第3話


 三年生になり、遥香とは別のクラスになった。だが当然と言わんばかりに相里とは変わらずだった。進学先に合わせた振り分けらしく、他の人間は何故三年になってからもクラス替えがあるのか、と文句を言っていたそうだが、自身にはどうでも良いことだ。



 しかし、それも相俟って里菜とは疎遠になりつつある。疎遠というのは大層な表現あるかもしれないが、受験勉強で遅くまで残ることもあったのか、帰宅時間は三人とも一緒になることはなく、時たま相里と重なった時は以前と同様にして帰る程だ。その度に里菜の話にもなったが、廊下ですれ違ったりする時に少し話す程度で、なかなか関わる機会も多くはない。



 まあ、そんなものであろうと割り切りをしていたものの、自身の中の気力が少ないというか、虚無感とでもいうか、兎角に、何かを打ち込む気にはなれなかった訳である。その前からも特段何かに対して情熱を持ったりしていたわけでもないものの、その色がより一層濃厚になってしまったのだ。


 そんな中でも頭を抱え、自信を悩ませるのは進路のことである。悩ませるとはいうけれども、本心で云うならばどうでもいいのだ。いや、本当は少しだけ——胸裏に僅かながら張り付いているものはある。ただ周囲はそれを受け入れようとはしない。

 本当は誰かが何かをやる、そのこと自体が気にくわないのである。そういう性分なのだ。そういう定めなのだ。でも、まあ具体的には、相里と、そこに里菜がいるというのなら、それでもう特に不満はない。きっとクラスが違うから文理は分かれるのであろう。だがそこは許容範囲である。


 下らない考えが流れ着いて、ちょうど昼休み、遥香とばったり二回の廊下で会った。三年のフロアが二階であり、それは職員室につながる道でもある。不本意なことに進路のことで、担当の先生に呼び出されていたのが本日だった。

 理由は、先ほど考えていたことと同様である。三年始めの調査を未だ提出していないからと、お歳を召された先生に督促されていたのだ。そんな時にばたりと遭遇するのであるから、また憎らしい。


「何してるの」


と言われたから、バツが悪い気もした。相変わらず、透き通るような桜色の声で話しかけられる。そうした邪な思いも入り混じっていたが、素直に答えた。


 このタイミングで尋ねればよかった。だが、なんだか気が引けてしまったとでも言うか、聞いてはいけないような感覚に襲われてしまい、遥香とはそのまま別れた。ただただ臆病で小心なのだ。


 そんな出来事があったと、帰宅途中に相里に話していたら大いに笑われたものだ。何をそんなに、と言われたが、自身だって解らないのだから仕方あるまい。一瞬、その言葉の中に影のようなものが見えた気がした。だが、相里は特にそれ以上は何も言ってくることはなかった。灰色の傘をさしながら水たまりを避けて歩く。じめじめとした空気は梅雨の予感を垣間見る夕刻だった。


次の日も空は曇天だった。灰色の雲が人間たちの排気のように濁った姿で実に重たく伸し掛かってきた。気圧の低さがいつもより眠気を誘発させる。今にも、雨が降った。


 変化のない日々である。家に帰っても退屈だ。異様な眠気と倦怠感が今日も襲ってくる。だが黙って帰るのも口惜しい。たまには図書館にでも寄ってから帰ろうかと思いつく。その日は相里も用事だかがあるということで帰路にはいないのだ。晴耕雨読というほどでもないが、雨の降る日に昔読んだ本があったことを先日思い出していたので、それを探しに行こうかと思っていたのだった。


 この街に本屋はない。いや有るにはあるが、品揃えが乏しすぎる。だが学校から数十分ほど歩いた所に図書館がある。学校からアクセスが良いとはお世辞にも言えない。駅からも然程近くもないので、利用する人間もほとんどいない。


 何故、そこに建てられたか。

 幼い頃から甚だ疑問ではあった。


 しかし、利用する知り合いが殆ど存在しないという事実は、他者と関わりをなるべく持ちたくない自身にとっては最適であるように感じられた。

 春は過ぎて、歩いていると背中や額、いうなら全身がじんわりと汗ばむ気がする。鞄を背負った背の方は湿気が放出されずに行き場を失って、傘を持つ左手もそこに閉じ込められているかのように、当然気持ちが良いものではない。

