五回ウラ.

 背番号をもらったあの日からほぼ一ヶ月が経った。梅雨のジメジメとしけった暑さは徐々に夏のそれに変わり始めていた。いつも通り、夕食後に自主練に向かうと、今日もマレビトは自分より先に定位置に来ていた。


 夏の県予選はすでに始まっていた。マレビトは河原に来たり来なかったり、相変わらず自由気ままな感じだったけれど、試合があった日に関しては、必ず自分と話に来ることにしているようだ。


「いやはや、今日も大勝おめでとう」


 マレビトは先ほどまで読んでいたらしい本から顔をあげ、にこやかに祝福した。今日は県予選準決勝があり、我々天京高校は、西垣工業高校に7対1で快勝していた。


 次がいよいよ決勝戦。去年の夏、今年の春と、いずれも決勝で激戦を繰り広げた県下二強のもう一角。海邦高校との対戦だった。


「あぁ……どうも。何を読んでるんだ?」


「これかい? 野球のルールブックだよ。君の観察をする手前、いい加減ちゃんと知っておこうと思ってね」


 マレビト自慢げに言って胸を張っているが、逆に知らずにこれまで観察していたらしいことに呆れる。そういえばこれまで野球の話をしていて、どこか噛み合わないなと思った場面も何度かあった。


「色んな本を取っ替え引っ替え読んで勉強してるんだけど、よく分からなくてね」


 と不満たらしくぶーたれながら、マレビトは顔をしかめて再び本に目を落とす。目を細めて首を捻りながらページを捲る姿は、まるでスマートフォンを前にした老人みたいだった。


「ストライク三個で一個のアウト、三個のアウトで攻守交代、これをチェンジという。攻守の機会が全部で九回分あるのも、まあ三の倍数なのでギリギリ譲歩するさ。なのに、フォアボール? の時だけボールが四個必要なのはなんでなんだい? なんでボール三個で出塁にしないんだ?」


「知るか。そういうルールなんだろ」


「ルールには必ずそれを定義するに足る、正当な理由が必要だろう? それが分からないと言ってるのさ。君たち人間が"三"という数字に並々ならぬこだわりを見せているのは知っている。世界三大なんちゃらだとか御三家だとか、色んなところに三が出てくるからね。だから三振という概念はまだ理解できる。ベースが一塁から三塁まであることも、まあその流れなんだろうさ。でもそこまでやっておきながら、なぜ全てを三で統一しないんだい?」


 いくらマレビト独自の理屈を展開された上で聞かれたところで、ルールだからとしか答えようがなかった。自分からは納得のいく答えが得られないと分かったらしいマレビトは、規則性の美しさを軽視しているだとか、均一化されてないなんてあまりに不完全だとか、再び本に目を落としながらぶつくさ不平を垂れていたが、「あ!」と不意に何かを思い出し、顔をあげてこちらを睨みつけてきた。


「そういえば君、いつぞやは俺の間違いを指摘しなかったろ」


「間違い?」


「ちゃんとこの本に書いてあったぜ。ランナーがホームベースに帰った回数分だけ得点が入るんだって」


「そうだよ。それがどうかした?」


「てっきりボールを遠くへ飛ばしたら高得点なんだと思っていたんだよ。なんで俺が誤った情報を言った時にすぐ訂正してくれなかったんだい? たとえ君の方にそのつもりがなかったとしても、これは俺を騙したのとほとんど同義だと思うけどね」


「ああー……」


 そういえば最初に出会った時にこいつがそんな話をしていた気がする。騙されたと主張しているけど、その時だって自分で勝手に間違えて、こちらの話も聞かないままに勝手に納得したんだろう。理不尽が極まっている。


「たくさん飛ばせば高得点なのは、野球じゃなくて"ゴルフ"っていう競技なんだろ?基本的にこの世界のことは、がばっと大雑把にしか理解してないんだから、細かい部分のフォローはそっちでちゃんとしてくれないと。まったく人間のやるスポーツ? ってやつは多種多様なくせに、たまに似たような代物があってややこしいことこの上……ってなんだいこの振動音は」


