第4話 解けない問い



 酷い夢。


 いくら普通と同じが嫌いでも、ここまでの仕打ちはないと思う。


 嫌な夢はいくつかある。たとえ吉夢だとされていても、自分が殺される夢は怖いし、幽霊が出てきたりするのも手に汗をかいてしまう。それに、自分が生きている夢も、なんだか、辛い。



 それでも。


 そんな嫌な夢がある中でも、これは大層酷い。今、私は襲われそうになっている。しかもタイプなイケメンであればマシなのに。


 目の前にいるのは、きっと人間ではない。姿形は確かに二歩足で直立しているが、人間にしては異常なほどに顔が朱い。


 緋色よりもさらに赤く、深紅よりも紅色な肌は、欧米人のように鼻が高いわけでも、東洋人のようにのっぺりともしていない。ただ、目は漫画のように大きく、それでいて鋭い。感情がむき出しになっているかのような形相なのにも関わらず、瞳の奥から思考を読み取ることができないのだ。


 なんとも人らしくない。さながらゴリラである。獣である。が、脳裏のよこ隅にどこか引っかかる。きっと初対面ではない感じが、海馬の奥からシグナルを出しているのだ。


 そう考えていると、その物体が近づいてくる。けれども、寝ている私は力が入らない。これが金縛りなのか・・・・。



 怖い、というよりも気持ち悪い。気色悪い感覚が体を覆う。冷たい、無機質な物体が硬く足の上に。こんな、醜いゴリラのようなキモいおじさんのような物体に、たとえ夢だとしても乗られたくない。一応、私もレディなのだから。酷い仕打ちだと思った。いろんな思いが錯綜して、思わず涙が出そうだった。



「———おい」



 ドスの効いた、といえばいいのか、濁声に似たような低い声がその口から放たれた。声低さと相反するかのように軽い音だった。身動きの取れない状態なのにも関わらず、意外にも思えるほどに聴牌でいないのは、混乱がいきすぎたのか、それとも単に全てを受け入れるキャパシティがないだけなのか。兎角にも、まだ落ち着いていたのが何とも不思議だった。



「———おい、起きろ」



 起きろ・・・・?

 私は、寝ている?


 え、でも、夢だけど起きていて、だけれども寝ている・・・・?

 

 これが明晰夢・・・・


 いや、違う、だって感覚がちゃんとある。何よりこうして考えることができている。


 であるのなら・・・・。



 全身の血の気が引いていく。


 布団の中に入っているのにも関わらず、悪寒は背筋を鼠のように走ってきた。


 まさか・・・・




「———おい、さっさとしろ!」


 その声と同時に、私の体を唯一守っていた布団が無情にもあっけなく剥がされた。私の最終防衛関門はいとも簡単に突破されたのである。物理的にも、精神的にも。



 布団の感触がなくなるのと掃除に私の理性を守っていたものが一気に決壊した。錯綜する感情がお腹の裏っ側から十二指腸を逆流して喉元に来てしまっている。辛うじて収まっていた目頭の水分も、この瞬間に止まらなくなった。その一つ目の水滴が溢れるその瞬間、喉元のブレーキは一瞬も持たず崩落して溢れ出す。



「・・・え、なに・・・なになになになになになになになに!?」



 らしくない、か弱い女の子のような体勢になっている。両腕で体を守ろうとする防衛本能のような反射だった。冷え性で乾燥肌である手のひらは、採れたて野菜のように瑞々しかった。低血圧である体は、普段よりも速く血が巡っている。脳の重さがじんわりと感じられ、瞳孔がゆっくりと、それでいてしっかり開くのがわかった。



 私は確かに、この目の前の物体に対して、恐れ、いや畏れている。体が熱いのに冷たい。いや冷たいのに熱い。


 ———そんなこと、今はどうでもいい。

 


 混乱する脳内は冷静な私なんかよりもはるかに思考が早くなることは解ったものの、目の前の、今については何も判別できていないことが問題だ。


 この目の前の状況が一体なんなのか、理解しようとするのに必死なのだ。


 こんなにも思考を自ら働かせようとしたことは高校受験以来だったかもしれない。けれど、これほどちっぽけな脳内で、これほど不可解な問題を解くには、全く余白が狭すぎる。


 状況を整理しよう。できるかどうかはわからないけれど。やれるだけでもやってみよう。


 今は、きっと、夢、ではない。と思う。


目の前にいる物体は、赤ら顔で、一見人間のようにも見えるけれど、人にしては明らかに異なる顔立ちである。目や口、鼻などはまるで鬼かのようだ。骨格はがっしりとしていて、太い眉のようなものがある。頰はおたふくにでも罹ったかのように膨れ上がっていた。それはまさに———



