十回ウラ. サヨナラ

 その日の夜、バットを片手に、いつもの時間、いつもの場所に向かう。夏はもうすでに盛りを過ぎ、いつの間にか川沿いにはトンボが飛び始めていた。


「やあ。暫くぶりだね」


 マレビトの方はすでに待機済みだった。ベンチに座って何やら本を読んでいる。


「お前に力を返すことにした」


 そう単刀直入に切り出した。マレビトはページを捲る手をピクリと止め、本を脇に寄せてこちらを見据える。


「ふむ、なるほど。話を聞かせてもらおうか」


 そう言ってベンチに座るよう促す。誘われるままマレビトのすぐ隣に座り、静かに話し始めた。


「俺がお前に最初に会った時、結果を出すことが自分にとっての幸せだと思っていた。でも今は違うと気づいた」


 さあ、ここから答え合わせだ。


「俺にとっての幸せは、"自分自身が積み上げた努力が結果として実ること"だ」


 マレビトは少し不服そうな顔をしていたが、まだ何も言わない。


「必死で積み上げたのに努力が実らなかった。そんな辛い経験をして、きっと俺はそのことを忘れていたんだ。だって積み上げていくのは、とてもしんどいことだから。その先に実るものがありませんでした、なんて、そんなの嫌じゃないか」


 中学の最後の試合を思い出す。あの時は本当に地獄だった。


「でも、野球は失敗のスポーツだ。たとえ一度努力が実らなくて辛くても、自分に続ける意思が限り、次の打席は回ってくる。そのことに改めて気づいた」


 きっとかつての父が追い求めたのは、自分の努力が報われる瞬間そのものだ。甲子園に出る、プロに入る、社会人野球で活躍する。自分が報われたと思えるのならば、目に見える結果などなんでも良かったのだ。だからこそ彼は何度結果が出なくても積み上げ続けた。いつか実る日をひたすら夢見て。


 そして、自分も心のどこかでそう信じていたからこそ、父が死んだ後もバットを振り続けたのかもしれない。


「でもお前にもらった”結果を出す力”を持っていると、積み上げること自体が否定されてしまう。それは自分にとって幸せじゃない」


 いつだったか、練習の意義をマレビトに否定された時、なぜあんなにも怒りを覚えたのか。それはきっと、自分のこれまでの人生そのものを否定されたような気持ちになったからだ。自分が納得する形で出した結果でなければ、それは虚しいだけだ。たとえ独りよがりな感情なのであったとしても確かにあった。


「やっぱり理解できないな」


 マレビトは呆れたように反論してくる。


「確かに、生きていればチャンスはくる。次に出るかもしれない結果を夢見て邁進するのは確かに素晴らしいことだよ。とても絵になる生き様だ。でも、所詮は理想論だ。君がチャンスを逃した時、つまり失敗した時に、それがチームの負けに繋がるかもしれない。チームが負ければ周囲は悲しむかもしれないんだぜ?」


 夜の暗がりにマレビトの静かな問いかけが響く。


「人間が集団となって勝利、つまりは目標達成を目指す以上、君の失敗は君だけのものではない。それはチームの敗北、集団としての失敗を招く。それは綺麗事では誤魔化しようもない不利益だし、周囲の失望や悲しみを生むだろう。そうなることが嫌だったからこそ、君はこの力を受け入れたはずだろう?」


「……そうだな」


 それに対する答えがきっと、あの日監督が伝えようとしていたことなのだ。


「でも、野球は九人でやるものなんだ」


「それはそうみたいだね」


 そう言いながらマレビトはチラリと手にしていた本を見る。どうやら懲りもせず野球のルールブックを眺めていたみたいだ。


「だけど、今の話とどう繋がるんだい?」


「俺が失敗しても、誰かがそれをカバーできるほど成功すれば、チームは勝てるかもしれないんだ。もちろん負ける時だってある。でも野球は、どんなに頑張ったところで失敗が前提のスポーツだ。負ける時なんてなおさら、自分以外のチームメイトだって、もしかしたら監督だって、どこかで失敗している」


