八回表.

 ついに試合が始まった。


 ファーストを守りながら、なんとなく向かいの三塁側アルプスに目を向ける。チアガールたちは綺麗な隊列を組み、衣装の色で、紫の地に白の文字で天京のTの字を作っていた。


 その隣ではブラスバンドの楽団が控えている。斜めに照りつける日光が金管楽器に反射してキラキラと金色に輝いていた。


 そこからさらに外野側には、一般応援の人々が詰めかけている。きっと母も父の遺影と共に、あのあたりに座っているのだろう。


 そして、その前の方にはユニフォームを着てメガホンを手にした一団が見える。この夏ベンチに入れなかった部員たちだ。その中にはかつてこの場に立っていた金田さんもいるのだろう。


 さまざまな役割、立場を持った人たちが、この広い甲子園球場に集まっていて、そのおよそ半数近くを埋めるほどの人々が、自分たちの勝利を願っているというのは、本当にものすごいことだと思う。


 そこで自分が結果を残し、チームが勝利し、彼ら全員が喜んでくれたら、どれほど幸せであることだろう。地区大会でもそうだったのだ。全国大会ともなればさらに幸福になるに違いない。


 右手で作った拳をグローブの中にバシバシと叩きつけ、中腰になって打球を待つ。


「さあ。俺のところに飛んでこい」


 なぜなら自分は決してエラーしないからだ。ボールを処理する機会が多いファーストという守備位置に、絶対にエラーをしない力を持つ自分が守っているのは、チームにとって、とても都合が良いことだ。


 桐生さんがゆっくりと振りかぶって第一球を投げる。こんなにも心の躍る試合はこれまでの野球人生で初めてだった。


 試合はいきなり初回から動いた。ツーアウトから相手の三番打者が右中間を抜くツーベースを放ち、ランナー二塁。続く四番打者に桐生先輩が投じた三球目。今度は左中間にボールが飛んだ。高く上がった打球に向かって、レフト、センター両者が懸命に追いかける。


「レフト!」


 沖原キャプテンの声が飛ぶ。レフトのヒデがギリギリのところで落下点に入る。しかしセンターもそのまま横から突っ込んできて、ヒデがそちらを気にした瞬間


「あっ!」


 打球はヒデのグローブで一度バウンドしたあと、無情にも地面にポトリと落ちた。その間にスタートを切っていた二塁ランナーはホームへと帰り、バッターランナーも二塁まで進んだ。一回表に早くも先制を許してしまった。一塁側のアルプスに陣取る敵の応援団が大歓声をあげる。


「ラッキー、ラッキー!」


 そんな声を後ろの一塁側アルプスから感じながら、無意識に舌打ちをしていた。あの場面なら、センターの中津先輩はヒデのカバーに回るべきだったし、ヒデもセンターに気を取られたからといって、一度入ったボールを落としていてはいけない。あれは防げた一点だった。


 でも仕方ない。彼らは不完全なのだからミスもする。自分がその分チャンスで打って、逆転すればいいのだ。そう思いながらも心の中のどろりとした感覚はすぐには拭えなかった。


 結局その後の打者は桐生先輩がきちんと抑え、この回の失点は一点で留まった。三塁側のスタンドがどこか安堵にも聞こえる歓声をあげる。


「ヒデ! すまん! お前ボールだった!」


 ベンチに戻りながら、センターの中津さんがヒデの肩を叩きながら謝っていた。


「ドンマイ、ドンマイ」


 誰ともなしにそんな声がベンチ内を飛び交う。対してヒデは、ヘラヘラと笑いながら汗を拭い、戯れ合うように中津先輩に応じていた。


「いやーこっちこそ、落としてもうて、すんませんでした!」


 その表情だけ見ていては気づかなかっただろう。しかし、幸か不幸か自分はこれまで一番彼と最も多くの時をともにしていた。だから見逃せなかったのだ。その笑顔の中に取り繕うような僅かなぎこちなさがあったことを。そして連鎖的に気付いてしまったのだ。タオルを握る彼の手が自分を罰するかのように不自然なほど強く握られていたことを。


