七回表.

 今日の天気は少し曇りだった。しかし連日の猛暑のことを考えると、気温がそこまで上がらないこういった気候の方がいいのかもしれなかった。実際、カンカン照りだった前日の本戦第二試合では、一人熱中症で途中交代した選手もいたようだ。


 夏の甲子園は一回戦が始まって今日で三日目。天京高校は今日の第四試合、十五時から成駒工業高校と対戦する。ともに強打で勝ち上がってきた名門同士の対戦として、一回戦の中でも特に注目のカードになっているようだった。地区大会決勝戦にて鮮烈なアベックアーチを放った天京のSN砲は、すでに複数の雑誌などでも取り上げられていた。


「さあ、今日もやったるで!」


 ヒデがやたらと張り切った声を出して全体アップの空気を和ませる。先ほど早めに今回のスタメンが発表され、宗、中島の一年生コンビは再び揃い踏みでスタメン出場だった。特にヒデの方は、前回の七番から一つ打順をあげ、六番打者として自分のすぐ後を打つことになっていた。だからこそのこのハイテンションだろう。


 もちろんヒデだけでなく、自分を含めたチーム全体としても、開会式の時から続くお祭りのような異様な雰囲気には少なからずあてられていたと思う。全国の高校球児が憧れる聖地に、自分たちは立つ権利を与えられた。時間が経つほどにそのことが実感される。


 たくさんのテレビカメラが見える。試合が終わるたびにブラスバンドの金管楽器たちが出たり入ったりする。球場内のテレビには目の前で行われている試合が映されている。この映像がそのまま全国に配信されること、そして自分たちもこの映像の中でこれからプレーするということには、やはり不思議な高揚感があった。


 それらがそのまま自分のプレッシャーに直結しないというのは、数ヶ月前からすれば信じられないことだった。今となっては、早くあのダイヤモンドで自分の活躍を見せつけたいと、試合を心待ちにしているくらいだ。


「おっし、じゃあソウ足広げろ。押してやるから」


 直前の練習には、試合に出れない控えの選手がサポートに入ってくれている。自分のストレッチの相手はなんと、金田先輩が買って出てくれた。


「まさかお前がここまでやるとはなあ。改めて、お前には敵わねえよ」


「ありがとうございます。でもそんな大したことないですから」


「謙遜すんなよ。腹立つから」


 冗談半分、本気半分といった調子で金田先輩は笑った。


「俺の分まで思いっきり暴れてこい」


「はい。ありがとうございます。先輩の分まで、ちゃんと結果を残してきます」


 自分の背中を押してくれる金田先輩の手が止まる。まじまじとこちらを見て、少し腑に落ちないような顔をしていた。


「お前さ、前から試合前にも、そんなに自信満々なやつだったっけ?」


 ぎくりとした。これまで試合前に青白い顔で控えていた奴が、今では先輩の問いかけに間髪を容れずに「活躍します」と宣言しているのだ。疑われるのも無理からぬことだ。


「最近なんか調子良い気がするので。自信はやっぱりないですけど」


 そう言ってお茶を濁すように笑う自分に、金田先輩はそうか? と言って笑った。


「流石に自信がないようには見えないけどなあ。まあせっかくの舞台なんだ。ちゃんと自分のために楽しんでくるんだぞ。……俺は去年は緊張しっぱなしで、結局あんまり良い思い出作れなかったからなあ」


 自分のために楽しんで、そう他ならぬ金田先輩に言われてほんの少しだけ苛立ちを覚えた。自分は彼らのために結果を残そうと、これまで頑張ってきたのだ。みんなが喜ぶ結果を掴めば、それが巡り巡って自分の喜びになるのだ。金田先輩は何をもってそんな益体もないことを言ったのだろう。


 天京野球部員たちが練習から帰ってくると、すでに第三試合は佳境に入っていた。両校の必死の応援が球場の外にも聞こえてくる。次は自分たちがあの声援を受ける番なのだ。必ず勝って、みんなの期待に応えなければならない。


「あ、ソウ君よっすー」


 甲子園の高い壁の近くまで来たところで、せっせとブラスバンドの機材の運び込みを手伝うメグさんと出会った。この炎天下で大荷物を運ぶ面々は皆Tシャツ全身に汗をかきながら作業を進めていた。


「お疲れ様です」


「ついにだね。てか、まさかほんとに甲子園に連れてきてくれるなんて、お姉さん思ってもみなかったな」


 相変わらず大人ぶって話そうとするメグさんに思わず笑ってしまう。


「マックにはいつ連れて行ってくれるんですか?」


「うーん、ウチももっといけるかもみたいな欲出てきたし、いけるとこまで引っ張ろうかな。ってことで、ウチらが勝ち進んでる間はお預けってことで。グレードアップはもうできないかもだけどねー」


 メグさんはそう言ってからからと笑った。


「グレードアップさせられるように頑張りますよ」


「あはは。言うねーSN砲の片割れは」


「なんか半人前みたいな言い方やめてください。でも、期待されて試合に出るからには、出られなかった先輩方や応援してくださる人の分まで、きっちり結果を出さなきゃなので」