 ショウはあの日、たくさん目に見えるミスをした。自分だって、完全だと思っていたにも関わらず、大きなミスをしていた。でもそれ以外にも、ミスをした者なんてたくさんいる。ミスと言う言葉だけでは片付けられない数多くの要因の上に一つの結果が存在するのだ。そんなものをいちいちあげつらっていけばキリがない。


「だから、チームの敗北はチームの失敗だ。全て自分一人で抱える必要なんてない。その代わりに、成功も自分だけのものなんかじゃない」


 孤独なようでいて繋がっている。これがおそらく監督が伝えたかったことだろう。思えば監督は常々言っていたではないか。”自分を信じる”の後に必ず"仲間を信じる"と。そしてあの日、甲子園で自分が感じた疎外感は、”自分が”チームを勝利に導くのだと息巻いた結果、力を持たない”仲間”を信じることができなくなっていたから生じたものなのだ。


「野球にしろなんにしろ、色んな部分で俺は不完全だ。でもそれでいい」


 完全であれば幸せになれる。そう言って実験を始めたマレビトに対して、あえてそう言い切る。それがけじめだと思った。


「不完全であれば、成功も失敗も周囲と共有できる。そして次は成功できるように、仲間と足りない部分を補い合って、みんなで前を向けばいいんだ」


 別に自分一人で全てを補う必要がないのなら、ヒデに劣っている部分を恥じる必要などない。自分だけが持つ才能を、さらに磨くだけだ。


「確かにマレビトの言う通り、俺たちはみんな不完全だ。でもだからこそ支え合えるし、自分の拠り所を見つけることができる」


 ヒデは自分にはない色んなものを持っているかもしれない。でも、自分が持つ親譲りのストイックさ、地道に積み上げる才能はヒデにはないものだった。誰もに足りないものがあるから、それを持っている者は自分の強みとして誇りを持てるのだ。


 言いたいことはこれで全て言った。あとは最後の一言だ。


「だから、俺はいつまでも完全を目指す不完全な野球選手でありたい。その方が幸せな人生を歩める気がする」


 川辺に長い長い沈黙が流れる。それを先に解いたのはマレビトだった。


「不完全だから支え合える。支え合えなかったとしても許し合える、か」


 怒っているのか、悲しんでいるのか、よくわからない表情だった。


「やっぱり俺には到底理解できない考え方だね。でもそこに君の幸せがあると言うのならば」


 マレビトは静かにこちらに距離を詰め、ポンと一度自分の肩を叩いた。柔らかな光が肩から発せられ、やがてマレビトの手の中に消える。直感的に、これで本当に終わったんだなと感じた。


「今回の俺の実験は失敗だった。そう認めざるを得ないかな」


 そう言って肩をすくめる。


「まあ、まだサンプルが一つだけじゃあ俺の仮説が正しいかどうかはなんとも言えないからね。他にも色々当たってみるとするよ」


 実験は変わらず続行するらしかった。だがなんとなく、自分とはもう一生会わないだろうなという気がしていた。


「最初の被験者として、君は結構面白かったよ。野球というものにも幾分詳しくなれたし、ゆで卵という素晴らしい食文化にも出会えた。……というわけで、それじゃ」


 サヨナラだ。そう言ってマレビトはこちらに手を伸ばす。自分も静かに握手に応じた。少し触れたマレビトの手は驚くほどに冷たかった。


 その瞬間、夏が終わりを告げるかのような涼やかな風が吹いた。そしてその後にはもう、マレビトの姿はどこにもなくなっていた。


「サヨナラ、か」


 一人川辺でそう呟き、何事もなかったかのように、いつもの素振りを始める。


 一、二、三……。もはや身体に染み付いて離れない、黙々と積み上げる毎日。でもそれは決して呪いなんかじゃなかった。父が自分の年齢分の歳月をかけて与えてくれた、大切な財産だった。自分が信じる自分だけの誇りだった。


 十、十一、十二……。少しだけ目から涙が流れた。マレビト、そしてお父さん。改めてサヨナラ。そして、ありがとう。


 雲のない空はどこまでも大きく広がっていて、自分の今の心の声も、きっと誰かに届くような、そんな気がした。

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