第3話 未来の扉は開かない
一
「死にたいな」
夕闇が深く濃藍に染まり始めた頃、未来は壊れかける体重計から降りざまに、誰かにつぶやくよう、そう吐露した。
また言っちゃった。本当はそういうわけではない、はずなのに。昨日は何回言ったんだろう。覚えていない。鏡面に移る自分の姿は、まるで自分自身ではないような気持ちにさせられた。
耳に劈く電子音が、いつもと同じく不快に感じる。
心安らぐ布団の中で、まだこのままでいたい、という卑しい言葉が頭の中で木霊する。
悪魔のささやきにも似た、そんな欲望をなんとか堪えつつ、私は布団の横から丁度腕一本分の隙間を開け、外気が入り込まないよう慎重に左腕を少しだけ突き出して、バタバタとあたりをまさぐった。
掌から伝わる床の感触が朦朧とする意識の大半を占領する。その冷たい信号とは異なるものを探ると、あの、硬くて無機質なアルミニウムの質感を確かに感じて、人差し指を除いた指の腹で弱々しくも確と持ち上げて、ブルーライトの強い光に目を細めながら、画面に表示された「起床アラーム」の文字をタップした。ホームに戻した画面の上には、5%の文字がか細く表示されている。
そういえば、充電しないで寝ちゃったんだっけ・・・。
心の中でそう愚痴いた。
バイトの疲れと、何ら変化のない退屈な日常の倦怠感とがどこかの試験管の中で入り混ざって、昨日の夜は死んだように眠ってしまっていたみたいだ。いつもならば何時間も眠れないなんてことも珍しくないはずなのに。その日に限ってどこか反動が現れたようだった。
この眠りとどんな因果があるかはいざ知らず、普段からも何かの夢を見ることが多かった。
今日は、何の夢だったか。
何かの夢を見ていたというぼんやりとした感覚はある。だけれども、それが何だったか、もうこの段階では思い出せない。
そもそも、夢を見ていなかったかどうかも、判然としなくなっている。起き抜けの、頭の中にかかった霧を抜け出して、ほんの少しでも時間が経つと、もうその感触は手元にない。幼い頃、頭と画用紙と分不相応な名前と同じ「未来」とに描いていた夢という名の将来が、時の経過という成長とともに薄れゆくように、私の中から剥がれ落ちていってしまった。
そう考えている中も、未だ布団の中だ。左腕はすっかり元の位置に戻っている。別に特段外が寒いわけでもなく、布団の中が別段暖かいわけでもない。ただ単純に私の体自体が冷えきっているからだと知ってはいても、やっぱり出るのは難しい。暑い日差しの真夏だっていうときですらこうなのだから、他の季節では言わずもがなだ。
そんな言い訳がましく布団に包まっていたとしても、時は止まってはくれない。二度目のアラームが私を貫いて、左から右へと流れていった。
仕方なく——何が仕方ないのか知らないが——布団から再び手を出して音を止める。その勢いのまま、眠い目を擦って気合を入れる。それが何度か繰り返された後、やっと布団を自ら剝いだ。
こんなイメージトレーニングも、もう何日繰り返しているだろう。中学の頃はよりは、まあ、多少は、マシになったかもしれないけれど。それでも私は変わっていない。
そんな自分を卑下にして、上体をようやく起こした。濁りきった朝の空気を仕方がなく吸い込んで、両手を組んでギュウと背伸びをする。足首や肩、手首と指、首。挙げ始めるとキリがないが、凝りなのか張りなのか、何らかの重たさに似た違和感はある。自分の体でないみたいだ。体温が上がりきらない冷たい体に鞭打って、絶望という感情を今日もまた飲み込んだ。憂鬱な一日が始まってしまうんだ。
そう考えながら今寝ていた布団を適当にあしらった。
よれた寝巻きを脱ぎ捨てて、ハンガーにかけた制服に手を伸ばす。いつものように着替えを済ませ歯を磨く何も変わらない、いつもと同じルーティーン。
朝食もいつものように食べやしない。周りの大人たちは、食べろ、食べろと脅迫するように口すっぱく言ってくるけれど、朝から空腹なんてことはないし、ダイエット中でもあるし、なんだか、食べたくない。そもそも食べる意味がわからないから、結局いつもそのまま学校へ向かう。それに確か食べない方がいいみたいな事も誰か言っていたような気もしてる。
