十回表. 延長戦

「ただいま」


 数ヶ月ぶりの挨拶に多少のぎこちなさを感じながら、久々に実家の門をくぐる。


「あらおかえり。早かったね」


 母がキッチンからひょっこり顔を出す。いい匂いがこちらに漂ってきていた。この匂いはきっとカレーだ。


「ご飯にする?」


「そうする。お腹空いた」


「はいはい。でも仏間にお父さん帰ってるから、先に挨拶しておいで」


 そう言うと母はキッチンに戻っていった。仏間に向かうと、一角だけやたらと豪勢な空間があった。そこにお供物や花とともに、仏頂面の父の写真が飾られていた。その傍らには天京高校の試合の結果が一面に出た新聞が置かれていた。「打の強豪、終盤ミスで涙の初戦敗退」の大きな文字と、懸命に後逸した球を追うヒデの姿が紙面の一部を埋めていた。串刺されるような胸の痛みに、思わず紙面を畳んで遺影の裏に隠す。


 写真の前で静かに手を合わせる。「結果を出せなくてごめん」と言うつもりをしていたのだが、それはなぜか少し躊躇われた。結局「一回戦で負けちゃったよ」という報告だけにとどめた。


 そうこうしているうちに母の呼ぶ声がリビングから聞こえた。昼食ができたらしい。父の遺影を改めて一瞥し、声の方へと向かう。母のカレーは懐かしさを感じる味がして、少し涙腺に来るものがあった。自分がずっと尊敬している野球選手の大好物。子供らしく真似をして数日連続で出してほしいとせがんだ時もあったっけ。


「どうだった? 甲子園」


口の端にカレーをつけながらそう母が聞いてくる。


「あー、色々すごかった」


「何その感想」


 母はおかしそうにクスクス笑った。


「まあお父さんも忠晴が頑張ってて嬉しかったと思うよ」


「そうかな」


「そうよ。常々言ってたわ。あいつは本当にすごいやつだって」


「お父さん、そんなこと言ってたの?」


「そうよ? 毎日サボらず、しんどくても続けられることがあいつのすごいところだって。きっと俺に似たんだなって、お酒飲みながら、嬉しそうに延々と語ってたわ。忠晴の前では絶対言わなかったけどね」


 実際、そんな話は初耳だった。思わず口を尖らせる。


「そう思ってるなら言ってくれたら良かったのに」


「私もそう思ったんだけどね。そんなことは絶対にするなって言われて怒られちゃうのよ。なんでなのかしらね」


 そこからも父の話で会話が弾んだ。毎日の練習が本当に辛かったこと、あの日プロ野球の試合を見にいくのが本当はとても楽しみだったこと、そして、自分がまだ生まれていなかった頃の父の昔の話。


「お父さんは、なんで野球をずっと続けていられたんだろう?」


 話の流れの中で、不意に母に尋ねる。


「プロを目指してたのに甲子園にも出られなくって、大学で活躍しようと思った時も怪我のせいで結局結果は残せなくて。それでも社会人で野球をやってるのってすごいなと思う」


「うーん。ずっとお父さんを見てきたお母さん的には、考え方が逆なんじゃないかなと思うけどね」


「逆って?」


「お父さんは、自分が満足のいく結果が残せなかったからこそ、野球を続けてたんじゃないかなってこと」


 突然謎かけのようなことを母は苦笑しながら呟く。どういうことだろう。


「お父さん、常々言ってたのよね。野球は失敗のスポーツだって」


 それは確かに聞いたことがある。


『プロの世界でも三割打てればいいバッターなんだ。つまり三回の内二回失敗するくらいが普通なんだよ』


 そう何度も言っていた。


「だから、お父さんが高校時代に失敗して、大学でも失敗した、というのは、三回の内の二回が失敗になっただけで、その後どこかで成功すれば、もうそれで満足だったんじゃないかなって思うの」


「そんなの言い訳だ。だってその二回で失敗したから、お父さんはもう一生甲子園には出られないし、プロにもなれないじゃないか」


「まあ確かにそうね。でもお父さんは、そういうことよりも、もっと大事なものを追いかけて野球をやっていたような気がするのよね」


 自分の目標よりも大事なこと? そんなものあるんだろうか。だとしたらそれはなんなのだろう。


「だってお父さん、忠晴が野球チームに入るまではずっとあなたみたいに毎日毎日素振りしてたもの。それをすることで手に入れられる何かがあるんじゃないかなって思うのよね。……私には残念ながら分からないのだけど」


