六回ウラ.

 決勝戦が行われたその日の夜。普段よりもかなり遅くなったけれど、習慣通りいつもの場所に来ると、マレビトはすでにベンチに腰掛けていた。


「勝ったよ」


 どうせお見通しなのだろうけど、手短にそう報告する。


「みたいだね。おめでとう」


 マレビトは楽しそうにそう言いながら、こちらに何かを投げてきた。反射的にキャッチし、手の中のものを見る。コンビニで買ったらしいゆで卵だった。


「ささやかなお祝いだよ。受け取りたまえ」


 マレビトから何かをもらうことは初めてだったので少し面食らう。図らずも先手を取られてしまった。


「いや、俺も同じの買ってきたんだけど」


 そう言いながらポケットからゆで卵を取り出す。マレビトは目を丸くした。


「おや、これはこれは。慣れないことをするもんじゃなかったな。結局交換したみたいになってしまった」


 まあいただくよ。とマレビトは自分から卵を受け取り、ベンチに座った。自分もその反対端に腰を下ろす。お互いバリバリと殻を剥く作業の後、しばらく無言でゆで卵を食べた。咀嚼音の他には遠くの方で蝉が鳴いているのが聞こえるだけの時間だった。


「今日はいつもより来るのが遅かったね? 何かあったのかい?」


「ああ、祝賀会があったからだ」


「シュクガカイ? なんだいそれ?」


「あー……。優勝を祝ってみんなでわいわい騒いでたってところかな」


「なるほど祝祭か。大事なことだね」


 マレビトは朗らかに笑う。待たされたとかそういったことはまったく気にしていないようだ。浮世離れし過ぎていて今まで気にもならなかったけれど、これほど時間に自由がきくのは普通の高校生としてはありえない。


「幸せそうで何よりだ」


「……ああ。ありがとう。マレビトのおかげだと思う」


 マレビトの言葉に呼応して、自然に感謝の言葉が出た。もっと言い出すのに苦労するかと思ったのに、自分でも驚くほどあっさりしていた。改めて自分がマレビトの力を心の底から受け入れつつあるのだということを自覚した。


「それはそれは。俺も君をサンプルに選んだ甲斐があったというものだ」


 マレビトは満足そうに言いながら夜空を見上げる。どこか挑戦的な表情に見えたのは気のせいだろうか。


「では実験の掘り下げのために、色々聞いてみようかな。野球の試合では、勝利した選手にヒーローインタビュー? というものがあるんだろう? それだと思って答えてくれればいいさ」


 そう言ってマレビトはおどけた調子でマイクをこちらに向ける仕草をした。


「えーテステス。では本日のヒーロー宗選手。自分の打席で勝負を決めた時、一体どんな気持ちだったんだい?」


「……やっと挽回できたなあ、と思った」


 半ば聞かれることを想定していたから、これもすんなりと言葉が出てきた。


「挽回?」


「父が大事な大会に負けた直後に死んだことは話したっけ?」


「そういえばそうだったね」


「……自分はずっと、やり直したかったんだと思う。その試合を。過去に戻るなんて無理だから絶対できないことなんだけど。でも今日、それがやっと叶ったような気分だった」


 その試合。中学生夏のインターハイ県予選決勝の日。天気は晴れだった。試合開始は十五時からで、午前中軽く近くのグラウンドで練習をした後、シャトルバスで球場まで向かったのを覚えている。


 試合開始直前に、ベンチへと向かう自分を父と母が最後の見送りに来た。正直鬱陶しかった。


「水筒ちゃんと持ってる?」


「持ってる。大丈夫」


「熱中症には気をつけて、こまめに水分とるんだよ」


「わかってるから」


 色々と気を回す母とは対照的に、父はいつも通り寡黙だった。心配そうに色々と息子の体調を案ずる母と、顔色が悪い上に、さっさとこの場を離れたそうにしている自分とをじっと見つめていた。


「忠晴」


 母がひとしきり自分を心配し終えた後、父が重い口を開く。


「何?」


「お前が積み重ねてきたものは、他の誰よりも多い」


「……」


「だから不安に思わなくても、結果は自ずと出る。信じてやってこい」


「……うん。分かった。その、ありがとう」


 しまったな、と思った。最後の最後でついぎこちない答え方になってしまった。この大会が始まって以降、試合前にトイレでえづくことが少しずつ増えてきていたことは、親には内緒にしていた。これまでボロを出さないように注意を払っていたのだが、先程の父の言葉で、またどうしようもない吐き気が身体の奥底からせり上がってきていた。


