五回表.

 直接対決から一夜明け、天京高校野球部員は一軍二軍の全メンバー、及びコーチやマネージャー含めた部の全員がミーティングルームに集められていた。


 これから起こることは集められた全ての面々がわかっていた。夏の大会、背番号の発表。つまりベンチ入りメンバーの発表だ。


「順に呼んでいくから背番号をもらいに来るように。まず……背番号1番、桐生」


 監督が順に名前を呼んでいく。そして直接対決の決着は、実にあっけなく訪れた。


「3番、宗」


「はい」


 選ばれるのは半ば分かっていたことだったが、まさかレギュラーメンバーにまで抜擢されるとは思わなかった。三年生でファーストを守っていた金田先輩ではなく、自分が三番をつける事になるとは。


 大きく「3」と書かれた布きれを、ぎこちない動きで受け取る。周囲は少しざわざわしていた。天京高校において、一年生からレギュラーメンバーとしてベンチに入るというのは、歴代を見ても珍しいことだ。


 席に戻るまでの間、ヒデの顔は怖くて見れなかった。何もここまで大勝ちする必要などなかった。ただベンチに入ることができれば満足だった。そんな不遜極まりない考えが心を巣食う。


「10番、関。11番、田丸。……」


 淡々と監督の読み上げは続いていく。ふと視線を少し左に向けた瞬間、同じ列の向こうのほうに座っていた金田先輩とバチっと目が合ってしまった。向こうも目線に気づいたらしい。こちらに向かって寂しそうに笑みを浮かべてくる。慌てて視線を前に戻した、その時だった。


「19番、中島秀人」


「え、は、はい!」


 ヒデの名前が呼ばれた。部室はまたもザワザワした。二人目の一年生選出。直接対決に勝ち負けはつかなかった。ベンチ入りを賭ける、という意味では勝負は引き分けになったのだ。


『良かった』


 心の底からそう思った。これでこの夏はヒデと一緒に戦える。思ったことが純粋にそれだけならば、どれほど清々しい物語だったことだろう。だが、残念ながらそうではなかった。


『自分のせいでヒデが落ちる、ということはなかった』


 そんなことでホッとしている自分が確かにいた。……なんて傲慢な、上から目線な考えだろう。我ながらゾッとする。


 名前を呼ばれたヒデは大声で「ありがとうございます!」を室内に響かせ、勝ち取った19番を大事そうに持って席に戻っていった。メグさんも隣のサヤさんと一緒に困ったやんちゃ坊主を見るような微笑ましい目線でヒデのことを見ていた。なんとなくいい気はしなかった。


「20番、朝倉。以上」


 読み上げおわった監督はそこで静かに咳払いをしてさらに続けた。


「この夏は今呼ばれたメンバーで戦っていく。だが、戦うのは二十人だけじゃない」


 好々爺の面持ちで集まった部員を見渡す。


「私はベンチに入れなかった諸君の頑張りもよく知っているつもりだ。特に三年生。これまで厳しい練習に耐えて、よくぞここまで私に着いて来てくれた。できることなら諸君ら全員に甲子園の舞台に立つ権利を与えたかった……」


 優しく染み入る言葉にベンチにすら入れなかった三年生が嗚咽を漏らす。その中には……金田先輩の姿もあった。心臓がキリキリと痛む。先輩は最後の夏に、結果を出すための舞台にすら立つことすら叶わなかったのだ。自分がその席を奪ったせいで。


「だが、勝負は勝負。メンバーを選ぶ必要がある以上、勝つための選択を取った。不満がある者もいるかと思う。その時は遠慮なく私にぶつけてきてもらって構わない。私は全てに応える用意がある」


 静かに、ゆっくりと、監督は言葉を紡いでいく。本気で、死ぬ気で考えたのだろう。言葉の節々から滲み出る勝利への覚悟が伝わってくる。不満は選ばれなかったメンバー誰しもにあることだろう。だがそれが監督へ向かうことなどあろうはずがなかった。


