第4話


 湿った靴で濡れるアスファルトを踏みしめていく感覚はいつも以上に不気味な形相であったかもしれない。それはそれで仕方がないと割り切って一歩ずつ進んでいく



 図書館の前に着いた。


聳え立ったその威圧的な表情により、その装いよりも大きかった事をようやく思い出させる。いつ振りに来たであろうか。遥香は雨の日にもよく訪れるのだという。なんでも、ここだと学校の生徒も少なく、うるさくもないが、図書館には珍しくクラシックが流れているというので全く静かすぎるということもなく、勉強がしやすいという理由らしい。



 まあ、それならば、また来てもいいとも思ったりもした。いや、きっと来てしまうであろうとも確信めいて思っていた。相里も嫌いではないであろうから、後日それとなく話してみるとしよう。



 ああ、また忘れてしまった。雑念が、自分の本来の目的を失念する。まあ、もともと大義があったわけでも無いから、それもどうでも良いのではあるが。今はそれよりも、久方ぶりに話す幼馴染との時間の方が良かったのだ。たと終え、その色合いが濁っていたとしても一切の関係も無い。



 半透明なビニールに傘を入れ、重たい二重扉を開けて先に遥香を通す。閉まりそうになるのを、肩をすぼめて入れ込んだ。日焼けした古書と印刷から日が浅い新刊の香りが入り混ざって鼻腔に届く。落ち着いた静けさが、本たちの持つエネルギーというものの質を、さらに一つ二つ引き立てているかのような、そんな空間であった。学校はもちろんの事、書店や、ネット、他にも感じられるわけが無い。以前来た時には感じなかったことを喚起し、記憶が間違っているのかと不安を抱くほどでもあった。



 広くて開放的なロビー。右手には貸し出しのカウンター。その中には白衣を着た女性が手元を向いてペンを走らせている。左手にはガラス張りになった一面の窓があり、その前には机とテーブルがカフェテリアを想起させる佇まいで置いてある。その椅子の後ろには、図書館には似合わず若者向けの雑誌らが飾ってあり、どれも数ヶ月前のものだった。右奥にはCDやらビデオが置かれて、誰か知らない人の特集が組まれる。左奥は在庫書を検索できるおおよそ十数年前の型のPC。さらにそれを抜けると語学書や文学書、宗教やノンフィクションが向こう数メートルに亘って広がっている。何台もの開けた机と椅子もある。一番奥には文庫と新書もわずかながらあった。



 一面に敷かれた絨毯を二人、湿った様子で歩く。カウンターを横切って進むと螺旋状の階段がある。そこから二階へ上り、洋書やら辞典やらのコーナーを抜けた。すると全面に緑とコンクリが広がる情景を前にして自習スペースのようなところが散在する。ちょうど窓際の机らの所まで歩みを進めて、二人正面に向かい合って座ることにした。背負った鞄を隣の椅子を引いておく。背もたれにビニール衣装を着せた傘を引っ掛けた。遥香はそのまま鞄のチャックを開けて、女子らしいペンケースと、ノートに分厚い参考書を取り出した。


「中々進まなくて」


 困り顔で言ってくる。確かに四百頁ぐらいは下らないその厚さは、自分だったとしたら一体いつ終わるのか、考えるだけでも恐怖である。だが、遥香が開いた頁はもう後半で、ほとんど終わっていることに仰天した。何も不安に思うことはないではないか。


 それにしても数学は苦手である。嫌いではない。むしろ論理的で、不確定性な事象を証明する点において好ましい部類ではある。だが、勉強においては得意ではない。学校のいわゆる勉強に面白さを見出せないので困っていたのだ。特に成績も良いわけではなく、学年で中の上、或いは上の下ぐらいであった。もとより進学校ではないので、全体的に高いわけではないのだ。その中でも、遥香は上の中以上であった。


 当初は自分の方ができていると当然のごとく思っていたが、中学、高校に上がるにつれて、勉強していない自分よりも勉強している方が上がるのが至極当然の結果であろう。


 大人たちはよく、勉強すればよかった、などというけれど、勉強そのもの自体に価値などあるのだろうかと疑問に思う。それ以外の体験や経験、例えば恋愛などの方に価値があるのではないか。そんな風に申し立てしてみたりもする。

 言い訳をしているから、ついついここまで思考が漂流してしまったのだ。詰まる所、行き場のない流浪人である。ホームレスである。


 だが、それも今日で終えなければなるまい。目の前で参考書を左側に置き、勉学に努める彼女を見れば、当然自分もとならない方がおかしいというものだ。仕方なくではあるものの、彼女につられて、自分でも勉強できそうな類の本を探しに重い腰をあげ「ちょっと」と言って立ち上がる。

 螺旋階段を下って、まずは学習書のコーナーに目をやった。大体の数を占める数年前のものがズラリと並んでいる。他の棚らよりも、一層ポップな書体に大きめの文字、さらにはひたすらカラフルな体裁は眼の奥がしんどい。文字どおり異色な光景は当に学校に抱くものと4センチも相違わないのだ。


 仕方なく、何か適当に相性の良さそうで、筆者の主張が少なく、そして読みやすそうな本を選抜する。遥香は数学をやっていたので、自身は国語でもと決めた。国語など後回しにしろと進学担当の理科の教師は云ったけれども、それは何か違和感を感じたのと、大人しく従いたくないという何とも子供じみた理由から反発してみたりしたのだ。

 確か、誰かは覚えていないけれども、国語を始めとした日本語——母国語だったか——を学ぶことが学びのスタートだか何だかと言っていた気もした。そう思って階段を踏みしめて遥香のいる席に戻る。


「国語?」


 その声は一見小馬鹿にしたようにも思えるようなものなのに、その気はないということが判然わかる。今しがた考えていたことなどと同様なことを彼女の口からも聞くとは思っていなかった。ああ、何となく幼馴染というか腐れ縁というか、こういう一つ一つに自ずの胸裏から起こるものを感じるのは、なぜなのであろうか。


兎角にも、再び椅子に腰を下ろして一枚一枚ページをめくり勉強しようとする。ああ、こうして遥香と二人向き合って何かをするなんて、何年振りのことであろうか。思い出に浸る。感傷からか知らぬが、面倒な勉強も少しは楽しめるものだと初めて気がついた。

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