 そんな中でも、目に映る光の波長たちの、家路とはまた違った風景に少しばかり高揚していたのも事実である。見慣れない住宅や川の流れ、咲いた植物などが少しだけ新鮮だ。

 無邪気な餓鬼のように散歩していると、目の間には見慣れた、というべきか、そうではないか、彼女の後ろ姿があった。


 遥香である。


 昔から使っているはずの、当時は子供にしては妙に大人っぽい傘を持っていたと思ったが、もう分相応というか少しばかり子供っぽくなった。そう懐かしんでいる中、声をかけようか掛けまいか躊躇ってしまう。その時、こちらの気配に気がついたのか急に振り返った。


あ、という感嘆の後に

「春希」


と、すぐ呼ばれて手を振られた。そこまで距離が近いわけでもなかったので、遥香は立ち止まって待ってくれたようだ。


「どうしたの」


 お互いが言葉をかけるので、自身が先ほどの理由を伝えた。遥香も基本的には似た訳であった。異なる点としては、自身が多少の暇つぶし——退屈しのぎ——ではあるが、遥香は勉強を兼ねているのだという。やはり、そういうところはしっかりしている。自分から見た場合、御転婆というか無邪気のような印象があるけれども、真面目であることには変わりないのだ。


 そんな遥香にふと口にしたのは、進路の話であった。


 この時は気が狂っていたのかもしれない。

 いつもなら他愛もない話をしていた。が、口が滑ってしまったのである。五臓六腑を他人にわし摑みされたような圧迫が自分を襲う。それを横目にして、遥香はいたずらに「M**大学」と応えた。それは僅かながら自分の中に存在していた場所であった。学力としては今の自分とは非情な程に不釣り合いである。


 しかし、ただただ勉強させられるという学校よりもずっとずっと先進的で魅力がある。何かの雑誌かテレビか新聞か、何だったかは思い出せないものの、その場所に当初は強く惹かれたのを思い出していたからである。


 だから遥香の云ったその言葉には酷く驚いた。それと同時に締め付けられる臓器が、その感覚を這い蹲って体内を巡らせる。右手の三本の指と親指で、自身の左手首を必死に掴み取り、リズムの取れない不規則なメトロームが自信の平常を取り戻すことを決して良しとしないことを裏付けた。


 だからということでもないが、一瞬、先ほどのいたずらに見えた表情を疑ってみたりもした。もしかしたら相里や誰かから聞いて、からかってみたとか、どこからか情報を得ていたのかとも疑った。だが、振り返ればあの時の顔と間は、おこがましさや照れといったことの、隠蔽による表層であったかもしれないと思えた。年頃だというのに、あの男勝りで、やたらと距離の近い彼女が、何と目すら合わせずに顔を背けていたからである。


 しかし、その狭間で覗かせるのは、道端に咲いた赤色の面であったために、意図せずして、その思いは一層深まることになってしまったのだ。


「春希は?」


 遥香に聞かれて三寸ほど迷いが生じた。どう答えるべきか、あるいはどうにも答えない可きなのか、嘯くか、愚直であるか。今までの自分であれば、適当に、何も、だとか、難しい、悩んでいる、などといったかもしれない。


 だが、先に云うように、この時は平常心ではなかったのだ。だから他意もなく「大変だ」と答えてしまった。やってしまったのだ。さながら心の中を覗かれたような羞恥心と、そして幼馴染に対しての虚栄心のようなものがあったような気がして、酷い気持ちだった。だが、口元が緩んでしまったのはどうにも隠しきれなかったんだ。


 邪な気持ちを抱いて、そのまま二人で図書館に向かう。来る途中にしとしとと雨粒が両足に落ちてきた。それまでの間、何を話したらいいか解らず、また何を話していたかも覚えてはいない。降るその雨のおかげで、少しは汚れた感情を洗い流すことができたのだろうか。

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