第5話 クラインの壺の内身


 この世には、犯した罪が綺麗まっさらになる免罪符もなければ、救いの光の蜘蛛の糸も存在しない。それはわかっていた。神は百三十年も前に死んでいたし、解脱などもできずに輪廻をさまようのだとも、浅薄にではあるけれど覚悟していた。

 それなのに、今目の前には、教科書の何十枚かのページを開いた先に、大豆インクのカラーで載る、あの閻魔大王が、いる。いよいよ夢か現実か判然としない。



「ちょっと!・・・・待ってもらえませんか?・・・・人生の審査って、何をいっているのか分からないのですけれど」



 止まりそうな思考を、誰かが掻き立てる。だけれども、ニューロンの結合は全く促されない。



「たった一言も理解できないとは———貴様は、どれだけ頭が悪いのか」



 たしかに、私の頭はそれほど良くはないと自負してはいる。IQもEQもきっと平凡な数値しか出る筈がない。偏差値だってそうだったのだから。


 しかし、そんな凡夫な私の思考でも、その言葉が理解できていないというよりは、聞き取れなかった。もしくは、一体何を指して、そういっているのかが分からない、ということであったんだ。


「では何故理解できない」


 御尤もであるとも思う。だけれども、わからないことはそれ以上わからないのだ。


「・・・・とりあえず何の審査か、もう一回教えて下さい」


「仕方がない。頭の弱い貴様のために、特別にもう一度教えてやろう」


 ため息交じりのその声は、くだらない自尊心と、見栄や虚栄で溢れた大人のそれそのものだ。

 平静でいられない環境で、すんなりと状況を飲み込めてしまう方がおかしいのではないだろうか。


「いいか、よく聞け。これより行うのは木更津未来、貴様の人生の審査。この審査により、貴様の死後が決まるのだ」


 先ほどと変哲のない返答だった。でも、それが分からないのだ。わからないことがわからないというものでは決してなく、この暖簾に腕押しのような回答は、まさにテレビの向こう側のそれだった。


「だから、どういうことですか」


「言葉通りだ。何度も同じことを言わせるな」


 言葉通り、か。そんなような表現も、年を召された民放で聞いたような気もしないでもない。そんな既視感にも似た退屈な感情が湧いてくる。

 ただその一方で、閻魔大王が本当にいるという事と、審査、という聴きなれない言葉が思考をさらに鈍らせた。


「なにその冗談、全然面白くないよ」


 逃避にも似た言の葉は、あどけない成長した少女を装って発せられるも、その笑いの中には一つの笑顔も介在していない。


「冗談?冗談など言う必要がない。そんなことを言うのは下等な人間だけだ」


 なんとも言えぬ納得のような感覚もあった。確かに、冗談といったものは兎角他者に誤解を与えるばかりであること知っていたからだ。昔、友達に何気なく言った言葉が、それ以降一切口をきけぬようになってしまったトリガーであったことも、きっと今の人格を形成した要因の一つだろう。


「じゃあ、もう私は・・・・」


 意図せずとも、人を傷つけてしまった私なんか、確かにこうして死んでしまっても、仕方がなかったのか。

 そう思ってしまった瞬間、えも言われぬ喪失感と慄然とした嫌悪が、嗚咽と共に咽喉を逆流して私に刺さった。


 そうしている間、寂寥とした空気はひどく閑静なようだった。向こうは一言も話さない。信じることのできない況やサイエンスフィクションのようなお託けが、あっという間に終結した人生の何倍もの長さに感じていた。でも実際には、ほんのわずかの間であったことはこの時知る由もない。



「人間にしては、よく理解したではないか。では、早速取り掛かる。」


 理解したといえば嘘になる。受け入れることも、まだできていない。だけれども、そうメタ認知している上では、きっとそう見て取れるのかもしれないな。


 この落ち着いた、虚無感にも似た感覚。思考が明瞭になると引き換えにして、心の隙間から何かが抜け落ちたような白い感覚が私を覆う。


「ねえ」


 感情のない声で呼びかけた。


「審査って、一体何をするの」


 審査なんて入試でもなかったのだから、そもそもの元をまず知らないのだ。それなに、いきなり人生の審査なんて。


 私は、生きている間に何をしただろう。そもそも、何のために生きていたのか。そんなこと聞かれてしまっては、何も答えることがない。


 例えば、もしこの審査とやらで天国か地獄へ行くのが決まるとしたら。きっと私は天国行きになれる理由なんてないと思う。でも、もちろん地獄に落とされるほど悪いこともやっていない。

