。そういう所は全然わからない。

「でも、いつも怒ったりしているわけではありませんから、安心して下さい。彼も、彼なりに考えていますから」

 閻魔界も人間関係(?)って大変なんだな。

「今のは、罰です」

「それって、やっぱり怒っているんじゃあ・・・」

「それでは審査を始めます」

 なんだか大人な対応をされたように、私の言葉を受けながして、視線を何やらいつの間にか用意されていた書類にやっていた。

 その用紙は私の人生が描かれているのだろうか。私は何をしていたのか、やっぱり思い出せない。一番楽しかったことだって、辛かったことだって曖昧なのに。

 審査の書類は何十、何百というような厚さに、文字が読めないほどびっしりと書き込まれているようだった。

 視線を上げた閻魔様と目が合った。

 「先ほども申し上げましたが改めて。私が、yama、閻魔羅闍、閻羅王、閻魔大王双福。所謂、閻魔です。宜しくお願いします」

「———よろしくお願いします、閻魔様」

「さん、でいいですよ」

「え」

 反射的に聞き返してしまう。さん?

「“閻魔さん”で結構です」

「いやいやいや、閻魔大王様に向かって、それは恐れ多いです」

「私がいいと申しているのです。気にしないでください」

 無理でしょ! しがない一端の女子高生が閻魔様にさんづけって!

「遠慮しなくてもいいですよ。所詮、お為ごかしですから」

「それでも無理ですって」

「未来さん。それ以上断ったら殺しますよ?」

「・・・すみません」

 なんでこの人たちはすぐ殺すっていうの! そんな物騒な言葉使わないでよね、ほんと怖い。

「では、私のことは閻魔さんと呼んで下さい」

「わかりました、閻魔さん」

 とても丁寧に申しあげ仕りましたで候、みたいな感じだった。雰囲気的には。

「それでいいのです」

 なんだろ。言葉の端か、いや行動か、私の観察力のなさが憎いけれど、ものすごく大きな違和感がある。

「どうしたのですか」

「いえ、ちょっと頭が混乱していて」

「どの辺がですか」

「色々ですけど、まず、閻魔——さんが、イメージと違いすぎて・・・」

「そうでしたか」

 そう言って少し和らいだ表情になった気がした。

「因みに、イメージしていた閻魔はどのような感じでしたか?」

 もともと閻魔様をイメージなんてしたことがないけれど、教科書だったか、絵本だったか、スマホだったかで見たイメージは———

「なんだか、もう少し禍々しいと言いますか・・・あ、代理補佐みたいな」

「成る程。人間達のイメージは未だ旧い儘なのですね」

 閻魔さんはそう呟いたように聞こえた。言葉が私にまで届かないで、その手前か二m前で溢れた。

「なんでもありませんよ」

 答えたとは決して言えないような囁きは、俯きがちに吐き出された。その質量は十全に重たく、胸中の奥底のDNAを抉るようだった。その真意というか、訳に似た事を尋ねたい衝動にも駆られそうになったが、向かいにいる閻魔さんの影が、人間の、男性に見えた気がして触れられなかった。人型であるから当然でもあるのだけれど、それを新鮮に感じたからからかも知れない。

「代理補佐っていつもあんな格好しているんですか?」

 当たり障りのなさそうな事を聞いて見るが、特に聞きたいわけでもない。

「まあ、そうですね」

「・・・なんであんな格好なんですか?」

「さあ、彼も彼なりに考えていますから」

 当たり障りなく返されてしまった。そのやり取りの間、終始閻魔さんは書類かはわからないけれど、何かを書き続けていたので目が視えなかった。

「あ、そういえば閻魔さんって出張サービスみたいなこともやってるんですか」

「え?」

「いや、閻魔さんって、私から会いに行くものだと思っていたので」

「そういうことですか。まあ、初回限定ですけどね」

 まさか閻魔大王から初回限定なんて響きを聞く日が来るなんて1mgも思わなかった。

「次回は自分で来て下さいね」

「え、次回とかあるんですか」

「人によってはありますよ」

「なるほど・・・・」

 何だか彼の世っていうのも不思議だ。人間界とでもいうのか、私が生きていた世界とか社会も不可思議で酔狂だと感じていたけれど、こっちもわからないことが多い。

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