 かつては父も自分と同じように日々積み上げていた。しかも結果を出す機会が少なくなってしまった後でも変わらずに。自分と父が似ている。そんなことをさっき聞いたからなのか、なんとなくその当時の父の思いも想像できた気がした。


「おかえり。なんか久しぶりな感じするね」


 メグさんはそう言いながら懸命にまだ溶けだしていないイチゴシェイクを啜る。いつの間にか夏休みも終わりに近づいたからか、メグさんのバイト先でもある川沿いのファストフード店には、友達と宿題を囲む中学生たちの姿がちらほらと見えた。


「実際は一週間ぶりくらいですかね」


 実家ではそのうち五日ほど過ごしたけれど、なんとなくそわそわした気分になって、休み終わり二日前には寮に帰ってきていた。ヒデはギリギリまで実家にいるようで、ここ数日はいつもの二人部屋に独りきりで過ごしていた。そんな折にメグさんから、甲子園に連れて行ってくれたお礼に奢ってやる、という旨の連絡が来たのだった。


「まあでも色々あった後だったし、何もなくて暇してると体感する時間は長いのかもねー。自分の気持ちで時間が伸び縮みする、みたいなのってなんだっけ? ソウタイセイリロンってやつ?」


「難しい言葉使いますね」


「なんかインテリっぽくて良くない?」


 そう言いながらクスクス笑うメグさん。その自然体な佇まいに、野球部のマドンナと二人して食事という状況に、緊張しっぱなしだった自分もほだされていく。


「さて、何はともあれ、ソウ君お疲れ様。一年目なのに甲子園でもあんなに大活躍するなんて、びっくりだよ。やっぱり大物だねえ」


 メグさんはニヤニヤ笑いながらこちらの席のポテトをつまむ。


「たまたまですよ。それに結局一回戦で負けちゃったんで」


「うん、まあそうだね」


 せっかく楽しげだった場の空気に水を差してしまったことに、言葉を発してから後悔する。メグさんはおちゃらけた雰囲気を少しだけ封印して、ショートヘアをくるくる回し始めた。


「悔しいは悔しいんだけどさ。でもやっぱり勝っても負けても私にとっては良い夏だったなって思えたよ」


「そんなの嘘です」


 思わず口をついて言葉が出てくる。まるで自分の弁護をするかのような口調になっていた自分の剣幕に、メグさんは少し目を見開いてこちらに向き直った。


「いや、あの、すみません。でもやっぱり結果を出すのがみんな一番幸せだと思うから、それができなかったことが残念だなって」


 思わずしどろもどろになる。メグさんはしばらくじっとこちらを見ていたが、不意ににっこり笑った。


「真面目だねえ、ソウ君は」


 普段前面には出さないくせに、不意に現れるメグさんの先輩な雰囲気に、こっちは余計に余裕がなくなってしまう。きっと側から見たらただただ挙動不審に見えたことだろう。


「あー、えっと、ソウ君は、さ。甲子園で試合に出てみて、楽しかった?」


 あたふたする自分に助け舟を出すかのようにメグさんが問いかける。楽しかったか、と聞かれたら……正直難しい。自分が試合の流れを一気にこちらに持ってきたあのホームラン。あの瞬間は間違いなく楽しかった、気がする。でもあのワンプレーが巡り巡ってチームの敗北を招いたかもしれないことを考えると、今はどうなのだろう。


「わかりません……ただ」


 しばらくの間俯いて無意識に力を込めて閉じていた自分の膝を眺め、絞り出すように回答を作り上げる。


「なんとなく、出てよかったなとは思います」


「……そっか」


 負け惜しみみたいに聞こえただろうか。でも本心だった。自分の言葉に対するメグさんの小さく呟いたような一言は、店内外のざわめきの中でも何故かよく聞こえた。その口がそのままシェイクを啜る。さっきまでより水っぽい音がした。


