第2話
秋さらば、移しもせんと我が蒔きし韓藍の花を、
誰か摘みけん
開いたノートに書いてあった。
学校の課題は一向に進まない。
思考に邪念が入ってしまい、手につかないといったところか。
それを払うべく、徐に声に乗せてみる。
こうすれば、多少は紛らわすことができるだろうか。
喉が渇く。
コップに入れた筈の水はもう乾ききっていた。
それでも飲み口を唇に当て、水分を体内に入れようとする。
だが、至極当然入って来るものは何も無い。
座っている体が冷えてきた。
指先の血液が腐敗しているのではないかと感じられる程に何故だか冷たくなっている。
もう冬が近いのだろうか。
開いた教科書はいつの間にか端に追いやられた。
一箋の用紙を引き出しから取り出し、書き出せぬ手紙をまた書き始める。
———いつの間にか、夢を見た。
目が覚めると学校だった。
確か、その日もまた書き出せずに、そのまま就寝して学校へ向かったところ迄は判然としていたが、その見ていた夢というのはどうにも憶えがない。
いつもそうである。
何か特別な、忘れてはならないような感覚に陥っている思考と反して脳髄からの忘却は無情にも加速する。
エビングハウスが証明するよるよりも何倍もの速度でデリートされてしまう。
脳の片鱗にでも圧縮されていないかとニューロンを検索するも全く当たらない。それどころか何を探していたのかすら、もう認識することができなくなってしまっている。
諸行無常ということなのか、愛別離苦ということなのか、そのようなことは知らぬが、少なくとも、抱いていた感覚というものがすでに無いということだけは判っている。
「春希」
咄嗟に振り向いた。
その先にいたのは相里と遥香だった。
振り向くというの適切ではなかったかもしれない。いつものごとく机にひれ伏したまま、口の端から唾液が出そうになっているのを冷静に抑え込み、先ほどまで落としていた瞼を、何度も開けては閉じて、その虹彩にある瞳孔に鈍い光を取り入れる。
どうやらまた眠ってしまっていたようだ。
詰まらないことがあるとすぐにこうである。
特に学校の授業というものはこのような状態が多い。
座っている隣の空いた椅子らに腰掛ける二人は笑いながら、またかなどと言っていた。席から遠ざかって、なぜここにいるのかはもう言わない。これも毎度のことであるから、特に何とも思わなくなった。こちらもつられて、煩いと一笑する。
詰まらなく過ぎ去るこの退屈な日常も、この二人がいるせいで幾分か憂うことが少なくて助かっている。
特段、同性愛者である訳では決してないもの、色恋沙汰には興味が湧かない。周囲の人間らは、いや、学生という身分の宿命かもしれぬが、口を開けばそればかりで気が滅入る。
学校を出ても、街へ行っても、挙句にはテレビや新聞でさえもそのような話が一日たりとも欠かすことなく存在しているのだから平和だと実に思もう。
こうも繁殖機能というかDNAというか、そうしたことにも逆らえないのが人間なのでは、自制を持つことや理性というものの不確定性を証明することは難いということも、いつしか自明になることであろう。
人間として生を受けたにもかかわらず、そうした宿命から逃れようとしての行動か否かも判然とはしていないが、それが正しいとも思っていないけれど、もう少し、答えが出るまで待ってほしいと、どこの誰でもなく、自身に対して云い訳染みて弁解した。六十億の人命が存在する此の世なのであるから、その一が抗ってみたとして、その全体には微々たる影響ももたらすことは皆無であろうから、世界の方にもこれくらいは許容して頂きたいものである。
遥香は昔から男勝りなところがある。
周囲の人間たちは清楚だ、可憐だなどと声が聞こえて来ることもあるが、しかし幼少の頃から同じくいる立場とすれば、それは詭弁で表面的に過ぎないと思わざるを得ない。
あるとすれば、その透明な甘い声色ぐらいであろうか。だがそれを加味したとしても、それならば茶目っ気のある相里の方が幾分かも可愛げがあるものである。
バチカンよりも狭い一城の憂国を嘯いて、いつの間にか今日も退屈な授業が終わっていた。変わらない日常であるから、帰路に就く際も何も変化もない。いつもとまた同様にして二人と帰宅する。他愛もない話でその暇をつぶし、またつまらない自宅へと戻る。
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