第7話
私を呼んだのは学級担任だった。
さっきまで朝から体育館で何やら話していたのに、今度は個別で話されるなんて。正直もうお腹がいっぱいである。
普段、友達には名前で呼ばれるが、教師には名字でした言われないのですぐわかる。目で見なくとも、丈の妙に長いスーツを着て、サンダルを履いた中年のオヤジ臭を漂わせて近寄ってくる。肩に着いた白い頭垢と象牙色から遥かに遠い汚れた歯は、その姿をさらに不快にさせた。だがそんな様子は1ミリたりとも表情には出すまいとして愛想よく振り返る。
やはり今思っていた通りだ。
今日も相変わらず小汚いですね。そう一言かましてやりたい気分だ。だが、私ももう幼い子供なんかじゃない。そんな気持ちをぐっと飲み込んだ。
「どうしたんですか」
なるべく笑顔で、できるだけ無邪気に答えた。尋ねると長々と無駄な事を言われた。
大体うちの教師の半数は無駄に話が長い。まとめる力がないのだ。
よく話している。本当は教師なんかなりたくなかった、と。
いや、正確には他になりたい職業があったと。じゃあさっさと辞めてくれと切に願うも、大方の人はそのまま続けているのだから滑稽である。
そう思いながら一応は聞いていると、要するに目の前の中年が入っているのは、一度また職員室に来てほしいとのことだ。それは進路を決めるための、またその確認のための面談の日程調整だった。
通例、他の生徒もそうだが、三者面談によって進路を確定させる。三年生に上がる時にその方向を学校としても確かめ、指導していくことになっているとのことだが、私の場合は少しばかり異なる。
どうしても保護者の都合がつけられなく、担任と二人で行うことになっていたのである。
それというのも、保護者は両親ではないからだ。数年前に病気で他界した両親に代わって恒例の祖父母が親代りなのである。そのため、体調が良くなければ外出することもままならない。
だが、進路に関しては当然と言われれば当然なのかもしれないが、大きく干渉されることはなく、好きなように、後悔のないようにしたら良いと言ってくれたため、その旨も担任に伝えていた。
なので、今回の面談も、自身の意志によって左右されてしまうので、それだけに自身の意思を固めるまでは中々すぐというわけにも行かなかったのである。
どうするべきか、いやそもそも何がしたいのか、それすらもよくわかっていない。自分のことだからしっかりしろとか言われそうだけど、自分のことなんて数ミリだってわかりはしないんだ。
それでも勉強はする。何が目的とかはないけれど、勉強してればそこから何か見えてくるかもしれない。それでも見えなかった時は———その時考える。今は、どんな進路にしようとも、対応できるよう頑張ろう。
毎日勉強するのは確かに面倒だとも思うけれど、もう習慣化している。特に数学は毎日やらないと感が鈍る。分厚い参考書を持って歩くのにももう慣れたもんだ。
数学のように数字上で別の空間を想像することは、なんだか本を読んだり、映画を見たりすることに似ていると思っている。どれも脳内に実世界とは別空間を生み出して、その中の登場物を自由に動かすのだから、何も変わりはない。虚という空間で繋がっているのだ。
と、一思いに思考したところで、近頃お気に入りのスポットへと向かった。学校の教室でも本当はいいのだけど、結構な確率でやかましい奴らがやかましくしているから、なかなか集中できない。かといって家は家で静かだし誘惑も多い。オシャレにカフェとかも行きたいけれど、そんないお金は持ってない。だから、タダで使える町の自習用にも開放しているフリースペースに行っているのだ。夜二十一時まで開いているから何かと都合いい。
学校終わりはそこで勉強して、帰ってからも少し国語を学ぶ。兎角にもこの二つをおろそかにしてはいけないと知り合いが言ってたからだ。国語といっても、別に問題を解くわけではない。ただ、好きな本を雑多に乱読するだけ。読んだらすぐ要約して書評を書く。それだけ。アイスを片手にして、その日の分を終えた。
ある日の午後、先生に呼び出された。進路について、もう一回話したいとのことだった。先日も面談をしたが、そこでは適当にしていたため、後日にもう一度となってしまったいたのだ。
その日までに進路については一応調べておいた。このまま何も決まらなかったとしても、進学してからまた考えてもいい、と少しだけ思えた。だから何でも学ぶことができそうな、対応できるところにしておくことにした。幸い、少し勉強すれば受かりそうな国立の大学なので、何とかなりそうである。このまま本命が決まらなければそこでいいと思った。
そうして考えていると職員室の前まで来ていた。丁度国語の先生が出て来たところだったが、なんだか表情が冴えない。どうしたものか、気になって声をかけた。やはり返事もそっけないというか、相変わらず優しいのだけど、なんだか疲れているようだった。あまり長く引き留めるのも悪いと思って、その場を後にした。