 たとえどれだけ苦しんだ期間が長くても、勝負に真剣であればあるほど、そこに情状酌量の余地などない。結果を出すための舞台に立てるかどうかですら、それまで残してきた結果が全て。結果を出さなければ報われない。そんな自分の思想は間違っていなかった。しかしその一方で、間違っていて欲しかった、とも思った。


「私は誰一人欠けること無く、私自身を含めたここにいる全員の思いを背負って戦う。だから、みんなも、誰一人欠けること無く、全員で勝利を目指して欲しい」


 しばらくの沈黙。その後、キャプテンが振り絞るように、しかしよく通る腹から響く声を出した。皆もそれに続く。一番後ろに控えていた女子マネージャーのサヤさんとメグさんも、神妙な面持ちで選手とともに声を出していた。


 こうしてミーティングは終わり、今日は早めの解散となった。


「金田さん」


 ミーティングが終わった直後、居ても立っても居られなくなり、金田先輩の元に駆け寄っていた。


「ん? ああ、ソウか。おめでとうさん」


 去年、テレビの中の甲子園球場で、黒土に汚れながら躍動していた、これまで背番号3番を背負っていた先輩は、やはり寂しそうに笑ってこちらを振り向いた。


「えっと、俺、頑張ります」


「おう。頑張れな」


 何も考えず突撃してしまったから、そこから先が続かない。しばらく沈黙が流れた後、金田先輩がぽつりと口を開いた。


「去年の秋ぐらいからかな。結構なスランプだったんよ」


 こちらに話しているというよりも、自分自身に言い聞かせているようだった。自分の気持ちを噛み殺すように、ゆっくりと言葉をつむぐ。


「打つ時のフォームをいじったり、体力つけたり、色々試したんだけど、全然よくならなくてさ。結果を出さなきゃと思えば思うほど、前に進んでいかなかった。で、にっちもさっちもいかないな、と思ってたら、あっという間に春になって、お前が来た。いやあ打撃セレクションの時は本当に衝撃だったよ。あんな特大ホームラン、俺練習でも打ったことなかったもんな。それを見て……なんだろうな。自分の糸が切れちゃった感じがしたんだよな」


「……どういうことですか?」


「さあねえ」


 そんな言葉と困ったような笑いともに両肩に手が乗せられた。先輩と自分の間の地面に雫がポタポタと落ちていた。淡々と自らのことを語る金田先輩の目には、いつの間にか大粒の涙が溢れていた。


「ああ、今からどんなに頑張ったところで、どんなに足掻いたところで、俺ではこいつには勝てないんだなって、心のどっかでそう思っちゃったんだろうなあ。ぱっと出の後輩なんて打ちまかして俺がレギュラー勝ち取ってやるんだって気持ちが全く起こらなかった」


 金田さんの絞り出すような独白は続く。どれだけ積み上げても超えられない絶望的な壁。自分が誰かにとって、そちら側にいたなんて思いもしなかった。自分がマレビトの力を行使する論拠の一つを失ったような気がして、足場がふっと崩されたような嫌な感覚を覚える。


「だから、今日の結果を聞いた時に、悔しいなと思いながらもどっかで当然と思う自分もいた。競争意識も持てないこんな腑抜けた奴がベンチに入っても邪魔なだけだ」


 必死で自分自身に語り聞かせるような言葉を聞きながら、次から次へ溢れ出る金田先輩の涙をその目で追いかける。唇を噛み締めてその感情を必死で堰き止めようとする歪んだ表情をまぶたに焼き付ける。ひたすらに自らを卑下するような先輩の言葉を「そんなことはないです」と言い放って否定したかった。もしマレビトが現れなかったら、近くで輝く巨大な才能に打ちのめされて、こうなっていたのは自分かもしれなかったのだから。でもできなかった。今の自分がどんな言葉をかけたところで薄っぺらい同情の形になるだけだ。