 込み上げてくる幻の嘔吐感の原因が"積み上げたものの多さ"であることには、当時の自分もなんとなく気付いていたように思う。だからこそ、それを大事な信念として掲げ、息子に伝道する父にだけは、不調を悟らせるわけにはいかなかったのだ。


 そうした一幕があった後に始まった試合は、息詰まるような投手戦になった。味方に先制点を許した後、自分の逆転二点タイムリーが出た以降、スコアボードにはずっとゼロが並び続け、スコアは二対一のまま八回ウラになっていた。


 自分の定位置はその頃もファーストだったのだが、この試合はメンバーの関係で、三回途中からチームメイトのグローブを借りて、レフトの守備についていた。日は徐々に傾き、西の空は綺麗な夕焼けに染まりつつあったが、そんな風流なことに注意を向けている余裕はその時の自分にはなかった。


 身体が思うように動かない。初回はなんとかチャンスで打てたけれど、それ以降の打席ではいいとこなしだった。凡退する度罰ゲームで身体に重りがつけられていくかのように、回を追うごとに自分の動きは悪くなっていた。


 レフトから試合を見つめる中、その回の自分のチームはじわじわとピンチを広げていた。投手のコントロールの乱れからランナーが溜まり、ワンアウトランナー一、二塁。一打で逆転される状況だった。心臓は早鐘を打って懸命に酸素を身体に送ろうとしているのに、やはり息苦しい。


『俺のところに飛んできませんように』


 そんな情けない考えが、ぐるぐると際限なく頭を回っていた。


「レフト!」


「えっ?」


 死刑宣告のようなチームメイトの声とともに、痛烈なゴロが、内野の間を抜けて、自分の目の前に飛んでくる。


 なぜ自分のところに打球が来てしまったのか。なぜもっと早く真っ正面から飛んでくる打球に反応できなかったのか。なぜもっとちゃんと腰を落とさなかったのか。なぜファーストミットとはいえ慣れた自分のグローブで守備につかなかったのか。


 終わった後にいくつ「なぜ」を繰り返したところで、起こってしまった、残ってしまった結果は何も変わらない。白球は無情にも自分の股の下を抜けていき、スピードを落とすことなく転々と広い球場の壁際まで転がって行っていた。


 ボールを追いかけるその足ですら重かった。頭の中では誰にとない謝罪の言葉が、洪水のように溢れていた。視界はぼやけ、手足は妙な痺れに支配されていた。


 必死でボールまで辿りつき、内野にボールを返すも、すでにバッターは悠々と三塁に達していた。二点タイムリーエラー。これで二対三。ついにチームは逆転された。


 その後はピッチャーが二連続三振を奪って踏ん張り、最終回の裏の攻撃は一点ビハインドで迎えることとなった。


 最終回の円陣で監督が何を言ったのか、チームメイトが自分にどんな声をかけたのか、まったく覚えていない。ただ頭の中で呪文のように


『頼むから自分の打席まで回ってこないでほしい』


そう繰り返していた。もう無理だ。こんなにズタボロな状態で、ここから結果なんて残せるわけがない。


 しかし……野球の神様はどこまでも、どこまでも残酷だった。ツーアウトランナー満塁。一打逆転サヨナラの場面で、自分は打席に立つこととなった。


 名誉挽回のチャンスが来たなんてまるで思えなかった。緊張とプレッシャーに、申し訳なさの鎖まで加わった身体はもう満足に素振りすらできない。


 頭の中には「結果を出さないと」という言葉が呪いのようにガンガンと反響していた。相手投手すらまともに見えず、そこから放たれてくるボールなんて打てるわけがなかった。


 せめてバットくらいは振らなきゃ。そう思って構えるけれど、身体は金縛りにあったかのように微動だにしない。一球、二球、三球。自分の前をボールが通り過ぎていく。そして


「ストライク、バッターアウト! ゲームセット!」


 審判が声を上げた。そこが限界だった。気付けばバッターボックスで膝から崩れ落ちていた。


 夕焼け色に染まるバックスクリーン電光掲示板が目に入る。二対三。スコアボード終盤に刻まれたあの二点は、自分が相手にみすみす献上したものだ。その下に今さっき刻まれたゼロは、自分がその後何もできなかった証だ。そのどうしようもなく明白な結果を見て、言いようのないドロドロした感情が、目から涙として流れ出る。口から小さな震えるような謝罪の言葉として漏れ出る。


 耐え切れなくなって地面に視線を落とし、涙で湿った黒土を握りしめる。夏の日に焼けた土の匂いがした。相手チームの歓喜の声と味方の堪えるような啜り泣く声が耳に入って頭で拡声される。なんで今になって感覚が元に戻っているんだろう。どうして嫌なイメージのインプットだけはこんなにも周到なんだろう。


