八回ウラ.

 八回ウラ、七回から桐生さんに代わって投げていた二年生ピッチャー関さんが先頭バッターに死球を与え、ノーアウトから同点のランナーを出してしまう。ここで天京内野陣は一旦集まった。


「関、大丈夫か」


「ああ、キャプテンすみません。汗で変化球すっぽ抜けました」


「大丈夫ですか? ロジン変えてもらいます?」


「や、大丈夫。マツ、サンキュな」


「こっからクリーンナップ。多分バンドはないと思うけど、角田とマツはいつでも突っ込めるようにケアだけしといてくれ。それ以外の内野はゲッツー体制。まず三番。初回も初球打ちでデカいのいかれてる。関、入りから全力で投げてこい。ここ、なんとしても抑えるぞ」


「はい!」


 キャプテンの一声に皆が気合いの入った声で応え、再度ダイヤモンドに散った。打席には三番打者。初回からいきなり桐生さんの変化球を右中間へ運んだ強打者だ。


 ファーストで牽制を待ちながら関さんの方を見る。額には汗が浮かんでいた。ベンチでは降板した桐生さんが大きな声を出して、内外野に指示を飛ばしている。


 関さんもまた背負っているのだ。先輩の、桐生さんの、最後の夏を。自分が金田さんに託されたのと同じように。


 二度サインに首を振って、関さんが投げた。やはり初球から強振してきた。が、外の変化球で空振りを奪う。やはりバンドしてくる気配はなさそうだった。二球目の外角際どいストレートは見逃してボール。


 そして三球目。関さん渾身のスライダーに、打者のスイングが完全に泳いだ。引っ掛けたような打球が力なく三塁側ファールゾーンに飛び、角田さんがそれをきっちりつかむ。これで一アウト。三本勝負一本目は関さんの勝利だった。


 しかし、次の四番打者も三回にはホームランを放っている要注意打者。天京の正念場はまだ続いていた。


 太陽は少しずつその高度を下げて、電光掲示板は綺麗な夕焼け色に染まっている。直射する日光の暑さはなくなったが、それまで照らされ続けてきた黒土の持つ熱が地面から跳ね返り、下から蒸されるような熱を感じる。


 四番との決死の対決は進み、カウントはワンストライクスリーボール。その五球目。低めのストレートを綺麗にセンター前に持っていかれる。センター中津さんが二塁で刺そうとするが間に合わず、これでワンアウトランナー一、二塁となった。


 大歓声の中、続く五番打者が打席に入る。今日はまだヒットはないものの、大きな当たりは何度か放っている、やはり警戒すべきバッターだ。その豪快なバッティングはどこか絶好調の時のヒデを彷彿とさせるものだった。


 日が傾いてきた甲子園球場に生暖かい風が吹く。ふと、なぜか嫌な予感がして、ヒデが守るレフトの方を見た。二対一、一点のリードで迎える八回ウラ。ワンアウトランナー一、二塁。バッター五番。夕暮れ時の電光掲示板。熱を持った黒土……


 静かに心臓が早鐘を打ち始める。自分が苦しめられてきたあの悪夢と気味が悪いほどに状況が合致していることに嫌でも気づいていく。単なる偶然だと自分に言い聞かせるが、心は言うことを聞いてくれない。


 関さんが三球目を投じた直後、これ以上なく不吉な快音が響く。打球はサードとショートの間を抜ける、痛烈なゴロだった。


「レフト!」


 自分が思わず放った声は、恐怖のあまり掠れていて、きっと外野のヒデにまでは届いていなかっただろう。いや、たとえ声として届いていたところで、ヒデがそれに気付く余裕は、果たしてあっただろうか?


 夕暮れ時の球場、自分の視線の先で、あの日の出来事が、再上映される映画のように、たちの悪い夢のように、忠実に再現されていた。ヒデの股の下を抜けていく白球。泣きそうな顔をしながら追いかけるヒデ。爆発したかのように盛り上がる相手側の応援席。声にならない悲鳴が上がる味方側の応援席。


 一塁ベース上で呆然と一部始終を見ていた。二塁ランナーがホームに帰るところも、一塁ランナーがホームに帰り、チームメイトにもみくちゃにされて、歓喜の声で迎えられるところも、やっと外野から返ってきたボールが送られたサードベース上で、バッターランナーが黒土に塗れながら、殊勲のガッツポーズを高々と掲げる様も。


 なんなのだろうこの惨状は。野球の神様がいるのならば、一体どういうつもりなのだと問い詰めてやりたかった。こんなにも自分をいじめて楽しいのかと罵ってやりたかった。


 野球の神様にだけ不満を垂れるだけならばまだ良かった。こんな見たくもない情景を見せやがって。俺のトラウマを再現しやがって。その罵りは、間違いなく、あまりにも不完全だったヒデのプレーに対しても向けられていた。


 結局この後の打者に対しては関さんがなんとか踏ん張り、二者連続三振でその回は切り抜けた。しかし、一点あったリードは覆された。逆転タイムリーエラー。最終回、天京高校は一点を追いかける立場となった。


 最終回が始まる前に、改めて円陣を組む。監督が何かを言ってチームを鼓舞し、全員が腹から声を出して応えていた。その間、自分はずっとヒデのことを見ていた。動揺はもはや必死に作ろうとする笑顔でも隠しようがなかった。顔からは血の気が引いていて、円陣の時も上の空のまま、斜め前の地面を見つめている。普段の豪快な彼は今やもうどこにもいない。


