真田 春大の章 4
写真に写っているその笑顔は、見慣れたものだった。一つは目の前の、母さんのもの、もう一つは、父さんのもの。
「‥‥‥ごめんなさい」
母さんはそう謝ると、家を出た。俺は反射的に追いかけようとしてしまう。でもそれを、夏が掴んで止める。行っちゃだめ、お母さんは今、戦っているから。そう瞳が訴えかけているようだった。俺はその場に座り直した。
どれくらい経ったのだろう。ガチャリと玄関が空いたのは、日が沈みかけた頃だった。母さんの目は真っ赤に腫れている。
「ごめんなさいね。今日は泊まっていくでしょ?夜ご飯はなにがいい?」
「‥‥‥なんでもいいよ」
俺は呟くようにそう返した。夏は何も言わず、下を向いている。
「‥‥‥そう。あなたたちは隣の和室を使って。押し入れに布団が入ってるから」
母さんはそう言うと、静かにキッチンに立った。俺はそれを見届けてから立ち上がって隣の和室に入った。夏は少し遅れて立ち上がった。
夜ご飯に出されたカレーを俺たちは無言で食べた。美味しかった。だけどなんだか、しゃべるような気力が残っていなかった。
「「‥‥‥ごちそうさま」」
「春大、夏。話があるの」
母さんは俺たちが食べ終わったタイミングを見計らって、スプーンを置いた。俺は浮かせた腰をもう一度おろした。
「――私と、三人で、暮らしませんか?」
俺は息を飲んだ。少なからず、母さんがそう望んでいたことは、俺も薄々気がついていた。俺だって母さんと暮らせるものなら暮らしたい。だけど‥‥‥。
「ごめんなさい」
そうはっきりと告げたのは、夏だった。そうだ、夏には居場所がある。『間宮夏』として、弟として、愛され、求められる場所がある。
‥‥‥じゃあ、俺は?
父さんも義母さんも、俺がいないほうが幸せなんじゃないだろうか。元妻との子なんて、二人からしたら、迷惑なんじゃないだろうか。
「‥‥‥春大は」
母さんは少し寂しそうに夏を一瞥し、俺に問うた。
俺は首を振った。なにも考えられなかった。父さんと義母さんと暮らすはずの未来がきれいサッパリきえて、真っ暗で、なにも――自分の姿さえも、見えなくなった。
「‥‥‥春大くんは、お母さんと暮らすの?」
布団のなかでこそこそと、隣の居間で眠っている母さんを起こさないように夏は小さな声でそう聞く。
「‥‥‥わからない」
俺は洗濯物を入れるビニール袋を出そうとかばんをあさると、なにか紙切れに触れた。なんだろうと思い取り出して、手元の明かりだけをつけた。
「‥‥‥っ」
義母さんからの手紙だった。几帳面に折り曲げられた便箋に、丹念に書かれた文字が、透けて見える。
俺はふっと一度大きく息を吐いて、手紙を開いた。
春大くんへ。
今は何をしていますか?本当のお母さんには会えましたか?
この手紙は、私が春大くんに伝えたいことがあって、書いたものです。迷惑であれば、捨ててもらって構いません。読まなくても構いません。
春大くんがどう思っているのかはわかりませんが、私は春大くんを迷惑だと思っていません。いつも他人行儀で、どこか一線を引いている態度が気がかりだけど、実際の血縁関係がなくて深追いができません。でも私は春大くんを、本当の息子のように思っています。
浩大さんは、春大くんのことが大好きです。それは、今も昔もかわらず誰よりも、春大くんのことを愛しています。愛しすぎるが故、冷たい態度を取ってしまっていたり、厳しくものを言ってしまったりもする。それはあなたが一番よくわかっていますよね。
書類上の関係でしかないお母さんだけど、わがままを言わせてください。私は春大くんのことが大好きです。いつでもひたむきな愛を注ぎ、一生懸命で、でもどこか、弱い。そんな春大くんの成長を、一番近くで見ていたい。春大くんと一緒にいたいです。洋子さんが春大くんたちと暮らしたがっていることは知っています。だけどどうか、私たちを選んでほしい。時間はかかるかもしれないけれど、一生懸命頑張るから、お母さんだと思ってもらえるくらい頑張るから。私と一緒にいてください。
――優子。
涙が溢れた。唇を噛み、嗚咽を抑える。
ずっと、嫌われていると思っていた。どこかで感じていた疎外感。だけどそれは、俺の勝手な妄想でしかなくて、義母さんは俺のことを息子として、大切にしてくれていた。思えば、父さんが仕事で家に帰れない日だって、一度もご飯を作らなかったことも、洗濯をしなかったことも、なかった。俺のためにご飯を作って、洗濯をして、おやすみって、おはようって、その笑顔を見せてくれていた。あの笑顔に、裏なんてなかった。そんなこと、俺が一番わかっていたはず、ううん、わからなきゃいけないはずだったのに。
――だけど。脳裏に焼き付いて離れないのは、母さんの寂しそうな笑顔。春大と呼びかける、その優しい声色。記憶は少なくても、俺の中で母さんは生きていた。ずっと一緒に。だからこそ、恨むことができなかった。母さんのことが大好きだから、恨むことができなかった。
義母さんも母さんも、どちらも俺を大切に思ってくれている。だからこそ、どっちが上とか下とか、そういうのは嫌なんだ。
俺は、どちらの道を選ぶべきなんだろうか――。
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