 あの直接対決でも、どんな逆境の時でも、彼が自らのファイティングポーズを崩したことはなかった。いつだって不敵に自分の前に立ちはだかる存在だった。そんな彼から「弱さ」が漏れ出たのを目の当たりにしたのは正直初めてだった。


 自分だけが気づいたことから生じた責任感からなのか、ヒデに「切り替えていこう」と言ったようなことを伝えるべく、急いで声をかけにいこうとした。その時、落ち着き払った声がベンチ内に響いた。


「まだ一回」


 監督のその静かな一声に、どこか浮き足だっていたベンチの面々がはっとそちらを振り返る。


「やることは今まで通り」


 誰も集合の合図を出さないのに、自然と監督の周りに円陣が組まれる。


「目の前の一球に集中する。自分の力を信じる。仲間の力を信じる。最初から最後まで勝利を目指してプレーする」


 そこまで言うと、監督は小さく一呼吸した。その刹那、般若の形相を解放する。


「諸君らは強い!さあ、今日も勝って来い!」


 たとえ甲子園の舞台であっても、やはり監督は変わらなかった。そのことに今回も勇気をもらう。たとえどんな舞台であろうとも、自分たちのやることは変わらない。


「はい!」


 そう腹から声を出し、憑き物が取れたような顔でナインはベンチに散っていった。


 一回ウラのこちらの攻撃は相手投手に翻弄され、三者凡退。二回表は持ち直した桐生先輩が相手の下位打線を、こちらもきっちり三者凡退に切って取った。


 一点を追いかける二回ウラ。先頭打者の四番沖原キャプテンが反撃の口火を切るライト前ヒットで出塁し、ノーアウト一塁。ついに自分に甲子園初打席が回ってきた。ホームランを打てば逆転だ。意気揚々と監督の方を見る。出されたサインは……送りバントだった。


「……そんな馬鹿な」


 思わず口から悪態が漏れた。自分なら確実に打つことによって結果を残せる。この状況から逆転ができるのだ。それなのに送りバントで一つアウトを増やし、ランナー二塁の状況を作って次に託せと……ヒデに託せと監督は言っているのだ。


 仕方ない。監督は自分が"結果を出せる力"を持っていることを知らないのだ。それならばダブルプレーの可能性を少しでも潰すためにバントという選択を取ることは何も間違っていない。


 指示通りにバントの構えを取る。一球目は低めの変化球だったので見逃して一ボール。再度少しだけ期待して監督を振り返るが、やはりサインはバントのままだった。少し気持ちを落ち着けようと、一度バッターボックスから出て、素振りをする。自分なら打てる。そんな不躾なアピールも兼ねたようなフルスイングに無意識のうちになっていた。


『監督は、本当に自分よりもヒデの方が結果を残せると思っているのだろうか?』


 スイングをする中、そんな嫌な考えが頭をよぎった。ネクストバッターサークルで待っているヒデを一瞥する。やはりまだ表情がぎこちないままだ。


 甲子園という大舞台、しかも初回に失点に絡むエラーをしてしまったのだから、引きずってしまうのは当然のことだ。今のヒデは身体も満足に動かないだろう。自分だって同じ状況だったならばそうなる。経験上確かなことだ。


 そんな身体の状態で、この後チャンスになった状況で、打席に立たされたヒデは一体どうなるのだろう。普段通りのあの豪快なバッティングができるだろうか? そして良い結果を出せるだろうか?