 なんとかしなければ。そう思い焦った。だが、かける言葉が見つからない。あの時の自分だって何を言われたところで立ち直れなかったのだ。言葉の引き出しを必死で探るけれど、特効薬など見つかるわけもなかった。


 そんな焦りとは裏腹に、ゲームは進み、終わりへのカウントダウンも進んでいた。この回は一番からの好打順だったのだが、機動力の要である一番三上先輩は、八球粘った末に空振り三振に倒れた。二番高田先輩も、五球目に痛烈な当たりを放つも、相手ショートのファインプレーによりショートライナーに倒れた。


 これで、ツーアウトランナーなし。続くバッターは三番、センター中津先輩。中津先輩はネクストバッターサークルに向かう前、少しヒデに何かを話していた。


 中津先輩とヒデは仲が良かった。率先してヒデをいじって楽しんでいたのはいつも彼だった。そんな可愛い後輩がエラーをしてテンパっているのを見て、我慢できなかったのだろう。


「初回は俺のミスにお前を巻き込んだ。あれは本当にすまんかった。そっからお前が思うように動けてないのも分かってた。それがさっきのエラーに繋がったんだとしたら、あれも俺のミスだ。お前は何も悪くない。俺のミスは俺が挽回する。お前は割り切ってプレーしろ。まだ試合は終わってない」


 そんな声が聞こえた。それは残念ながら逆効果だと、横目で見ながら思った。お世話になってきた先輩からの一言だからこそ。初回にエラーに絡んだ相手だからこそ。余計に自分が背負おうと思ってしまうのだ。鎖を締めてしまうのだ。


 ヒデは泣きそうな顔をして中津先輩の言うことを聞いていた。その姿を見て心の中で何かが叫ぶ。やめてくれ。ヒデは天才なんだ。自分とは住む世界が違う、こんなそうしようもない局面さえ笑ってどうにかしてしまうやつなんだ。……そうでないといけないんだ。間違ってもそんな、そんなかつて何もできなかった弱い自分みたいな顔をするようなやつじゃないんだ。


 ベンチの視線を一身に受けて中津先輩が打席に入る。相手投手を圧するように、バットを投手に向け咆哮する。味方応援団の応援歌を嘲笑うかのように、相手応援団の「あと一人」コールが聞こえてくる。急かされるようなあのコールは、いつ聞いても好きになれない。


 一球目は見逃しでストライク。二球目はファール。簡単に追い込まれ「あと一人」コールはついに「あと一球」コールに変わる。相手の投じた三球目。鈍い音が響いた。ボテボテの当たりがサードの前に力なく転がる。歓声と悲鳴が湧き上がる中、中津先輩はがむしゃらに走る。突っ込んできたサードが素手でボールを捕球し、そのまま一塁へ送球を送る。


 中津先輩のヘッドスライディングとショートバウンドしたサードの送球が重なった。ボールは、ファーストの前に落ちていた。記録はファーストのエラー。ツーアウトランナー一塁。天京は首の皮一枚繋がった。


 そして次の打者は、四番として、守備の要として、ここまでこのチームを支えてきたキャプテン、沖原さんだった。ゆったりとした動きでかまえる大きなフォームはまるで、監督の「いつも通り」を自ら体現しようとしているかのような佇まいだった。


 これまで天京でプレーしてきた誇りを身体の一挙一投足に込めるように、キャプテンは悠然と構える。そして、その初球だった。


 鋭く振り抜いたバットから放たれた白球は、サードの横を閃光のように切り裂いていった。三塁線を破る長打コース。


 スタートを切っていた中津先輩は懸命にホームまで狙おうとするが、サードコーチに止められる。当たりが早すぎるあまり、外野からボールが帰ってくるのが早すぎたため、ホームを陥れることは叶わなかった。これで、ツーアウトランナー二、三塁。


 何もかもが自分のためにお膳立てされているようだった。マレビトが結果を出す力を与えてくれたことも、中学の時の自分の絶望も、それをリフレインするかのようなヒデのエラーも、この瞬間を劇的にするための筋書き通りのように思えた。これ以上ないチャンス。自分には力がある。ここで決定打を放ち、相手の息の根を止める。そのことしか頭になかった。


 相手の内野陣が集まった。相手ベンチから伝令が飛んだ。皆が頷き再度守備位置に散っていった。さあ、ついに自分の舞台が始まる。これでヒデのことも、救うことができる。そう思った。


 だが、そうではなかった。投手がボールを投げた瞬間、後ろでキャッチャーが立ち上がり、自分から大きく離れた。ボールはバットに当たりようもないほど遠くでキャッチャーミットに収まる。何が起きたのか、理解するのに数秒を要した。敬遠だった。


 考えてみればすぐにわかることだ。これまでの自分の打席は本塁打を含む三打数三安打。一塁は空いている状態。この選択は当然とも言えた。そして次のバッターは。


 そこまで考えて、またしても心臓が鼓動を早める。ネクストバッターサークルを思わず振り返る。そこには、顔面蒼白になっているヒデが、中学野球最後の打席に立つ前の自分がいた。


 ツーアウトランナー満塁でヒデに打席が回ってしまう。悪夢はまだ、続いていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る