九回表.

 結局自分にはどうすることもできないまま、無意味な球が四回キャッチャーミットに収まった。審判がフォアボールを高らかに宣言するその甲高い声ですら今は不快だった。一塁に向かう間、どうしようもない無力感が心の中を渦巻いていた。味方ベンチもアルプスも大歓声の嵐だった。逆転できるかもしれない。いや、きっと逆転してくれる。彼らからしたらそう見えるのだろう。


 あまりにも舞台が整いすぎていた。逆転された裏の回に巡ってきた大チャンス。最年長としてチームを引っ張ってきた先輩方が決死の覚悟でチャンスを作り、同期のルームメイトがそれを広げる。そこで満を持して、逆転を許した戦犯張本人が打席に立つ。


 誰もが汚名返上、一発逆転のドラマを期待している。その状況が、今は自分のことでもないのに、たまらなく胃をキリキリと締め付けた。漫画の主人公でもない不完全な彼に、そんな無理難題を期待しないでほしい。


 自分ならばその期待に応えられた。マレビトにもらった力は、期待されればされるほどに強く発揮される。完全な自分があそこに見える打席に入ることができれば、この球場に満ち満ちる期待全てに応えることができるのに。


 こんな状況を作った全てが恨めしかった。この回、一、二番がアウトにならず、なんとか出塁していれば。三、四番がもっと長打を打ってくれていれば。いやそもそも、ヒデがあの場でエラーなんてしなければ。きっと自分は幸せになれたのに。


 ヒデが青ざめた顔で打席に入る。自分との勝負から逃げた卑劣な相手バッテリーは、覚悟を決めたような表情でヒデを仕留める狩りを始めた。一球目、アウトコースにスレスレにストレートを投げてワンボール。よく見極めた、とは言い難かった。そもそも手が出なかった。そんな様子だった。二球目もほぼ同じ球筋でツーボール。


 こちらに有利なカウントになるたび、味方のボルテージは馬鹿みたいに上がっていく。この狂騒から取り残されているのはきっとヒデと自分だけだろう。


 太陽は少しずつその高度を下げていき、熱を持った黒土に映る影は徐々に長くなっていく。それが自分たちの夏が終わる無情なカウントダウンのように思えて、焦燥感が手足の感覚を奪っていった。結果を自在に残せる環境にいた自分にとって、久しぶりに味わう嫌な感覚だった。


 三球目、ヒデがあっさりと見逃した球は、完全に打ちごろの球だった。普段のヒデならば、あんなしょうもない球を見逃すなどありえない。やはり身体が動いていない。ワンストライクを取ったことで、今度は相手側が歓声をあげる。「あと二球」コールがたまらなく耳障りだった。


『なんで人類はこんなにも不完全なんだと思う?』


 頭の中に、かつてマレビトが自分に問いかけたセリフが浮かぶ。なぜなんだろう。もしヒデが自分と同じ力を持っていたら、こんな無様なことにはならなかったのに。なんでヒデは自分と違って完全じゃないのだろう。たまらなく歯痒かった。


 四球目、変化球をほぼ真ん中に決められ、カウントはツーストライクツーボール。ひではまだ打席に入って一度もスイングをしていない。これはもうダメだ。心中の焦燥は限界点を突破して、呆気なく諦めに変わっていた。ここから先は中学時代の哀れな自分の再現が起きるだけだ。見逃し三振でゲームセット。ドラマを期待した球場の期待は裏切られ、後には味方の悲しみが残るだけだ。


「ヒデ!」


 突如、腹に響く声が聞こえた。三塁ベースにいる中津先輩だった。ヒデはハッとして一度打席から出る。その声が聞こえたのはヒデにまだ余裕があったからか、それとも声をあげたのが中津先輩だったからか。


「何も気にすんな! できることを全力でやれ!」


 それができれば苦労はしないと思った。それなのに中津先輩の言葉には、心に火が灯るような力があった。ヒデも自分もこの夏が終わったところであと二年チャンスがある。しかし中津先輩は今年が最後だ。もっとこの聖地で、このメンバーで、野球がしたいはずなのだ。だからこそここで出るはずの言葉は「俺たち三年生のために打ってくれ」であるはずなのだ。なのに


 ヒデはポカンとして中津先輩を見つめる。相変わらず泣きそうな表情だった。だが、驚いたことに、目には少し力が戻っていた。


「はい!」


 打席に戻るヒデの足取りは相変わらず重い。感情もさっきの言葉一つで吹っ切れるものではないだろう。だが、今度はヒデは逃げていなかった。泣きそうになりながらもマウンドの方を向いた。これまでチームの足をひっぱり続け、今もまた結果を出せないかもしれない恐怖を背負いながら、それでも相手投手を睨んだ。


 放たれた五球目、相手投手渾身のストレートを、ヒデはフルスイングした。まるでいつもの彼が戻ったような豪快な軌道だった。


 結果は、空振り。これでスリーストライクバッターアウト。試合終了だった。


 相手側のアルプスが爆発したように盛り上がった。相手ナインがグローブでハイタッチを交わしながら、長い緊張から開放された表情で喜び合っている。汗と泥に塗れた笑顔はあまりに眩しく、直視できなかった。彼らの夏はまだ続く。その一方で自分たちの夏は、ここで終わったのだ。


 一塁ベースからノロノロとホームベースに向かった。バッターボックスではフルスイングしたあまり体勢を崩し、そのまま崩れ落ちているヒデがいた。肩を震わせて唇を噛み締めているその姿は、やはり昔の自分の生き写しだった。