『きっと無理だろう。それなら』


 心は決まった。バントの構えはもう取らなかった。


『ここは自分が決める』


 一塁ランナーの沖原キャプテンが少し驚いたような顔を見せる。明確なサイン無視なのだから当然だ。後で謝っておこう。


 相手投手が第二球を投げる。アウトコース低めストレート。普通の打者なら間違いなく打てないような、完璧な球だった。しかし、その最高の球をもってしても、力を持った自分を抑えることなどできはしない。


 迷いなくスイングする。自分のバットがこれまでの野球人生で一番スムーズに、身体の横を通過した気がした。ボールが触れた瞬間、確信を覚えた。そのまま綺麗に身体を回転させて振り抜く。打球は高々とライトへ飛んでいき、そのままスタンドに吸い込まれた。


「ホームラン! 逆転ツーランホームランです! 一年生にして強打の名門クリーンナップに座った宗忠晴が鮮烈な甲子園デビューを果たしました!」


 どこからともなくそんな実況の声が聞こえる。三塁側アルプスからは割れんばかりの大歓声が湧き起こった。ベンチのメンバーも皆大声で手を叩いて喜んでいた。皆が自分の出した結果に歓喜している。自分の求めていたものが正しくそこにはあった。


 晴れやかな気持ちでダイヤモンドを回る。ホームではヒデと一緒に、先にホームインしたキャプテンも待ち構えていた。


「サインはミスってたけど、ナイスバッチだったし今回だけは不問にしてやるよ。次は間違えんなよ?」


 キャプテンはそう言って頭をクシャクシャ撫でる。


「お前……お前すごすぎやろ! ナイスバッチ!!」


 ヒデもみんなと一緒になって背中をバンバン叩いてくる。チャンスで回る打席ではなくなったことで、少しはヒデの肩の荷は下りただろう。それに、逆転したことで、自分のミスが負けに直結するかもしれないという悪いイメージも消えたに違いない。自分が良い結果を残すことで、間接的にヒデのことも救うことができたのだ。


 ベンチに帰ってメンバーとハイタッチを交わしていく。監督の元に行くのは少し抵抗があったが


「さっきのはバントだったんだがな。次は間違えんように」


 そう言って苦笑いしながらもハイタッチを交わしてくれた。


 自分はそのことにすっかり安心して、そのままベンチの端まで行ってしまったので、全く気づけなかったのだ。


「諸君らに見えている以上のことを考えて、サインは出しているからね」


 その後監督が、誰にも聞こえないような声量で、そんなセリフを独りつぶやいていたことを。そして、自分の後方で打席に向かうヒデの口元が、先ほどまでよりずっとキツく噛み締められていたことを。


 その後、結局六番から八番までは三人で抑えられ、得点は二点止まりだった。もしも自分がサイン通りにバントしていたらどうなっていただろうか、と頭の中で自問して、きっと得点には繋がらなかったことだろう、と自答する。結果オーライ、という言葉が頭の中で免罪符のように輝いていた。


 それ以降は、周囲の下馬評を大きく覆し、試合は両投手の踏ん張り合いの様相を呈していた。互いにヒットを打ち、チャンスは再三作るものの、ここ一番で両投手が渾身の投球を見せ、いずれも一歩も譲らない、手に汗握る展開となっていた。


 七回終わっての自分の打席は、三打数三安打二打点で一本のホームラン。SN砲の呼び声そのままに、最高の結果を残していた。また、守備でも四回に、一、二塁間を抜けそうなライナーをダイビングキャッチするファインプレーを見せ、二アウトながらランナー二、三塁だった味方の窮地を救った。まさに大車輪の活躍を見せていた。


 対してヒデは、初回のエラーによる動揺が完全には取れなかったのか、七回まで終わって三打数のノーヒットだった。


 七回終了時点で二対一。天京高校一点リードの状態で、勝負は終盤八回表。これまで粘りの好投を続けてきた相手エースが降板し、二年生投手がリリーフピッチャーとしてマウンドに上がった。右投げサイドスローの変則的なフォーム。特に左打者からは非常に球が見にくい、打ちにくそうな投手だった。


 その回は七番打者から始まった天京打線だったが、呆気なく三者凡退。こちらが一点リードしているにも関わらず、終盤に来て現れたかなりの難敵に、嫌なムードが漂い始める。その流れはこちらの守備にも伝染した。

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