 それに、打ちのめした側である自分がここでどんなに気の利いた慰めの言葉を言ったところで、先輩には何も届かないことも分かっていた。圧倒した側には何の落ち度もないのだ。結局は、圧倒された側が勝手に諦めた。それだけの話なのだ。


「お前に言うのだけはダメだろうなあと思ったんだけどな。我慢できなかった」


 すまんな。そう言ってまた寂しそうに先輩は笑う。対して自分はどんな表情を作れば良いのかすらわからなかった。


「監督も言ってたろ。勝つための選択をしたって。その結果としてお前が選ばれたんだ。誇っていい。俺のことなんて気にすんな。逆に気にしまくって調子崩すとか、そっちの方が俺は怒るからな」


「……はい」


「お前は選ばれたんだ。なら勝って来い」


「はい」


 最後は両肩を二度軽く叩かれた。自らの三年分の思いをそこに刻むように。ああ、また自分の背中には一つ重石が追加されたな。そう感じた。


「ソウ君おめでと」


 とぼとぼと去っていく金田さんの後ろ姿を見ながら、メグさんが声をかけてきた。なんとなくいつもよりもしんみりした様子だった。自分よりも一年長く、このチームを見てきた彼女にとって、選ばれなかった者がいることの意味合いは、きっと自分が感じているものよりもずっと重いのだろう。


「背番号一桁なんて大快挙じゃん。今日は赤飯だな」


 そう言って冗談めかして笑う顔にもどこか元気がない。


「ありがとうございます。えっと、ハンカチ要ります?」


「ん、もらう」


 メグさん自身も知らない間に涙が流れ出ていたようだ。視界の端に見えた、選ばれなかったチームメイトたちの姿が引き金になったのかもしれない。


「あそこの深田さんはね。ウチが去年入った時はほんとヒョロくてさ。声もめっちゃちっさくて、練習中とかもしょっちゅうコーチに気合が足りない! とか言って怒られてたんだ。それでも全然へこたれてなくて、毎日吐きそうになりながらいつもご飯おかわりしててさ。春くらいからかな。すっごく体も声もおっきくなってきたんだよ。この前の試合だってめっちゃ活躍してた。すごいよね」


 ぐすんぐすんと鼻を鳴らしながらメグさんが語る。


「石川さんは冬くらいに練習試合中、足怪我してさ。それまでレギュラーで活躍してたのに突然リハビリ生活になっちゃって、それでも今年の最後の夏には絶対間に合わせるからってめっちゃ頑張ってたんだ。……間に合わなかったわけだけど」


 まるで彼らの無念を代弁するかのように、メグさんは言葉を紡いでいく。


「でも、でもね。それでもウチは、今回ソウ君がレギュラーに選ばれて良かったと思ってるよ」


 メグさんがしきりにハンカチで目元を拭いながら俯いて話していたメグさんが、不意にまっすぐこちらに視線を向けてくる。自分の目が大きく見開かれ、心臓がバクバクと動くのを感じた。


「だって、ソウ君がずっと、もしかしたら三年生の先輩よりも、コツコツ頑張ってたの知ってるから」


「え?」


「先週の月曜日だったかな。バイトの帰り、何気にフラッと河原に行ったら見つけちゃったんだよね。ソウ君が素振りしてるの」


 時間外の自主練は、周囲の住民の生活も考慮されて名目上禁止だったため、自分が夜な夜な素振りをしているのは自分とヒデだけの秘密だったのだが、どうやらメグさんにも見つかってしまったらしい。


「勝手なことをしてすみません」


「え? あ、いやいや、監督にチクろうとかそういうワケじゃなくって」


 メグさんは慌ててブンブン首を横に振る。


「すごい鬼気迫る感じでバット振ってたから思わずこっそり見てたんだけど、そしたら変な人に声かけられて」


「変な人?」


「いや、ウチの高校の生徒っぽかったし、見た目も普通の男の子だったから、別にアブない感じじゃなかったんだけど。その子から、ソウ君が高校に入るずっと前から、毎日必ず五百回をノルマにして素振りしてるって聞いてさ。びっくりしちゃった」