「なるほど。ソウ君はほんと責任感強いね。でもなんかウチが期待してる頑張り方とはちょっとズレてる気がするなあ」


 メグさんはクスクス笑いながらも少しまじめな顔になってそんな不思議なことを言った。なんとなく先程の金田さんとリアクションが重なって不安な気持ちになる。


「ズレてるって、何がですか? 俺の言ってること、何か間違ってます?」


「うーん、ウチもバシッと言葉にできるわけじゃないんだけど、なんとなく、ね。だってさ。ウチ、別に天京が次の試合で負けちゃっても別に良いかなって思ってるもん」


 さらりとメグさんの口から出たセリフに思わず絶句する。


「もちろん甲子園に来れたからもう満足ってことじゃくてね。これまでの試合だってウチはずっと同じ気持ちで見てたよ?」


 なんだかメグさんに裏切られたような気持ちだった。先ほどから感情を不用意にかき回されてばかりだ。目の前で笑うマネージャーが何を考えているのか、全く分からない。こちらから必死で何か反論しようとした時


「おーいメグー、ちょっと手伝って!」


 後ろからメグさんを呼ぶ声が聞こえた。


「あ、はいはーい! じゃあソウ君、次の試合も頑張って! 応援してるから!」


 先ほどとは矛盾するようなことを言い残して、メグさんは応援団のお手伝いに去っていった。残された自分はしばらくぼんやりと雑踏を眺め、謎かけのようなメグさんの言葉を頭で反芻していた。しかし自分には難し過ぎて、試合までの短い時間で答えを得ることはできなさそうだった。


 一度頭を振ってモヤモヤを頭の片隅に追いやり、皆の待つ試合待機場所へと駆け足で向かった。


「ああ、忠晴ここにいたのね。お疲れ様」


 球場傍で待機していると、応援用のTシャツに身を包んだ母がやってきた。宣言通り父の遺影を胸に抱えている。父は四角い枠の中から、相変わらずの仏頂面のままこちらを見据えていた。もっと笑顔の写真はなかったのかとも当時は思ったが、これはこれで父らしいのかもしれない。


「ああ、うん」


「甲子園で野球ができるなんて滅多にない機会なんだから、思いっきり楽しんでやってきなさいな」


「ありがとう。頑張る」


 母は中学のあの時よりも少し老けたように見えた。単純な一年の歳月以上に、あれから色々あったからだろう。


「もう中学生の時みたいにみっともなく負けたりはしない。絶対勝つから」


「あら、なんだか自信満々ね。でもね」


 母はそういうと少し言い淀んだ。


「いえ、やっぱりなんでもないわ。試合楽しみにしてるわね」


 何かを自分の中で納得させたように、表情を切り替えて楽しそうに言った。母との、いや、先ほどから出会う人々との会話それぞれの中にどこか引っ掛かるような感情が自分の中に残ったのが気になったが、今度は聞かなかったふりをして頷いた。それを見て笑顔になりながら、母はふと空を見上げた。先ほどまでかかっていた雲はすでに消え、徐々に青空が広がり始めている。


「お父さんも忠晴の勇姿、見たかっただろうね……」


「まあ、でも仕方ないことだったから」


「忠晴が高校でも野球をきちんと続けてくれるのか、なんて色々悩んでたお父さんに見せて安心させてあげたかったなあ」


「悩んでたって……俺のことで?」


「そうよ」


 当時を思い出しているのか、母は目を細めた。


「忠晴に自分の伝えたいことがきちんと伝わっているだろうかって、ずっと悩んでいたんだもの。あの試合が終わった後からは特に、ね」


 初耳だった。あの当時は自分の気持ちの整理で手一杯で、父のことを見る余裕などなかったから仕方なかったのかもしれないけれど。


「お父さんが俺に伝えたかったこと……」


「私にもわからないけどね。お父さん、口下手だったじゃない?」


「それは……そうだね」


「大事な試合の前になる度に、忠晴の顔色がどんどん悪くなっていくのを見て、やっぱり思うところはあったんじゃないかしらねえ。私だって、何回もトイレでえづいてるのを見て、心配だったしね」


「……知ってたの?」


 そのことをうまく隠し通せていると思っていたのは残念ながら自分だけだったようだ。母は預言者、といういつかのマレビトの言葉が不意に頭をよぎる。


「何年あなたのこと見てきたと思ってるの。バレないようになんて考えてる余裕なんてきっとなかったでしょうに、こっそり抜け出して」


 呆れたように腰に手を当てる。やっぱりこの人には敵わない。


「私が看病しにいくのはお父さんに止められていたんだけどね」


「え?」


 お父さんも知っていたと言うのもまず驚きだったが、助けに入ることを止めていたというのが驚き、というか不思議だった。父はいつも体調のケアには自分以上に気を遣ってくれていた印象があった。そんな父が自分の試合前の不調をあえて見過ごしていたというのだろうか。


「なんでなのかは私も結局聞けなかったけどね」


 でも今は大丈夫そう。と母は唐突に自分の背中をバシンと叩く。気合を入れてくれたのだろう。ただ今まであんまりやられたことがなかったから少し驚いた。


「はい。今のでお父さんもちゃんとついたから。あなたなりにきちんと頑張ってきなさい」


 今のがお父さんを自分に憑ける動作なんだったとしたら笑えない。けれどとにかく、二人の期待も背負っていることが改めて認識できた。


「絶対に結果を残してくる。期待して待ってて」


 あらゆる期待を背負った上でこんな大口を叩けてしまえる。なんて清々しいことなんだろう。これまで足枷だったそれらは、今となってはカンフル剤だ。自分は今、間違いなく幸せだ。マレビトが今の心を読んでいたなら実験成功を確信して大層喜んだことだろう。


『あれ? そういえばマレビトは甲子園には来てるのだろうか? 今まで素振りしてるところでしか会ったことないけど、遠出とかできるものなんだろうか?』

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