様相に反して、いや準備したおかげで、無事に終えることができた。そうして面倒ごとも終わったことと、進路について言葉に発したことでやる気が湧いてきた気がした。この勢いのまま今日はいつもより勉強できそうな気がしていた。
今日もいつも通り勉強スポットへ向かうと、知り合いに会ってしまった。しかも行き先が一緒。なんだか微妙な気分だけれど、別に知らない仲ではないからそのまま向かった。道中話を聞いていると、なんでも勉強しに行くらしい。昔から知ってはいるが、大人になっても勉強するのだと驚いた。いや、それ自体は当たり前だけど、彼がそんなことをしているということが、驚きだったのだ。ああ、真面目にやろうと思う。いや、今も真面目だけど。
その日から、一緒に勉強することが増えた。梅雨入り時期もあって雨がよく降る。じめじめとしたその空気が集中をそぎ落としそうになるが、彼が一緒にいる分なんとかなっている気がする。合間には雑談をしたりもした。こんなに二人で話すのは本当に小さい頃以来じゃないかな。今抱く感情はその時とは違うかもしれないけれど、この時間もだんだん居心地が良くなってきた。
この年の夏も暑かった。いっや、待って、夏といっていいのかわからないけれども、一番は梅雨入り頃が一番暑かったかもしれない。今も毎日少し歩くと汗が止まらなくなるけれど、その頃はただいるだけで吹き出す汗があったのだ。ただ、そうは言っても、記憶というのは曖昧で事実よりも過剰に上書きされてしまうから、事実かどうかは曖昧だ。
今日もまた暑い。照りつける日差しが、肌の細胞を透過して体内に入っていく。外が、自身に対して脅迫するかの如く、一切の容赦もない。
学校を終えてもまだ日は高かった。家の中も暑いもんだから、やはりいつもの通り避暑地に向かった。お気に入りスポットは冷房が適度に効いているから快適なのだ。
汗ばむ額の雫を拭い、張り付いた前髪を剥がす。Yシャツの襟元を親指と人差し指でつまんで空気を送った。今日は先に彼がいた。「よお」と軽く声をかけられるので、
「お疲れ」
と、返す。暑いだとか、今何読んでたのかなどと他愛のない話をひとしきりする。今日もそれは変わらなかった。
額に感じる汗が鬱陶しい。体内の皮脂と水分とが合わさって半ばエマルジョンのような反応を起こしている。それぞれが単体でいる時は、それぞれが軽くなっているのに、両者が合わさると何故ここまでの質量を感じることができるのだろう。こうした科学は興味深い。
でも、人間の心理も似ているかもしれない。一人でいる時は何も荒げることなく、平静を保てる心なのに、他人を感じると、特に男女間では、何故こうも普通ではなくなってしまうのか。
似たようなことでいうならば、時間の経過とともに、人の心というのは変化していく。誰かがそれを成長と形容していたけれど、今の私にとっては、ちっとも嬉しくない。手放しで迎合できない。
昔は、幼少の頃は、もっと心の距離というか何というか、親近感のようなものがあった。だけど今は・・・・。少し遠い気がする。無意識のところで多少避けられている気がして、少しばかり寂しさのような空虚な気持ちがないことも無い。
本当はこの言い表し難い感情を伝えたいけれど、いう言葉が無い。それに、そんなことを言ってしまっては、今この絶妙なバランスで保たれている関係が切れてしまいそうだった。
そう、わかっている。わかっているけれど、こうして何も言わずに一緒にいてくれることを、ただただ噛み締めている卑しい人間だということも、わかっているのだ。相手のほんのわずかの良心を、自己の欲望の解消のために満たす。その点において、犯罪者と何ら私は変わりない。自己中心で、私は私のためにしか何もできないのだ。醜い性犯罪者だ。
———こうして、ただ自分を陥れてしまう自分に嫌気がさす。自分を卑下にしてしか考えられないのも、本当に嫌だ。私は、私が嫌いだ。
こんなことを思うのも、少なくはない。けれど、人前で思ってしまったのは間違いだった。瞳の奥が信じられないほどに熱くなる。ペンも持っていられない。自分の右手を眉間に当てて、なんとか、気がつかれないようにしようとしたけれど、
「どうした」
と、言われてしまった。またその言葉で胸も痛くなる。
「大丈夫、少し疲れただけ」
そういう私の声は、その言葉とは裏腹すぎた。声が震えていた。喋ろうとすればするほどに、体全身に伝わってしまう。なんで、こんなに弱いのか。自分を抑えることもできず、自己肯定すらできない、その上、人にまで迷惑をかける。そんな私が本当に———。
そう思った途端、拳にしていた左手の上に何かが被さった。暖かく、柔らかい。失った感覚がゆっくりと戻ってくる。
いつの間にか閉じていた瞼を開くと、その温もりは彼両手だった。ただ何も言わず、何も聞かずに強く手を覆ってくれた。その包まれる感覚に、また私の目頭から頰へと熱く涙が伝っていた。
その間、彼の手が離れることはなかった。
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