「うるさい。人間の女というのは、どうしてこうも喧しいのだ」


 その物言いからも、私の妄想は予想へ、そして確信へと変わる。例えば、犬の雌だとか、馬の雄だとかというように種族を限定する発言がある場合、それはその発言者がその種族でないからこそ出る発言である。


 したがって、人間の女とわざわざ仰言っているのだから、それは・・・・

この、目の前の物体が人間ではないことの証明に、他ならない。



「やっと起きたか」



 久しぶりに目がしっかりと開いている気がする。少女漫画であれば、キラリと光る麗しい瞳に緩くかかった天然のパーマ、ぼさっとした印象でもどこか可愛げのある面持ちであるのだが、お生憎様現実にはそんな比率の顔の女の子なんて、醜い整形か、もしくは天使でなければ存在しない。



それでも、今の私はおこがましくも、その天使のように目が大きく開いてしまっていた。


 小父さんよりもどす黒く、濁った声のモーニングコールは、最悪の夢を現実に換える魔法の呪文であった。



「いや、起きた、謂うよりは落ち着いたか、と云う方が適切か」


 確かに、この目の前が現実だとするならば、私は、ずっと前から起きていたことになるけれど・・・・


そしたら、一体いつから・・・・。



「まあ、其な事は如何でも良い。少々時間がかかってしまったからな。さて、始めるとするか」


「———ちょ、ちょっと待って」


 干からびた声が出た。喉元が擦れるように痛い。


「始めるって・・・・」


 けれど、そんなことよりも、今この対峙している何かと話すこと、そしてこの言葉の意味通りの疑問やら何やらが胸の中で反芻しっぱなしであった。だから、言葉がうまく出てこない。



 ギシっ———


 古い部屋の床が軋む。


物体が地球の引力によってその質量を床に加え、古びた床が自身の垂直抗力に耐えきれず・・・・


もう何を考えているのだろう。


間違いなく、そんな場合じゃない。

身の危険を感じる時って、思考がまともじゃないのだと今はっきりわかった。それだけで十分だと、冷静でありさえすれば思えたのに。



 そう考えているうちに、奴は一歩、また一歩と迫ってくる。か弱い私は、もしこれがコメディドラマだとしたら、きっとゴジラかオペラ座か、それに似た音楽を流すのかもしれないとか、少しだけ思いそうになっていた。



「おい、いいか、温順しくしていろよ」

 

 その言葉は、無機質で、冷たいはずなのに、ずっしりと重くのし掛かった。判然としたことがある。


このままだと、死ぬ———。



畏怖と恐怖が表層化する。


脳の混乱と状況判断のつかないストレスから震えだす動かない体に鞭打って、何とかこの原因である対象から遠ざかろうと部屋のドアまで逃げるように這いつくばる。


 貞操とか、殺人だとか、なんだとか雑多な事象が滝のように脳内に流れ込み、無数の言葉がニューロン回路をジャックする。


 再び、奴の右足が一歩動き出しそうなまさにその時、鈍い動きの身体が速度をあげて、右手のドアノブまで引っ掛けた。


 恐れは全身を奔らせる。奴は無言で近いてくる。果たして逃げ切れるのだろうか。


これが未だ悪い夢であり、明晰夢であってほしいという願望が、諦めと云う二文字を浮き上がらせるものの、仮に、もしそうでなかった場合、いや私の予測ではもう其の可能性の方が十二分に上回っているのであるが、それイコール最悪の自体をもたらすことに他ならないことは、よく理解していた。


 しかし、この部屋から、一刻も早く、一秒でも、一刹那でも出なければならないと頭ではわかっているのに。ドアが、全く開かないのだ。右手に引っ掛けたドアノブをいくら回しても、その手応えは手首までも伝わってこない。



「どうして・・・どうして開かないの!」



 思考とは裏腹に、声は乱れている。余った左手でドアを叩いても、全くビクともしない。ドアが引き戸か、それとも押すのか、そんなことすらわからない。けれど、どのパターンも全てからっきしに外している。



