九回ウラ.

 激闘の後、野球部員たちを乗せたバスが、甲子園にほど近いホテルに向かって走っていた。汗と土の匂いが充満する車内は異様な雰囲気で、どこからも会話は生まれなかった。ただ鼻を啜る音と、ゴソゴソと所在なさげに体を動かす音だけが、時折思い出したかのようにどこかから聞こえるだけだった。


 そんな静かな雰囲気を右肩に感じながら、窓の外をぼんやりと見つめる。地区予選の頃からお決まりになった姿勢だった。隣の通路側に座るヒデは、泣き疲れたのか、バスに揺られながら静かに眠っている。自分は、寝れない。やたらと目が冴えていた。それは窓の外を華やかに彩る街の明かりのせいなどではなかった。


 そのままバスは、夜も遅い時間に市内のホテルにたどり着き、選手たちはそのまま一度解散。二時間後には夕食と、その後に夏の大会を締め括る最後のミーティングが始まる。ホテルの部屋は簡素なもので、一つあるベッドだけで部屋のほとんどが占領されていた。今日ずっと一緒にいたチームメイトから初めて離れ、孤独な時間が生じる。そういえば、寮の部屋でもヒデと一緒だったこともあって、自主練の時を除けば、室内で、長く、完全に一人の時間を経験してこなかったように思う。


 疲労とぐちゃぐちゃになった感情のせいで、半ば朦朧とした意識の中、ふらふらとシャワーを浴びて汗を流し、指定のジャージに着替えて、そのままボスっとベッドにうつ伏せで倒れ込んだ。


「お疲れ様」


 不意に頭の上から聞こえる声にビクッとする。この部屋は一人部屋のはずで、当然ながら自分以外は誰もいないはずだった。だが、この声は


「お疲れのところ悪いのだけど、ちょっとだけ実験経過を確認させてくれるかい?」


 マレビトだった。どうやって部屋に入ったのか、とかそうした当然の疑問は、彼と同じ空間にいると些細な問題としか感じなくなる。なんというか、そういった常識を超越した存在であることはこれまでの出会いの中で、人間の本能的な部分が察していた。


「なんだよ」


 そう答えながらズルズルとベッドから起き上がる。全身が疲労の悲鳴を上げていた。マレビトはそんな自分を見下ろしていた。その眼差しからは何を考えているのかを想像することはできなかった。


「ルールを理解した今の俺なら分かるよ。今日の負けは君のせいじゃない」


 ベッドで体を起こし、マレビトの隣に座る自分に労いとも事実確認ともとれるようにマレビトは言う。両方とも視線をホテルの壁に移し、目を合わさなかった。


「俺としては、君が大活躍したのち、チームも大勝利を納めて、そして歓喜に震えて幸福になる構図を想像したんだけどね。君は活躍した。でも負けた」


 そう言いながらマレビトはどこから出したのか、野球のボールを手に納めた。物珍しそうに、でもどこかぞんざいな感じで球を弄ぶ。


「まあ実験に予想外の外乱はつきものだからね。特に不完全な人間が多く関与する事柄なら尚更だ。ただ、そうした外乱が時に思わぬ研究結果をもたらすこともあると思うんだ」


マレビトはそう言ってボールを軽くこちらの上に放り投げた。慌ててキャッチしようと視線を天井に移しながら、続くマレビトの次の言葉が耳から侵入する。


「そこで問おう。宗忠晴君、君は今幸せかい?」


 ボールをキャッチし、視線を戻すと、先ほどまでそこにいたはずのマレビトの姿はすでに忽然と消えた後だった。呆然としながらさっきまでマレビトが座っていたベッドの端と手にしたボールを見比べていると、近くでスマホのアラームが鳴った。ミーティングに向かう時間だ。


 一階の広々とした宴会場で行われるミーティングは今年の夏が早々と終わってしまった悔しさと、戦いは終わったのだという一種の開放感とが交わり、ざわざわしたような不思議な雰囲気の中で始まった。卒業する三年生たちが順に心情やこれからの抱負を話し終わり、最後に監督が静かに壇上に上がった。


「諸君らはよく戦った」


 色々なことがありすぎた疲労と直前のマレビトとの対話で、なんだか半ば夢の中のような覚束なさだった世界が、少し声を張っただけの監督の最初の一言だけで輪郭を戻した。全体への労いから始まった監督の言葉は、選手たち一人一人に向かって語りかけるように続く。


「結果として、初戦突破という目標を達成することはできなかった。これは監督である自分の力量が足りなかったせいである。大変申し訳ない」


 そこで監督は静かに深く頭を下げた。沖田キャプテンがそれは違う、と主張するかのように悔しそうに首を横に振るのが視界の端で見えた。


「繰り返しになるが、ベンチで戦ってくれた者、そしてその外で戦ってくれた者、皆本当によくやってくれた」


 そこで一度監督は周りを見渡す。


「たとえ今日負けたとしても、それでも明日から諸君らのやることは今まで通り」


 いつものフレーズだった。この言葉を胸に刻み続けた年月を思い出したのか、数人の三年生が鼻を啜る。


「目の前の一球に集中する。自分の力を信じる。仲間の力を信じる。最初から最後まで勝利を目指してプレーする」


 これで最後となる馴染み深い言葉たちに、徐々に会場内に涙の波が浸透していく。


「その言葉を常に全うし、下の代に示してくれた三年生の諸君。これまで本当にありがとう」


 そう言いながら、監督が再び頭を下げる。不意に脳裏に、最終回の沖原キャプテンの打席が浮かぶ。自分もいつかあんな風に、その背中で多くを語れる打者になれるだろうか。きっと今のままでは無理だろうと思った。