「ヒデ、立とう。整列だ」


 三塁ベースから帰ってきた中津先輩が目の前でヒデに手を伸ばす。ヒデは中津先輩に背を向けるようにしてバットを握る手が白くなるほど力を込めていた。そんなヒデを見ながら、中津先輩は駄々っ子を見る親のように、泥と汗に塗れた顔で、しかし爽やかに笑った。


「まったく、しゃーねーな」


 そう言いながら腰を下ろし、ヒデの肩に自分の肩を入れ込むようにして、無理やり引っ張り起こす。そして喧騒の中、近くにいるヒデと自分にしか聞こえないような声で


「ナイススイングだった」


 そう一言呟きながら、ヒデの肩をぱんぱんと叩いた。ヒデの瞼の堤防はそこで完全に決壊したようだった。大きな子供のようにわんわんと泣くヒデに、困ったように、でも愛おしそうに肩を貸す中津先輩だったが、不意に自分に視線を移した。


「ソウ、こいつダメそうだから、そっちの肩持ってやってくれね?」


「あ、は、はい!」


 慌てて中津先輩と反対側の肩を抱えながら、すでにベンチの前に出来上がりつつあった整列に加わった。


「以上持ちまして、本日の第四試合、天京高校対成駒工業高校は、二対三をもちまして、成駒工業高校が勝ちました。勝利高校の栄誉を讃え、これより校歌を斉唱します」


 列に加わり、隣のヒデに肩を貸しながら、相手の喜びの歌を聞く。その歌に混じって、ヒデの他にも近くで啜り泣く声がところどころから聞こえていた。


 関さんが泣いていた。桐生先輩の後を担えなかった後悔からだろうか。その桐生先輩も静かに泣いていた。最後の夏が終わったからか、はたまた最後まで投げきれなかった無念からだろうか。キャプテン沖原さんは目に涙を浮かべながらキッと前を睨み、直立不動で相手の校歌斉唱を見つめていた。泣いている部員を隣の部員が肩を叩いたり、支えたりする光景が横目にいくつか見えた。


 そんな中、自分はなぜか泣けなかった。「こんなことになるならヒデにもマレビトから力を授かるようにお願いすれば良かった」とか「自分の打順がもっと上位だったなら勝っていたのに」とか「自分は結果を残した。だからこの負けは自分のせいじゃない」とか、どうしようもなく汚らしい感情が胸の内を支配していた。


 そして同時に、自分がこのチーム全体の悲しみの輪の中からふらりと弾き出されたような。天京高校野球部の一員として、周囲に満ちる感情を共有する資格がない。そう甲子園の空気全体から指差されているような。そんな感覚も感じていた。


 この場に似つかわしくない傲慢な感情と、そんな感情を抱く自分に対する異物感。こんなに人がたくさんいて、騒がしくて、お祭りが大団円を迎えようとしているのに、自分だけが限りなく孤独だった。その孤独が自分の中の泣きたい気持ちを根本から枯らしていた。涙など出ようはずがなかった。乾ききった心の中で、改めて一つの疑問が生まれる。


『自分にとって幸せとはなんなのだろう?』


 自分はこの試合、間違いなく結果を残した。そしてこれまでは試合で結果を残せば幸せだった。だが果たしてそうなのだろうか? それは自分が結果を残したことによって生じた幸せだったのだろうか?


 試合終了を告げるサイレンは自分の中に渦巻くそんな疑問に、何も答えてはくれなかった。


「すまんソウ。ほんまにすまん」


 ベンチを引き上げる荷造りを終えて、最後に自分たちから滴り落ちる汗で少し湿った黒土をかき集めている最中、ヒデは涙ながらに自分に謝ってきた。


「なんで俺に謝るんだよ」


「お前みたいに俺がもっとちゃんとストイックに練習せんかったせいで、本番であんなしょうもないプレーばっかりして。一緒に出てたお前が、毎日ずっと地道に文句も言わんと練習して、ちゃんと活躍してんのに、それを近くで見てたのにサボっとった俺が足ばっかり引っ張ってしもて」


 そうだ、お前のせいだ。お前が不完全だからこの試合に負けたんだ。乾き切ってざらついた心がヒデにそう声もなく噛み付く。そうなることを予想した。それなのに、なぜか突然、自分がどこまでも満たされていくのを感じていた。目が見開き視界がぼやける。土で汚れた手が痺れて震える。自分の身体ではないような浮遊感だった。


「馬鹿か。……俺はお前みたいな化け物と違って、人に誇れるような才能なんて全然、何一つないんだ。お前みたいに、見てるやつがワクワクするようなバッティングはできないし、色んな人に愛されて雰囲気良くすることだってできないし、野球の技術も、人間性も、……何もかもお前に勝てないんだ。だから、せめてお前に引き離されたくなくて、仕方なく練習してただけなんだよ」


 さっきは出なかったはずの涙が、なぜ今になって、心の奥底の暗い場所に押し留めてきたはずの言葉たちとともに次から次へ溢れ出すのか、自分でも全く理解できなかった。噛み締めた口の端から、これまでずっとずっと心に住まわせてきた、暗く卑屈な言葉が溢れ出す。


「アホ。ストイックに練習できるっちゅうのはそれだけで才能や」


「それは昔からずっとお父さんにしごかれてきたから、その惰性で……」


「そんなもん関係あるか。惰性やとか理由なんてどうでもええ。続けられとるのがすごい言うてんねん」


 なんで涙が止まらないんだろう。試合で結果を残すことはできなかったのに。周りの期待に応えられなかったのに、こんなに不細工で、みっともなくて、どうしようもない姿なのに


『なんで自分は今、こんなに幸せを感じているんだろうか』


 日はすっかり陰り、球場にはナイター用の明かりがともり始めていた。日中の太陽とは対照的に、その光は戦いを終えた戦士たちを労うように、優しく自分たちの背中を照らしていた。

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