誰への言い分か、わからない弁明を脳内で繰り広げ、曇った光沢ないローファーを半ば適当に履いた。コツコツ、と二回ほど床をつま先でノックして、足の位置を乱雑に直す。指定カバンを左肩に背負い、右手をドアノブに引っ掛けた。家の堅い扉をやや憂鬱気味に牛歩のごとく開け始めると、また、薄汚れた排気が自分の肺胞へと無遠慮に入ってくるのに対し、思わずむせて返ってしまった。
正面から弓矢のように突き刺される太陽は、相変わらず照り輝いて眩しい。瞳孔がキュッと萎んでいくのがよく判る。せっかく開けた薄い目蓋は、もう七割ほど閉じてしまった。今日も日差しだけは暖かい。何億光年先かも私は知らないけれど、遠く、遠く、可視できるよりもずっとずっと遠いところから、こんなにも熱くできるエネルギーの正体とは一体何なのだろう。ほんの少しだけ、そう疑問に思う。
それでいても世界は変わらない。
いつもの道をいつもの通りに歩く。通りすがるのはいつもの人。ため息まじりの重たい空気を醸し出し、古びたスーツを着て、古びた靴を履いた中年のおじさんたち。ど派手な、まるで自分だけを見てほしいと言わんばかりに柄々した浮いているおばさん。カジュアルで、モードで、画一的な服と全然イケていない髪の量産型学生達。みんな雑多な音を耳に突っ込んでいる。外はこんなにも騒々しく煩いのに、何故そうまでして聞きたいのか。
こう考えるのも、もう日課となった。
華の女子高生、なんて言葉を汚いおじさんに言われたりもするけれど、何が華なのだかよくわからない。華を持たせてくれたつもりか、鼻で笑っているのかは知らないけれど、私はそんな言葉なんていらないし、興味もない。世界に一つだけのはなにもなれやしない。こんな代わり映えのしない日常が少しでも変わったらなんて思っても、日常から離れられないことはもう知っている。
「死にたいな」
そんな自分の言葉に後悔しつつも、仕方がなく、心の中で言い訳して自分に許してもらうことにしていた。決して許しの出ない自分に嫌気もさして、体内の空気を足元に吐きだした。
声の、空気のベクトルが私に向いた気がした。
「——————」
何かを言われた。
いや、それが何かは分からなかったけれども、誰かが、私がため息を吐いた瞬間に、私の傍らを通った誰かが、私に何かを言った、そんな気がしたんだ。はっとして、すぐさま顔を上げ、後ろに振り返った。だけれど、そこで待っているのはいつものサラリーマンたちだけだった。
きっと誰かの独り言。
そう、脳の中で言葉にするけれど、言われたその何かの言葉は、確かに私の身体に突き刺さって内臓をえぐり出していた。
ただ、そう思った三秒後。その奇妙な感覚は、もう消えていた。何を考えたのか思い出せなかったのだ。何故振り返ったのかも忘れてしまった。
誰かがいたのか、それとも何かがあったのか、猫か、烏か、あるいは車か看板か。それすらも分からなくなっていた。でもきっと、いつもの気まぐれだろうと思い込み、再び重い足取りで学校へと向う。掌はすっかり熱くなり、全身の毛穴は解放されている。
その日はもう九月だというのに、黙っていても汗ばむくらい暑かった気がした。
それでいても、学校の風景はいつも通りだ。周りは誰が告った別れた、何のTVを見た、どっかのアーティストっていう歌い手の軽い歌の御話に暇がない。
どこかの誰かが勝手に作った御伽話なんかに、勝手な解釈、勝手な理解で感動して、泣いたりして、心が救われたような感じがして、共有したりして。みんながみんな、一緒に同じになったり繋がったりして。そんな、つもりになったって。
一体、それの何が楽しいのか。
もうすぐ一七になるというのに、人の心というものは未だ全くわからない。きっと、私がおばさんになっても、そうなのかもしれないな。
そんな景色でもうお腹いっぱいになっていた。これ以上もう醜い情報を入れたくないから、ポケットに入っている白いイヤホンを取り出して、耳の裏にケーブルを回して耳孔に引っ掛けた。左手でスマホを取り出して、再生ボタンを押す。
「・・・・・・・」
今の心境と、あまりにも似ていたから、思わず口に出していた。
