第5話
わたしって誰?
自分って何?
誰もがそういう爆弾のような問いを抱えている。爆弾のような、といったのは、この問いにとらわれると、いままでせっかく積み上げ、塗り固めてきたことがみな、がらがら崩れだしそうな気がするからだ。あるいは、崩れるとまではいかないにしても、なにか二度と埋められないひびや亀裂が入ってしまいそうな気がするからだ。この問いには、問う者じしんをあやうくするところがある。(略)
『じぶん・この不思議な存在』鷲田清一
自分とは何なのか。
そのようなことは誰も教えてはくれない。
どうやら、そのようなことを書かれていたのかもしれない。自分なんてものは、自分自身がわからないのであるから、誰にもわかるはずもないのに。自分なんて、端よりないのに。
ゆく果てのない命題を与えられたことに対し、そんなこと思いながら、悠然と問題を解く。文章を読み、考える真似事をして、取り出したノートに淡々と言葉を書き連ねる。一通り終えば、自身で採点をしてみたりする。大体、結果はそこまで良くない。まあ当たり前だ。
国語に関していえば、学校の試験もそんなに点数も低くはなかったはずなのに、今は7割ほども解けなかった。至るところで間違いを指摘する解答を見るたびに、問題にあった筆者の言葉を一つ一つ想起させられる。むず痒い思いを我慢しながら繰り返す。
向かいに座る遥香に「どうだった」と聞かれた。タイミングを図られたのかと思うほどだった。しかし「全然」と、謙遜でもなく事実として言わねばならないことにもまた同じ気持ちだったから、さらにむず痒い。
そんなやり取りがお互いに繰り返される。お互いに取り組むものは異なるものの、その間は決まって静かである。無言である。ただ、それは互いに無視しているわけではなく、その目の前のことに取り組んでいるのだと、遥香に関しては思った。自分は、まあ、半分ほどであろう。
そう考えながら読み進めていると、ふと顔を上げれば、あたりはすっかり暗くなっていた。窓から見る景色がもう闇に包まれ、いつの間にか照明が灯っている。時計に目をやると、もう十九時を回りそうだった。
「そろそろ帰るか」
そういうと、遥香も同じく気がついていたようだ。時計を今一度確認して、軽く四肢を伸ばす。開いていたノートやペンやらをしまって鞄に入れた。その間に使わせてもらったこの本を、もとに戻してくる。階段を再び降りて、棚を探す。そうしている間、雨の音が優しく館内に響くのをようやく感じている自分がいた。
片した荷物を持って図書館をあとにする。まだ降る雨を避けようと、入り口前で二人、傘を開いた。左手で傘を持ち、歩き出すのは、同じタイミングだった。
「また明日も、雨降ってたら、来る?」
「勉強するか」
帰り道、そんな会話をしていた。無愛想に、二人、家路に着く。ちょうど、梅雨入りが発表されていた日付らしい。知ったのは翌日のネットニュースだった。
その日から、学校が終わりに図書館へ通うことが日課となった。他愛もない自愛ばかりの無常な会話がなされる廊下を抜け、失意と怠惰の蔓延る職員室の前を通り、汚い習慣から成される芳しい下足箱の臭気漂う玄関を通り過ぎてゆく。色のない傘のその柄を右手で掴んで拾い上げ、柄の少し下方を左の手指で押し上げて、優雅に佇む灰色の空へと突き刺した。
地上の灰色に染み込んでいる余分な湿気が、自分の両足の裏からじわじわと込み上げてくる。一つ二つと歩みを進めるたびに、毛細管現象のような心地で湿気を喰らい尽くしていくのだ。そんなことを数十分ほど繰り返して、古書の香りの方へと足を運ばせていったのだ。
そこで先に遥香がいることもあれば、自分が待つこともある。先に着いたその時には、重たい荷物だけをいつもの席にしっかり置いて、図書館の本の、学習書以外のコーナーも少しだけ見て回るようになった。知らない本や古すぎるものがずっと並んでいる。名前も知らない。見たことすらないものなど、見つけるなという方が難しいものだ。どうやら人間という存在は心だとか、哲学だとか、それが何かということを探求するのが好きらしいようだ。
目に止まった一冊だけ手にとって、いつもの参考書と一緒に席に戻る。椅子を引いて腰をかけ、先に取った本をパラパラとページをめくる。まず冒頭のはじめにを読む。そしてすぐさまあとがきへと進める。あとがきがない本は何となく信用ができない。そこまで読んだら、目次へと戻って眺めてみる。大体ここまででちゃんと読むか読まないかがほとんど決まってしまう。
こんな読み方がいつからか染み付いていた。本編ですら全て読み終えることは難しい。というのも、大抵この段階で読み進められるものが少ないからである。それでも、狭き関門を通って少しばかり読み進めていると、大抵はすぐにスカートに雨水をわずかばかり垂らした姿で遥香はやってきたのだった。
ポケットに入れてあったハンカチを手にとって差し出す。
「ありがとう」
そう言いながら、もう自分のハンカチで先に拭いている。そんなことも恒例になっていた。そういう奴なのだ。二人口元が緩む。
その日の出来事などを適当に話した。授業のことだとかもそうだが、ニュースとか、気になる出来事、身辺つらつらと適当だ。そんな話を展開しながら勉強道具を取り出している。ここまでが互いの日課になっていた。
その儀式を終えると、左手に鞄から取り出した参考書を置いて、右手でノートにペンを走らせる。罫線の入っていない5mm方眼のものを愛用していた。大学ノートよりも少し大きいA4サイズである。モレスキンのそれが、リングになっているから使い勝手が悪くない。そこにドイツの4色のボールペンを使う。もう50年も前のものだというのに、その古めかしさを感じさせないあたりが素晴らしく気に入っているのだ。本の臭気が漂うこの空間に非常にマッチする。二人机を挟んでの、このスタイルが基本であった。
そこから、おおよそ二十時くらいまでそこで勉強する。その間も違いが同じタイミングに一息つくまではほとんど会話はない。時間が迫ると片方が区切りをつけようとするから、それで大抵は判るのだ。帰り支度をして、途中の交差点まで一緒に歩いて帰宅する。
それの繰り返しだった。反復すること、繰り返したりすることは大いに嫌う傾向があるのだが、これだけはそうはならなかった。そもそも、画一的とは思えないほどに色鮮めいていたのであるのだから、何とも不可思議である。
その次の日も、また次の日も勉強をしにいった。同じ繰り返し。それが日常なのだろう。習慣なのだろう。ほんの僅か、一瞬感じる永遠なのだろう。誰かが叫んだ借り物の言葉でそう考えた。それが精一杯だった。
そんな時間の流れない日常もかれこれ数ヶ月ほどが経とうとしていた。季節は夏を過ぎ、秋風が吹き始めている。先日まで振るっていた猛暑という分子の動向は眉をひそめていた。まあ、そんなことはこちらには関係がないが。
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