「———お母さん!! ———お父さん!!」



 無情にも叫んでいた。普段呼ばないその声は、来るはずもない無駄な音。そんなことは判っていても、掠れた声で叫ばずにいられなかった。


「ご両親を呼んでも来やしないよ」


 魔王だ。その囁かれた劈く音が、地獄の底へと落しこむ。絶望というような文字がふさわしい。下手人は四苦八苦する私を嘲笑うかのようだ。


「誰か!!助けて!!ねえ誰か!!」


「だから無駄だって言っている」


「ねえ誰か・・・・!!」


 その言葉に、一切の誰も反応しない事は、もう既に知っていた。


 普段から、無駄なことをしない性格だとは思っていた。それなのに、なぜこんなことをしているのか私自身でも疑問だったのだ。それでも、こうしなければいけないような気がしていたから、胸の内にある思いとは反対にして、ドアの外に向かって何かを叫び続けようとしていたのだ。



「・・・・・・・・」



 そう、叫び続けようとはしていたのだ。そうしなければいけないような気もしていたのだ。


 だけれども、もう私の喉元の声帯は震えようとはしていなかった。血の気の引いた体から、力までも奪い去られる。人形のようにガクンと崩れた四肢は、私の支配下にあるの感覚すらも消えていたのだ。


 呼吸が荒い。何とか、息を大きく吸い込んでみる。口からではなく、なるべく鼻から空気を取り込んで、ゆっくりと吐き出していく。瞑想するかのように、森林の中で大きく深呼吸するかのように深く息をした。