 だから、この審査で決まるということに、えも言えぬ恐怖に似た感情を抱いているのだと思う。


「審査? 何、簡単なことだ。」


 本当だろうか。簡単というものほど、実は難しい。簡単とは誰にとって、どんな基準でなのだろう。せめて、私にとってであってほしいものだと、気がつけば勝手に祈っていた。だが、そんな対象のない祈りなど、無意味に等しかったと、すぐに悟る。


「閻魔大王と話すこと。それが審査だ。」 


 突然、街中で知らない人からお金を手渡されたような、そんな気分だった。

 手放しで喜んでも、緊張の糸を切り離しても、もう良さそうな言葉が、私の中の気分をさらに悪くさせる。


 放す?離す、ハナス・・・・。いや、そうではないことはわかっているけれども、なんと言えばいいか、混乱に似た黒い感情がひしめいていた。それでも、何故かは判然としないけれど、府には落ちていたのが、一層黒さを増していく。


「後々言われても面倒だ。他に聞いておきたいことはないか?」


 そんな、突然言われても何を聞けばいいのか、一体今何がわからないのかすら、わからない。だから仕方がなく、


「うん、でも今はまだ頭の中を整理できてない」


そう答えた。

我ながらひどい言葉だ。

そこに含有される意味は、きっと薄っペラい人生と同じような重さだけだ。


「そうか、では暫し待たれよ。これから閻魔大王を呼んでくる」


“わかった“


 机の上に置かれた宿題のプリントが、何気なくついたため息でひらひらと舞い落ちる。そんな日常のように返事をしそうになった。


 これまでに思考のアイドリングをしていなければ、多分十中八九言ってしまっていただろう。でも、そんな気にはなれなかった。散らばったピースがまとまるのでもなく、さらに荒らされてしまう。だから、


「あなた・・・・閻魔大王様じゃないの?」


 唇を震わせながら、そう発した。

 真実とは、常に事実の断片でしかないと、誰かが言っていた。それを何度も私に言い聞かせていたのにも関わらず、そんなことも飛んでしまっていたんだ。


「あ? 何を勘違いしている。私はただの閻魔大王様の代理補佐だ」


 代理補佐・・・・?


 聞き慣れない言葉を探そうと、要領の悪い脳が躍起になって検索をかけている。それでも、出てくるのは検索結果なしの文字だけだ。それよりも。


「——その格好で閻魔様をじゃないの」


 どうしたって聞かざるを得まい。


「何だ、文句あるのか」


「だって、その格好で、そんな冠して、そんな笏持ってたら、誰だって閻魔様だて思うでしょ!? 何代理補佐って! 意味わかんない!」


 無い胸の中で燻っていた感情のようなものが、煙のように溢れてしまった。


「おい、貴様」


 その剣幕は、私のものを一瞬で撲殺した。


「——それ以上喋ったら殺すぞ」 


 もうすでに解放されたはずなのに、私はまだ、死という恐怖から逃れられていないことを、この時改めて実感する。悠玄とした無限にも思えたその時間は、ほんのわずかも陰りを見せることなく、あっけない幕切れを迎えてしまったんだ。何を思っても、もう遅いのだと感じることが、本当に切ないとか悲しいとかの感情よりも、空虚なものだったという事も解ってしまった。


「では、閻魔大王様を呼んでくる」


 思考の切れ間に、低い声が流れ込んでくる。

 そう言い残して、あの閻魔のような閻魔でない物体は、古い私の部屋のドアを開けてどこかへ出て行った。


 時計の針は未だ時を指し示していない。

 閻魔の代理補佐というあのひとが出ていくと、異様に静かな空間になった。ここは私の部屋なのに私の部屋じゃないことは、火を見るよりも明らかである。


 ふと、光らないスマホの画面が目に入った。昨日、寝る前、いやまだ生きていた頃、最後は何していただろうか。ツイッターで誰かの彼氏の話を見ていただろうか。フェイスブックでは、誰かが誕生日だった気がした。ラインの通知も、もう何十件もたまっていた気もしないでもない————。


「死にたいな」


 今日もまた聞こえてくる。このところ聞こえない日は全くないようだ。はじめは一日ごとだったか、時たま聞こえる程度だったと思う。だがひを重ねるごとに、数時間ごと数分ごとと、その間隔が段々と私を圧迫し、脅迫し、短くなってきた。それが一体誰かの声なのか、いやそれとも幻聴なのか、もしくは記憶だったのか、それすらも判別できなくなってきそうだった。クラインの壺の中にいるかのようだ。そして反響する声が再びと届いてきてしまったところで、私はようやく一種の答えのようなものに気がついたのだ。

 その忌々しい主が、紛れもない私自身の声だったということに。

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