「変ですかね? 試合には負けちゃったのに」


 沈黙を嫌うかのようにメグさんに問いかける。自分のやることなすことすべてが、一瞬後にダサい立ち振る舞いに感じてしまって妙な焦りを感じた。


「ううん、全然」


 対してメグさんはあっけらかんと笑う。


「さっきも言ったけどさ。みんなのプレーをあの舞台でみれてあたしはすごい幸せだったよ。その上で、出てよかったって言葉を聞けたんなら、もうみんなハッピーじゃん。変なことなんて何にもないよ」


 幸せ。メグさんの言葉の一つが耳に引っかかった。そしてメグさんはマレビトに一度会っているということも思い出した。再び俯く。膝の上に乗せた拳を見つめた。彼女になら話しても軽蔑されないかもしれないと思った。でも誰よりも彼女にだけは軽蔑されたくなかった。


「ん? どしたん? お腹痛い?」


 苦悶の表情を浮かべる自分を気遣って、メグさんが心配そうにこちらを覗き込む。


「メグさん、今からちょっと自分の話、して良いですか?」


「おお、いきなりだな。まあ良いよ。話してみんさい」


 今更ながらに話し始めたことに恐怖と後悔が募る。負の感情の中の一部に、話してしまったら、マレビトの力が完全にこの身体から魔法のように消え去ってしまうのではないか、という思いが確かにあるのがどうしようもなく嫌だった。この後に及んでまだそこに縋っている自分の弱さが浮き彫りになる気がしたから。


 そこから長い時間話し続けた。初めは綺麗に取り繕って語ろうとしたのに、気がつけば何も考えず、これまでの自分をひたすらに捻り出していた。マレビトとすぐそこの河川敷で出会ったこと。そこで不思議な力を得たこと。どこか違うと感じながらもその魅力に抗えなかったこと。直接対決の時に感じた最悪の感情と最高の感情。対決の果てに得た背番号と、もう後には引けないと感じた覚悟について。過去の絶望と後悔。今まで信じて努力してきたものが崩れ落ちる瞬間の恐怖。その一方で人の期待に応えられた時の至上の喜び。最後に、甲子園で味わった感情の波。熱に侵されたような万能感、同時に人知れず育っていた他者を見下すような汚い感情、そして最後に残った疎外感と、不意に生まれた暖かな感情。本当に何から何まですべてをぶちまけていた。


 メグさんは驚いたり、相槌を打ちながらも、静かに目の前に座っていた。甲子園の話になった時には少し目線がそわそわと動いたようだったが、自分から出た言葉たちをそのまま貰い受けてくれていた。


 連綿と続いた告白というか自分語りが終わったのは、お昼時で騒がしかった店内の客足も徐々に少なくなって、BGMのラジオや厨房の音が明確に聞こえるようになってきた頃合いだった。


 ずっと話し続けた喉が尋常でないほど渇いていた。自分の汚い部分を吐露することへの緊張もあったのかもしれない。Lサイズで頼んでいたはずの烏龍茶も氷が溶けてできたわずかな水を残すだけだった。ガラガラと音を立てながらその最後の水分を補給する。


「お疲れ。ちょっと待ってて」


 メグさんは手短にそう言って立ち上がるとレジの方へスタスタと歩いて行った。その間気が抜けたようにぼんやりと外を眺める。川沿いの道路には時々思い出したかのように車や自転車が行き来していた。その日常の光景がどこか遠いものに思える。


 ついにマレビトのことを打ち明けてしまった。別に他言を禁じられていたわけではなかったけれど、秘密を持っている後ろめたさは心の奥底にはあったようだった。洗いざらい打ち明けてしまい、背負っていたものをやっと降ろせたような心地よい安心感を自覚して初めて、そのことを実感した。


「ほい。おかわりどーぞ」


 そう言いながらメグさんは自分の前にLサイズの飲み物を置く。水の滴るストローに口をつける。烏龍茶かと思ったら中身はコーラだった。少しむせて、思わず前の席を見る。メグさんはニヤニヤ笑っていた。間違いなく確信犯だった。


「ふふ、ごめんごめん」


 メグさんはそう言いながら顔の前で手刀を作る。そのあどけない仕草と笑顔はちょっとずるいと思った。


「ソウ君は嘘つかないってことを大前提として、話を聞いてたわけだけど、やっぱりなんか、すごくファンタジーだよね。あたしだって昔はソフトボールとかやってて、思い通りにホームラン打てたら良いなーって思ったりしてたわけだけど、それが本当に叶っちゃうんでしょ?」