「ソウちゃん、立とう。整列だ」


 顔をあげる。副キャプテンをやっていたエースが、キャプテンだった自分に手を差し伸べている。彼の顔も涙でぐしゃぐしゃだった。


 なんでケンちゃんまで泣いてるんだ。今日の負けは全て結果を出せなかった自分のせいなのであって、彼が自分に怒ることはあったとしても、悲しむことなんてないはずなのに。そう思いながらもチームメイトに言われるままにふらふらと立ち上がり、相手チームに礼をする。


「ごめん。お父さん。結果、出せなかった」


 ベンチから引き上げて帰ってきた自分を迎えた両親を目にし、そんな言葉が口をついて出る。それを受けて父が何を言ったのかは……今となっては思い出せない。ただ、父の悲しそうな表情だけは数年たってもまだ目に焼き付いていた。


 たとえ多くを積み上げてきたところで、その努力が報われるとは限らない。そして、結果を出せないというのはこんなにも辛く、悲しく、周りまで不幸にしてしまうのだ。曲がりなりにも父と一緒に築いてきたこれまでの生き方が、この日を境にして完全に否定されてしまったような気がした。


 その日から父が旅立つ日までの数日の間、おそらく野球をやり始めてから初めて、日課の素振りをサボった。父はそれに対して何か言いたそうな顔をしていたが、結局咎めてくることはなかった。そして、その時の父の真意を知る機会はその後一生訪れなくなった。


「今日最後に満塁で打席に入る時、何もできなかったあの打席を思い出した」


 マレビトは珍しく静かにこちらの話を聞いている。浮世離れしてるこいつだからこそ、こんなにもすんなりと深い話までできるのかもしれないなと感じた。


「そしてホームランを打った瞬間、周りがドッと盛り上がった瞬間、みんなが心の底から喜んだ瞬間。あの試合に自分が忘れてきたものを、やっと取り戻せたと感じた」


 心の中を洗いざらいぶちまけたことで、改めてスッキリした気分だった。


「こちらから過去を見るのは色々と面倒だからね。大変参考になったよ。今の君は過去の忘れがたかった未練を晴らした。それ故に幸せを感じているというわけだね」


 あくまで実験者のような物言いでマレビトは自分の昔話を締め括る。


「さて、この力は今のところ、君に幸せをもたらしてくれているようだ。というわけで、聞くまでもないとは思うけれど、今後もこの力を使って引き続き幸せになっていってくれるかい?」


 無言で頷く。この力で結果を出すことに、もう何の迷いもなかった。それが覚悟なのか、依存なのか、そういったことを判断する思考も浮かばないほどに、自分はこの力を前提に物事を考えるようになっていた。


「よし、良い返事だね。あと大事なことをもう一点、今のうちに伝えておこう」


 マレビトは満足そうに言いながら付け加える。


「今君に与えている力はあくまで”貼り付けている”ような状態だ。実験失敗となった時のことを考えていつでも取り外しができるようにしている。でも、こういった状態にできる期間は限られていてね。その先も力を行使していくのであれば、力を君に”埋め込む”必要がある。そうなると、もう取り外しはできない」


 うまくいっている時に、後戻りできなくなるタイミングが存在することを伝えておこうということだろう。やはりこいつはずる賢い。


「もちろん今すぐ結論を出せとは言わない。この夏が終わるまで。八月が終わるまでには決めておいて欲しい」


 本当は今すぐにでも、力を"埋め込んで"欲しかった。もうこの力なしでは自分が野球をやっていく自信が持てそうになかったからだ。だが、八月末なら甲子園での大会がちょうど終わった後だ。そこで改めて伝える方がキリがいいだろう。マレビトの言葉に再び静かに頷く。


「うん。俺から言いたいことはこれで全部だ。実験がうまく進んでいるようで気分もいいし、今日はもう帰ろうかな。君も今日はゆっくり眠るといい。明日からまた、次なる戦いへの準備、なんだろ?」


 そうだ。次の戦いは、父が立てなかった夢の舞台、甲子園。そこで結果を出さなければいけないのだ。周囲のみんなのために。そう、みんなのために。


「いや、今日も素振りだけはするよ」


「ふうん? まあ水を差すようなことは言わないよ。好きにすると良いさ」


 マレビトはルンルン気分を隠そうともせず、スキップしながら土手の向こうへと行ってしまった。奴が消えてしまうのをなんとなく見送ってから、黙々と日課の、今となっては意味があるのか分からない素振りを始める。過去を清算した話をできたからか、自分もとても気分が良かった。


 夏はまだまだこれからが本番だ。宗忠晴が甲子園に立つ日は、もう目の前に迫っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る