 なおもマレビトのよく分からない愚痴が続きそうだったタイミングで、不意にポケットで携帯が振動し始めた。画面を見ると実家かららしい。


「もしもし忠晴。元気でやってる?」


 出てみると、声の主は母だった。父はもういないし、祖父は今ほとんど寝たきりで現在は施設にいるから、母以外こちらに電話をかけられる人などいないのだが。


「まあ元気だよ。どうしたの?」


「うん。この前送ってくれた背番号の写真、プリントアウトして仏壇の前に飾っておいたよ。……お父さんも喜んでると思う」


「……そうかな」


「あと、今年の八月が初盆だけど、どこかで帰って来れる?」


「分からない。もし甲子園まで行けたら、その試合日程次第」


「そっか、そうよね。また日程決まったら教えてね。お母さん、お父さん連れて応援行くから」


「連れてって……遺影持ってくるってこと?」


「当たり前じゃないの。忠晴が甲子園でプレーしてる姿なんて、絶対見たかったに決まってるんだから」


「やめなよ、なんか恥ずかしい」


「何言ってんだか。どうせあんたには見えないんだから、気にせずプレーしてなさい。それじゃ、また日にちわかったら連絡ちょうだいね」


 じゃあね、と言って電話は切られた。マレビトは気付かぬうちに自分の隣まで来ていた。


「今のが預言者の母だね」


「預言者ではないけど、母だよ」


「ふうん。話を聞いてる限り、お父様は最近死んだのかな?」


 不謹慎という文化は"大雑把な理解"の中に含まれていなかったらしいマレビトは世間話みたいに気軽に聞いてくる。まあ、腫れ物に触るかのような扱いよりはマシかなと思った。


「去年の夏。交通事故で即死だった」


「へえ、それは不幸だったね」


 実際不幸だったのだろう。仕事から車で帰る途中、酒気帯び運転をして対向車線から飛び出してきた車に正面衝突し、相手のドライバー共々そのまま帰らぬ人となったのだから。


「ちょうど、自分の大事な試合の直後だったんだ」


「大事な試合って?」


「中学夏のインターハイ、県の決勝戦。事故で親父が死んだのはその三日後だった」


 その日は父が、決勝で敗れて落ち込んでいた自分を励ますためか、近くのドーム球場で行われるプロ野球の試合に連れて行ってくれる約束していた日だった。


 朝仕事に向かう前に「俺が帰るまでに素振り五百本は済ませておくように」と仏頂面で言ってきたのが、結局自分が聞いた父の最後の言葉になってしまった。父と自分の関係らしいといえばそうかもしれないけれど、これっきりなのだと分かっていれば、やはりもっと色々話したかったなとは思う。


「馬鹿なことだけど、今でもたまに考える。県大会で勝ってたら、父は死なずに済んだんじゃないかって」


 ぼんやりと空を見上げた。


「自分が決勝で不甲斐ない負け方をしたから、野球の神様が父を奪って行ったんじゃないかって」


「試合に負けたから父の命を奪う、か。なかなかな高レートだね。そんな悪魔の契約の真似事をして遊ぶ神様もいるのか」


 よく分からないことを言いながらマレビトも空を見上げる。夜だと言うのに気にも留めない気の早い蝉の騒音が遠くから微かに聞こえた。ここじゃないどこかから父が見ている気がする、とかセンチメンタルなことを言うのは柄ではないけれど、今日の空はやたらと星が綺麗に光っている気がした。


「どんな人だったんだい?」


「うーん、厳しい人、かな」


「まあ太古の昔より父親というのは厳しいものさ。地震、雷、火事、親父って言葉があるらしいからねえ」


「あとは……自分よりもずっと、野球が好きだったんだと思う」


 父自身も小学生の頃からずっと野球をやっていたのだと母から聞いたことがあった。一時はプロも目指していたらしい。強豪高校でレギュラーとして活躍はしていたけれど、在学中には甲子園への出場は一度も叶わず、スカウトからも声はかからなかった。それでも大学へ進学して、そこでも野球を続けたが、一年生の頃から怪我に悩まされ続け、結局ほとんど試合にも出れないでいたらしい。