 そう言われて恐る恐るメグさんの方を見る。疑われている、というよりは夢見る感じの表情をしていて少し安心した。


「でも、実際使ってたソウ君としては、フクザツだったわけだ」


「そう……ですね」


 自分の歯切れの悪い回答に、メグさんは満足そうに頷く。


「じゃあやっぱりソウ君が本当に求めていたのはそこじゃなかったってことなんだと思うよ」


「そこっていうのは結果を出すこと、ですか?」


「うん」


 二人の間にしばらく沈黙が流れる。自分がどうしてもたどり着いていない答えに、メグさんは簡単に到達してしまった。目の前に座る彼女にはそんな余裕があった。


「そりゃさ。自分が活躍して、試合に勝って、みんなと喜べるに越したことないよね。自分のエラーで負けちゃって悔しいって気持ちも当たり前のことだし。でもさ。それを目標にしちゃったら、ソウ君の努力って全然報われないと思うんだ」


 努力。その言葉に再び首を垂れる。実際報われなかったのだ。中学時代も、そして結局今年の夏も。


「だって、いっくら自分が頑張ったって負ける時は負けちゃうから。それはもちろん実力もあるけど、試合の進み方とか、その時の天気とか、気分とか、応援の感じとか? その時の巡り合わせでしか勝ち負けって決まらない。でもそれはソウ君だって、あの本気出したらなんでもできそーな監督だって、誰もコントロールできないことなんだよ。そのマレビト? って人ならどうにかなっちゃうのかもしれないけどさ」


 そこで少し息を置いたメグさんは、確かめるようにこちらを見据える。


「自分は自分なりにベストを尽くす。その上で結果が出ればラッキーだし、結果が出なくたってそういうものだって切り替えて次に備える。あたしたちにはそれしかできないし、それだけでいいと思うんだ」


「……そんなふうに割り切れたら苦労しないです。俺は毎日素振りして、練習も手を抜かないで、全力でやってます。それはしんどいことを耐えて、その先で勝って、報われて、喜びたいからです。でもベストを尽くした結果それが報われなかった時の辛さや虚しさは……正直諦めたくなるほど辛いです。一体どうしたら、良いんですか」


 思わず口をついて出た自分の反論の最中に、メグさんは何かに気づいたように無邪気に笑った。


「ソウ君は自分では気づいてないのかもだけど、たぶんもう答えを知ってるよ。今の言葉で分かっちゃった」


 その確信たっぷりの言葉に気圧されて思わずフリーズしてしまう。一度ふっと息を吐いてコーラを喉に流し込む。普段飲まない炭酸が目にしみた。少し冷えた頭で、さっき自分から出ていった言葉を頭の中で手繰り寄せる。そして、マレビトから得た力のことを考える。ゆっくりと自分の言葉を思い返す。あるワンフレーズにたどり着いたことで、少しずつ言葉が脳内で繋がっていく感覚を覚えた。確証はないけれど、答え合わせのようなものができていく感覚だった。


「あとは、そうだなあ。報われなかったってソウ君は言うけどさ。ウチら、別に過去形で話すほどの歳でもないよねって感じかなあ」


 この会話も、母親と話した言葉と脳内でじんわりと繋がっていく。母は預言者、と言う会話があったけど、女性はみんな預言者なんじゃないだろうか。


「……俺、メグさんと会えてほんとに幸せです」


「は? え? なにいきなり!?」


 思わず口から出た言葉にメグさんが急にあたふたする。メグさんはしばらくキョロキョロ周囲を見回したり飲み物に手をつけたり忙しなく動いていたが、やがて観念したように俯いて、大きく息を吐いた。


「あーもう。ここまで頑張ったんだし、ウチも覚悟決めるか。慣れないことするもんじゃないってわかってるんだけど、なんていうか、こう言うこと初めてなわけで」


 小声でぶつぶつ言いながらストローの紙を折り曲げ続ける。そしてキッとこちらに向き直った。その後の彼女の爆弾発言により、双方とんでもなく挙動不審なカップルが一組、めでたく生まれたのだった。


 自分の答えは出た気がした。そして同時に、その答え合わせをマレビトに聞かせる必要があることも、なんとなく理解できていた。

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