「やっと落ち着いたようだな」


 そう言われると、脈拍が速くなるのが意図せずとして分かった。床についた片手が、それ自体の重みによって圧迫されているがゆえに分ってしまったのだ。


「ねえ」


 もはや動物ではなくなりそうな体を振り絞って声を出す。弱々しくも、精一杯に毅然とした。

「あなたは一体何———? そして、何をしに来たの・・・・?」


 恐る恐る尋ねたが、先ほどの虚勢は自身でもわかるほどに弱々しかった。その細い空気の振動の裏っ側には、もう既知である事実を隠していたのだから。


「よかろう、答えてやる。貴様には、これから人生の審査を受けてもらう」


 人生の審査・・・・。矢張り、そうだ。


 もっとも身近な概念のはずなのにもかかわらず、もっとも遠いというパラドックスのように捉えてしまうジレンマ的なパズルである。


ある場合ではたった一つの、ある場合では対立の、ある場合では答えのない命題。


その答えは誰も証明できるはずがないのに。  


今、私の脳内で、証明が完了しようとしてしまっている。これだけは避けなければならないという人類共通の敵なのに。


私は、その敵に、負けてしまったのか———



「え・・・・じゃあ・・・・・も・・・・・し・・・・・・」



 言葉とは、とても形容しがたい音が漏れ出した。悟ったことは子供でも分る。


だけれども私には、解らなかった。


判りたくも無かった。



「———まあ落ち着け。何も不安がることない」


 身の危険———を感じ終えて、不安を覚えない人間など存在するのだろうか。そんなものがいたとすれば、それは神か或いは・・・・。


体が震えた。ぶつぶつと肌に突起が現れ、鳥になる。気がつけば、ピーチクパーチク泣き叫ぶ小鳥のようなリズムで息を吸い込んでいた。


息が吐けない。胸が重くなっていく。


再びドアノブに手をかけ、思い切り押し開けようとするも、ドアという物質の感覚は戻ってこない。



「まったく、無駄な足掻きは止めろ。貴様の声など、誰にも届かない」



 その声は、爆発音にも似た残響だった。


脳髄を支配する言語感覚みたいなものが、狭い四畳半から響くのとほぼ同時ぐらいに頭頂部へと痛みのような感触が走ってくる。


それと同じくして、得体の知れない感覚が私のRAMを占めていた。



「私———死ぬんだ・・・・」



 絶望と形容するべきか、虚とするべきか、無か、空か。刹那にも満たない感傷はまだ0ではないことを証明していただけで助かっている。


「人間は誰もが死ぬ。そんなことも知らないのか。それが、早いか、遅いか。死にはそれだけの価値しかない」


「——————そう、だね」



 恐る恐る答えてみた。



「あの神様でも死ぬんだもんね。それぐらい、分かっている」


「もの分かりがいいな、人間」



 怖さも確かにあった。しかし、それ以上に何か癪に障るような物言いだった。


脾臓が締め付けられる。目の奥が熱い。

今までの記憶や感情が全身から溢れ出そうだった。これが後悔だとか、走馬灯のようだとも初めて思った。その人生アルバムは笑っちゃう程に薄すぎたのだ。



 悠久にも感じられるほどの塵にも満たない時間が過ぎている。割に合わないと自嘲しても、もう手遅れなのは解ってしまっていたのだ。


 たとえ、ヒステリックになる二秒前でも、私は決してそうしない。無駄なことはしない、できない可能性のあるものは何もしなかった。私にできるのは、できることだけ。


 それなのに、物心ついて初めて、発狂した。


 人前で泣くことすらなかったのに。

 いや、これは人ではないから人前ではなかったか。 

 それからのことは、判然としていない節がある。自分が何を言ったのか。何をしていたのか。どんな感情だったのか。濁泥のような思考に飲み込まれていた中で、聞こえていた音はきっと、そのようなことだったと思う。



「一旦リセットするか」



 脳髄を支配する声と同じような音とともに、頭頂部の神経に衝撃が来ていた。視界が霞む中でうっすらと感じたのは、確かあれは、笏だった。


「今度こそ落ち着いたか。人間が姦しく鳴く姿が一番見るに堪えない」


「・・・・」


 礼を言う気にもなれなくなる。そんなことよりも。


「今、何をしたの・・・・?」


「馬鹿か、笏で頭を叩かれたのすらわからないのか」


「そうじゃなくて! 何で、私が落ち着いたのか聞きたいの」


「貴様のどこが落ち着いているんだ?」


 それは、その通りかも知れない。だけれども、なぜこうも変われたのか、興味を抱かざるを得ない。



「むしろ、先よりも騒々しいぐらいだ」



 そんな心無い言葉に言い返したくもなる。でも、いつの間にか表層的な恐怖の親戚は消えていたのは間違かった。



「また五月蝿くすると打つからな」


 前言は撤回しよう。怖いものは怖い。


「もう、大丈夫」


「そうか。それなら良いが」


 少しホッとした。それから奴の顔を見てみると、どことなく人間でいうところの口惜しそうな顔だった。


 だけれど。


 あの目下にある笏———はやはり見覚えのある、あれなのか。


 などと考えているけど、今、なぜ奴は何もしゃべらないのだろうか。先ほどより冷静な自分がいるからこそ、こうした気付かなくても良い点が気になってしまって、なんというか。気持ち悪い。それに、なぜ私がこんな気を遣うことをしてしまったのか、甚だ疑問である。



 それでも一向に音が発せられる気配はない。住みなれていない居心地の悪い自室が、似合わなく閑静だ。この生ぬるい気圧に耐えるのはもう限界に近い。


「あの」


「なんだ」


 何故そんなにも傍若無人な態度でいられるのだろう、と言葉が浮かぶ。他人のことは言えた身でも無いが、それでも気にはなってしまった。  



 恐る恐る尋ねてみるけれども、清水の舞台から飛び降りるよりも怖いことはない。言えるのは、先ほどまでの危機的な感覚から解放された気分になりそうだと言うことだ。取り敢えず、今、取って喰われると言うことはなさそうである。  



「あなたは、一体何をしに来たんですか・・・・?」


「ああ、そうだった。貴様があまりに五月蝿くて忘れていたわ」


 さっきから癪に障る。わざとらしく咳払いとかしている様子が、ドラマなどで見ていた嫌な上司や大人そっくりだ。


「それでは、これより貴様の審査を行う」



 ———聞き取れなかった。いや正確には聞こえてはいたものの、脳内でその言葉を情報として処理しきれなかったのだ。鸚鵡のように聞き返す。



「審査・・・?」


「そうだ」


 もう何が何だかわからない。短期メモリが破裂しそうだ。元々解っていた訳では無かったけれども、さらに判らなくなる。



「貴様の、人生の審査だ」


 人生の・・・・。

 そうだ。その大きく見開いた体の裏側まで鋭く見透かす眼光、対峙する者の血液を全て吸い取ったような真っ赤な肌、袖が不自然なほどたるんだ大きな半纏、黒光りした上に向かって裾が広がる冠、そして笏は、やはり、閻魔。


 たとえ地獄の門番がいたとしても、法の番人がいたとしても、本当に真実を見抜くことなどできるのだろうか。法は、一体何人の人間を葬ったのだろう。罪のない人間は一体どれほどいたのだろうか。本当の罪人は、今もやはり三軒両隣に住んでいるというのに。



 なぜ、こんなにも世界はこれほどまでに醜いのだろう。もう既にどのような計算をしたとしても、未来に希望などありえない。

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