第8話


 帰り道、改めて彼に謝った。ストレスや何やらが急に溢れてしまったこと、醜い姿を晒したことを真摯に謝った。彼は何も言わなかった。

 その道中、それ以降会話はなかった。しかし私には、その方が都合良かった。もしここで何か言われてしまっては、感情を抑える自信が全くなかったのだ。足取り重く、動作一つ一つが顕在化している。同じ歩幅で歩く彼の体温も生々しく感じていた。

 別れ際、柄にもなくしようとしたことを、妄想の中に閉じ込めた私に彼は、ただ一言「ありがとう」といった。

 その理由は解らない。私も同じ言葉を返して帰宅した。

 

 次の日、何事もなかったようにしようと決心していた。今までと同じく、普通に接しようと、平成にいようと決めたのだ。

 別に何か変わったわけではないのだから。

 そもそも生きている上で、砂時計をひっくり返したように人生がごとりと変化することなどあるのだろうか。これはドラマや、漫画や、小説なんかじゃない。

 現実は小説よりも奇なりともいうが、それこそ難しい話だ。何も変わらないということは確かに奇怪だとも思うけれど。それでも、きっかけなんて何もないし、ただ振り返った時に気がついたら、そうした感情が芽生えていた、何てこともありえなくはないのだ。

 ただ後悔は先に立たたない。それは承知している。だからできることは今のうちにしっかりやっておこうと思う。だけど、幼い頃から抱いたこの思いは、細々とでも、脳と心の片隅を行き来して、完全に消滅することは一時もない。

 もしも、月が綺麗に見えてくれたのならば、もう死んでもいい。でもそれでは少し口惜しいから、赤く染まった顔で「やすらはで 寝なましものを こ夜更けて」と言ってくれよう。きっとこれすら杞憂で終わると思う。

 そんなことを考えていたら、目の前の彼に心配されていた。なにやら虚ろだったと。一体誰のせいだ、と言いたくもなるけれど、そこはぐっと我慢した。

 いっそ英語の文章を見せて、これ訳して、とでも言ってやろうか。いや、それもそれで、やっぱり関係が壊れるのも怖い。今が結構楽しいし、受験も控えている。せめて卒業まで———それがいいだろう。当分は集中しようと心に誓った。

 そのまま過ぎ去った高校最後の夏だった。一気にやってきたと思ったら、すぐさま去っていく。台風が多かったから、夏が一体いつまでだったのかはもうわからない。勉強三昧で、こんなんで高校生活終わっていいのかと疑問にも思ったり、憂いたりもしたが、一緒にいる相手のせいで、十分に落ち込む暇もなく、むしろ楽しんでいたと思う。特に遊んだりもしなかったけれど、相手だってそっけないけれど、それはそれでやっぱりよく見えたりするんだ。だから、不満は、あるけど、それでもいい。心が躍った暑い夏だった。

 最近は少し肌寒くなったきた。日中は気温が高いことも多いが、夜帰るときは上着が欲しい。なので、タンスの奥からカーディガンを出すか迷っていた。

 そんな風に考えながら傘をさして交差点に差し掛かる。一瞬赤信号なのを忘れてそのまま歩き出しそうだったのを、残っていた左足でグッとこらえた。危うく交通事故になるところだった。どうやら最近上の空らしい。学校で友達にも言われた。ああ、注意しなきゃな。

 そう考えてまた歩き出す。信号は確かに青になっていた。転んでも危ないから、と注意する。左から、車の音が聞こえて来るが、さほど気にはしていなかった。信号は青でもう横断歩道は渡りきる———が見通しは甘かった。

 頭の中では当然止まるはずと思っていた車が急にハンドルを切ってこちらに迫ってきた。首を車の方へ傾けていたから、それがコマ送りになって確と捉えている。やばい、と思っているうちにはもう全身の感覚が何もなかった。

 どうやら浮かれていたらしい。柄にもなくはしゃいでしまった罰だろうか。私ごときが、浮き出た感情に振り廻されることすら許されなかったんだ。感覚が少しずつ思考とはあ逆に判然とさせられてくる。

 体が熱い。正確に言えば寒さが感じられるのだけど、流れ行く私の血液が、冷たいアスファルトと相まって熱く感じられる。

 せめてもう一度会いたかった、と思った。ちゃんと、高校生らしく、この感情を言葉にしてみたかった。安っぽいと思っていたけれど、そんなことなかった。少なくとも、何も言えないちっちゃい私よりは。