気づく頃にはもう私は今の目的を終えていた。
ただ呆然と、自分の席から外を眺めているのも悪くはないけど、それだとただのぼっちのようでバツが悪く、ため息が出る。
またそう絶望して鞄のチャックへ手を伸ばす。みんなは、この部分に何かのマスコットのチャームやら何やらを、ごちゃごちゃとつけている。それに何の意味があるのかそんなことは私の与らぬ所だが、そんなにぶら下げて邪魔じゃないのか。
斜め向かいのイケてるグループの、言わば番各は、どこかで見たような気色悪い毛むくじゃらの人肉色をした人型ではない人形を周囲へ晒している。一体そういうのはみんなどこで買ってしまうのか。いや、そもそもそれを売る側の神経はどうかしていないか。
そんなどうでも良いことを思いながら、家から持ってきたコッペパンを少しだけ口に運んでいた。いつも寝起きは食欲ないが、なぜか学校へ来ると少しだけお腹が空く。朝はあんなに息巻いてご飯は食べないって言ってしまったけれど、コッペパンを鞄に入れて学校で、ひっそりだけど、ちゃんと食べているんだから。机に広げた教科書とツバメノートと御下がりのラミーのペンに零れないよう留意して、いつものように無言で食べた。
そうしている間にチャイムが響く。
学校が終わったら、これもまたいつも通りにバイトに行って、いつものように帰ってきた。帰宅後、鞄を置いたら先に手を洗う。口を漱ぐ。制服を脱いでよれた服に着替えるルーティーンを完了して布団を敷いてリラックス。これを至福と表しす度に、胸の奥で虚を衝かれるのであった。
「死にたい」
この布団でだらだらしている時が最も幸せを感じるのにも関わらず、また言ってしまった。感情とか、思考とか、そういのと関係ないのか。自分の口のはずなのに、まるで自分の言葉の気がしてない。
でも、まあ言ってしまったことは仕方がない。制服の内ポケットから取り出していたスマホの充電を気にしつつ、特に何か調べたいこともあるわけでもなかったけれど、ただブラウザを開いてテキトウにサーフィンする。波に乗れず、網にかかっているのはきっと私の方だ。
何て詩的なことを思ったりしても、それをどうすることもできない。今世界のどこかで起きているらしいこともたくさん流れてくるけど、全く実感なんて有していない。ちょっとおかしいのかな、とも思うけど、そもそも私のいるこんな所から、どれだけ離れているのかさえよくわかんないのだから、これも仕方がないかと諦める。
グーグルアースでだって結局、具現化しようと立体的にフェイクしているのかもしれないけれど、それを現実的にはするかもしれないけど、決してそれは現実ではないのだ。3.14が円周率でないように、そんな簡単には迫れない。
だから今どこかで戦争やら紛争やら起きているなんていうのも、心の底から本当には信じられないんだ。ジャーナリズムなどという言葉も、やっぱり誰かのバイアスが掛かっている。
正義なんて、多分そんなもの。ウルトラマンもゴレンジャーもセーラームーンも、全知全能の王も、新世界の神もいないのだから。
多分、そんなもの。フィルターのかかったこの世界に真実なんてもの、本当の幸せなんていうものはない。ありえないんだ。
そう思っている中にいつの間にか、目は閉じていた。
子供の頃。
夢は正義の味方だった。悪い事に立ち向かい、弱い人を助ける。
そんな夢だった。
だが、少しずつ時間が経過するに従って、朝目覚めると見ていた夢が思い出せなくなるように色合いが薄れていく。夢という選択肢は、目に見える簡単に手に届きそうなインスタントなものに移っていく。まさに水のようである。
それを成長と形容するのならば、教育とは何なのか、人生とはなんのか、生きるとは・・・。
そう思わざるを得まい。
夢とは、なんと不可思議で、奇想天外で、波瀾万丈であるのか。想いもよらないことが無意識化で繰り広げられ、まさしく劇的ではあるまいか。
本来ならば、そうであろう。
そう。
なのに、現実は数キロも小説の足元に及ばない。
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