「そしてこの精神は、今日この場から、下級生の諸君らが担っていく事になる」


 監督にチラリと視線を送られた気がした。思わず背筋が伸びる。


「諸君らは強い。そしてこの精神が胸にある限り、これからも強くあり続ける。それは引退し、ここから様々な進路に羽ばたく三年生でも同じこと。目の前の勝負に集中し、自分の力、周囲の力を信じ、最初から最後まで全力で、自分の望む未来に向かって邁進していって欲しい」


 そう言うと監督は最後に、今まで見せたことのないような優しげな笑顔を見せた。


「そうある限り、卒業した後であっても、たとえ野球というスポーツから離れようとも、諸君らはいつまでも誇り高き、天京高校野球部員だ」


 そう言って、監督はスピーチを終えた。自然と拍手が起こる。これにて最後のミーティングは解散だった。


「ソウ、ちょっと」


 先ほどスピーチを終えたばかりの監督から直々に声がかかる。何事だろうと思いながら監督の元に向かった。


「お前がこれからの天京を背負っていくと見込んでいるから、少しだけ厳しいことを言っておく」


 そう恐ろしい前置きをしてから、監督は真っ直ぐに自分の瞳を見つめた。


「お前が二回にしたサインミス。あれのせいでヒデがそのあと精彩を欠いたのだとしたら、どう思う?」


 突然の指摘に背筋が凍った。しばしの沈黙が流れたが、監督は真っ直ぐ自分を見つめたままだった。


「……どういうことでしょうか?」


「お前がもしあの場面でバンドを成功させ、チャンスでヒデに回っていたらどうだったか。考えてみて欲しいんだ。ヒデは元々チャンスになるほど燃える選手だ。チャンスで回ってきたその打席で、初回のエラーで生まれた緊張をほぐすことができたかもしれない」


 確かに、初回のエラーはヒデだけの責任ではないし、序盤であるため傷も浅い。二回の打席でヒデの気持ちが少しでもほぐれていたら、その後の展開は……果たしてどうだっただろうか。追い討ちをかけるように監督の言葉は続く。


「それに、お前があの場面でバンドすることで、五番以降にも期待値の高いバッターが控えているぞ、ということを相手に意識させることもできたはずだった」


 ハッとする。じゃあ最終回の自分に対する敬遠は、自分のサインミスから誘発されたようなものじゃないか。あれのせいで相手は、警戒すべきは五番までで、六番以降で勝負した方が安全、という意識を持ってしまった。


 三打数三安打、ホームランまで打っている自分との勝負を避け、たとえチャンスを広げてでも、安全牌と判断したヒデと勝負することを選ぶのは至極当然だ。


「お前にとってもヒデにとっても、今回が初めての甲子園。緊張したり、自分がやってやろうと功を焦ったりするのは当たり前だ」


 自らの未熟さを突きつけられたようで、思わず唇を噛む。かつて読んだ雑誌の一節が頭をよぎる。甲子園には確かに魔物が潜んでいた。生き物のように波打つ歓声、ジリジリと照りつける太陽と、それを反射する黒土。あの聖地全体の異様な空気が、自分たちの心を必要以上に昂らせた。


 その結果、ヒデは緊張や不安のあまり、普通ではありえないようなミスをした。一方の自分は、周囲の期待に応えんとするあまり空回りして、間接的にとはいえ、ヒデのプレーをつぶしてしまっていた……。


「それらも踏まえて二人を選んだのは私だ。だから今回のことを必要以上に責任を感じることはない。ただ、これからもあそこを主戦場にしていかなければならないお前には、どうしても今のことは伝えておこうと思ってね」


 思わず俯き、拳を握る自分に監督は静かに話を進める。


「ソウ。野球は九人でやるものだし、九回まで続くものだ。そしてどの選手も、どの場面も、孤独のようでいて、実は繋がっているんだよ」


 そんな言葉を最後に、自分の返答を待たずして、監督は去って行ってしまった。


 その翌日、天京高校野球部一同は甲子園球場を後にした。これから数日間、練習は一旦休みとなるので、自分は父の初盆参りのために、一度実家に帰る予定だった。


 高校へ戻るバスの中でも、寮に戻って荷造りをし、実家に帰る電車の中でも、頭の中には消化不良な疑問が浮かんでは消えていた。


 甲子園で感じた違和感。マレビトの”結果を出す力”による幸福に対する疑問。ヒデとの会話で得た小さい、しかし確かな幸せ。そして監督の言葉。どれもこれも難問だった。だが、なんとなく全て、根本では繋がっているような気はした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る