 周りの音が聞こえない。反芻されるのは、彼の声。どう思ってたのかな。嫌われてなかったかな。ああ、きっと今日も待ってくれてるんだろな———。


 目を覚ました。どうやら頬杖をついたまま眠ってしまったらしい。大変奇怪な夢を見た気がしたが、七秒後にはもう覚えていなかった。

 壁一面に貼った遥香の写真が日差しで少し焼けてきている。そろそろ張り替えなければと思いながら寝た。

 朝、いつもならば授業で読ませた教科書の言葉の録音で目をさますのだが、携帯を買い換えて設定していないのを今になって思い出した。

 仕方なく、そのまま起きて携帯を見ると、数件の電話とメールが来ていた。それは学校からだった。すぐさま連絡を取ると、学校へ駆けつけるようにとだったので、急いでい自宅を整えて、職員室へ向かう。すると、神妙な面持ちの校長や教頭、それに3年の先生らが集まっていた。ただ、友人であり同僚の相里恭介を除いて。

「東山がなくなった」

 その言葉で思考が止まる。真っ白になった脳でただただ話を聞き、これからのことについて職員で話し合われた。

 交通事故。一日に何件起こるかはわからないが、まさか自分の身辺で起こると思っている人間なんてどれほど存在するか。私も例外ではない。そして、それが、同僚で友人が引き起こし、愛する生徒が死亡するなど、誰が想像出来ようか。

 後に聞いた話では、途切れ行く意識の中で呟いてそうだ。それが何かは、喉がもう潰れそうだったために、判然とは聞き取れなかったそうだ。東山は救急車が到着した時にはすでに息を引き取っていたらしい。

 相里の方は、いわゆる居眠り運転だったそうだ。今まで一緒に仕事して、帰宅する際はたまに飲みに行ったりもしていたが、3年の学年付きになってここ数ヶ月は一緒に帰れることもなくなっていた。過労によるものだという話だ。

 ただきになるのは翌日の新聞には、この出来事が一切触れられていなかったことだ。地方欄にもなかった。その翌日も、翌々日もなかった。違和感を覚えるものの、それ自体を覆い尽くす絶望と虚無感ですぐに忘れてしまった。

 月曜日に全校集会が行われた。だが、生徒に知らされたのは、知る事実と異なっていたかもしれないということも、もはやどうでもよかった。

 異常な眠気と倦怠感が襲ってくる。晴れ晴れとした、秋空が眩しすぎるほど突き刺す日だった。


 夢を見た。

 学校の鐘はしばらく聴いてもない。今朝方見た夢ももう消えかけている。私の中で大切だった人はそのぬくもりも冷え切ってしまうほどの歳月は過ぎ去っているのだ。

 人の夢は実に果敢ないものだ。思っていてもかなわないことの方が多いのに、夢に向かっている生徒に対してはそんなこともまだ言えない。夢を聞かされ、私の夢に絶望した人間が果たして何ができるだろうか。ひとしきり考えた。

 終業を告げるチャイムが鳴り、いつもと同様に相里恭介と職場の学校を後にした。何歳も年が離れているにも関わらず、こうして昔から付き合いがある腐れ縁というやつはどうにも恐ろしい。幼馴染が教え子になり、また同僚になるなんて思いもよらなかった。

 家に帰る途中、もう日が落ちているのにも関わらず、その都会の暑さと湿度にやられそうになる。耐えきれず、道なりにあるスーパーに寄って一度吹き出す汗を抑えよう。そして家で待つ遥香には何を買っていこうか、そんなことを考え自動ドアの向こうに歩いていった。

 溶けそうになるアイスと、甘さの控えたお菓子などを適当に入れた袋を片手にぶら下げて外に戻る。見繕った供物としては些か不適切かもしれない。

 梅雨が明けてからは殆ど雨の降る日がなかったように思える夏だった。然し、それももうすぐ了る。

 外気の湿気と気温とが静かに潜めながら秋風を呼び寄せる。未だに雨は降っていないもののそれは確かに手が届くその先まで来ていたようだ。

 それでも。

 その少しが、何億光年かのように遠い。0と1の狭間を探したとしても、マイナスを探したとしても、虚構の世界に入ったとしても、もう届くことのないことを季節が晒しめる。

 伝えるはずだった言葉も今は胸裏に無い。抱く感情も、もう誰にも無い。心の中もごとりと音を立てて変わったのか、或いは———真理は永遠に掴めない。

 だが結果として、形として、手紙を書けずにしても、もう六年が経つ。冒頭の、秋雨の候、の文字はすっかり日焼けした薄らと赤さが見え始めた。古いクローゼットを開き、スーツの奥の黒い礼服を取り出す。その隣には懐かしい制服が皺をそのままにして吊ら下がっている。黒服と黒ネクタイに包まれて、あの交差点に行く。屹度今年も一輪の花があるだろう。線香の香りを纏って東山家へ向かった。

 生徒だった東山遥香の写真が飾ってある。そこには福浦春希も写っていた。

 手を合わせるのは七回忌に参列するが、雨は未だ降らないらしい。

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『秋雨のfantasìa』 @haya_watson

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