 プロ入りの夢を果たせないまま大学を卒業した父は、就職した先でも働きながら社会人野球をバリバリ続けていたようだ。その職場で今の母と出会って結婚。その後は仲間達とたまに草野球をしていたり、自分が生まれてからは少年野球チームの指導者として、休日は全て野球に捧げたり、ずっと野球に人生を捧げ尽くしているような父だった。


「再三の機会に結果を出せず、期待して指導した子供が活躍する姿も見れないまま、結局若くして死んでしまったというわけか。さぞかし不幸だったことだろうね」


 部外者で不躾なマレビトが父のこれまでをそんな風に言ってまとめる。言いようのない怒りが一瞬湧くが、その中でふと疑問が生まれた。


 高校でも、大学でも思ったような結果が出せず、苦しい思いをしたはずなのに、どうして父は大人になっても全力で野球に関わり続けていたのだろうか。野球が好きだったからだ、というただそれだけで説明できるものではない気がする。


 自分だったらそんな風に野球と関わることができるだろうか。何度も失敗して、諦めて、挫折をして、結果が出せなくて、それでもまだ野球というスポーツに打ち込めるものなのだろうか。今は……よく分からない。父の仏頂面を脳裏に浮かべながら、これまで半ば盲目的に信じてきた父の言葉を思い出す。


『結果を出すことにとことんまでこだわって、毎日を大事に積み重ねていく。その努力は決して自分を裏切らない』

 

 結果を出すことにこだわるほど、不安も恐怖も大きくなっていった。


 毎日を大事に積み重ねてきたはずだったのに、それらは自分を裏切った。


 そして、裏切られた代償は大きかった。それこそ大切な人の命くらいに。


 なんだよ。嘘ばっかりじゃないか。


 でもその嘘は自分にとっての呪いだった。すでにそういった父の数々の言葉はいなくなった後でもなお、自分の身体に深く染み込んで取れないものになっていた。"結果を出す力"を手に入れて、その必要性の無くなった今でも、チームの練習には一切手を抜いていないし、毎日の素振りも欠かしてはいない。


 常に全力で、常に考えながら、日々の練習をこなしていることは昔も、父の目のなくなった今も変わりない。継続は力なり。そういう風に言えば聞こえは良いけれど、力を手に入れてしまった今となっては、こんなもの父にしごかれてきた日々が惰性のままに続いているに過ぎない。


「こんな不思議なルールだらけのスポーツが好きだなんて、君のお父様も変わり者だったんだねえ。四球なんてけしからんと、一度でも思わなかったんだろうか」


 マレビトはため息をついた。お父様も、ということは自分のこともどうせ変わり者だと思っているのだろう。心の中で「お前に変わり者だなんて言われたくない」と全力で返した。


「まあでも父親が変だってのは、こっちも同じようなもんか。お互い変わった父を持つと苦労するね」


 そんなことを言ったマレビトの表情から、初めて彼自身のどこか人間らしい感情が見えた気がした。勘違いだったかもしれないが、その時の彼は少し寂しそうに見えた。


「まあ、死んだお父様の分まで頑張ってきなよ。君はまだ生きていて、野球において今や無敵の存在なんだし。決勝での活躍とコウシエン? での勇姿、俺も楽しみにしておくとするよ」


 そう言うとマレビトはヒラヒラと手を振りながら姿を消した。


 改めて空を見上げる。中三の夏のあの時には、今はもう戻ることができない。でも次の決勝で結果を出せば、父がその生涯の中で立つことができなかった甲子園の舞台へ行くことができれば、それが少しでも父への供養になるのかもしれない。


 ノルマの素振り五百本は終わっていたが、百本追加で汗を流した。父の思いも背負って立つ。背中にまた大きな鉛が追加されたことを心の片隅に感じながら、その日は寮に戻った。

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