 メグさんに声をかけたのがマレビトであることはなんとなく想像がついた。力のことなどが明るみに出ていないか、と不安の雲が心にむくむくと湧き上がる。そして犯罪を隠蔽しているかのような自分の心の動きに対する自己嫌悪が後に残った。


「その子はそれだけウチに言って、そのままふらっとどっかに行っちゃったから、それ以上のことは全然分かんなかったんだけど、なんとなく気になってさ。その次の日も同じくらいの時間に行ってみたらやっぱりソウ君が素振りしてて。結局平日の間、一日も欠かさず、ずっとおんなじ時間にバット振ってるの見ちゃって、あの変な子が言ってたのもひょっとしたらマジなのかなあって思ったんだよね。だとしたら、すごいなって。その、ストーカーみたいなことしてたのはほんとゴメンなんだけど……」


 マレビトが変なことを言っていないことに安堵すると同時に、メグさんに認められたことに対しての喜びがじんわりと湧いてきた。


「だってさ。天京の練習ってまじヤバいじゃん。普通だったらヘトヘトで、その後の自主練なんて絶対一日くらいサボりたいって思うよ。しかもこの前入ったばっかの一年生だよ? 練習ついてくのでやっとなのが当たり前じゃん。それでも続けられるって、ほんとすごい」


「子供の頃からの習慣なので、そんな大したことじゃないです」


「そんな謙遜しなくていいから! ……あー、なんか頭ん中わちゃわちゃしてきたけど、とにかく! ソウ君は先輩方を押しのけて選ばれるだけのことはちゃんとしてるって思ったってこと! だから胸張って頑張れって、言いたかったんかな? ……なんか話してて自分でも分からんくなってきたけどさ」


「えっと、ありがとうございます」


「どういたしまして。あ、それと」


 メグさんがハンカチをこちらに突き返しながら、少し涙に濡れた顔でニヤリと微笑んだ。


「この前、甲子園連れてってくれたらアイスバー奢るって言ってたけどさ。君の頑張りに免じて、マックのセットくらいまでならグレードアップを許してあげよう。ほれほれ、先輩マネジの懐の深さに感動して君も男泣きしていいんだぞ?」


 自分だけ泣いているのが急に恥ずかしくなってきたのか、メグさんはハンカチをひらひらさせながらおどける。


「あ、ありがとうございます。ひょっとして臨時収入あったんですか?」


「うーわ、あっさりバレたし。先週バイトでボーナスもらったんだよね。たまにはバイト先に客としてお金落とすのもアリかもなーってね」


 そんじゃ頑張りなーと言いながらメグさんも他の人が話す輪の方に向かって行った。その後ろ姿を見ながら、自分も一年生の集まる輪の中に合流する。ヒデがもみくちゃにされて祝われていたところに入って行ってしまい、同じような手荒い祝福を受けることになった。


「ソウ」


 そんな賑やかな喧騒もひと段落ついた中、ヒデがこちらに声をかけてくる。ベンチに入れた喜びなのか、目を涙でいっぱいにしながら、いつものように心底楽しそうに、豪快に笑っていた。


「結局今回の勝負は引き分けや。でもここで終わりやなくなった。県予選、甲子園でリベンジするで」


「え……?」


「次は絶対勝つ。首洗って待っとれや」


 自分の頭がヒヤリと覚めた。感じたのは、明確な怒りだった。そうじゃないだろ! ヒデの言葉に心の中で叫ぶ。今日選ばれた自分たち二十人にとって、この先本当に必要なものは、それ以外の人の想いを背負って戦う覚悟だ。他の人の積み上げた努力の道行を半ばで終わらせ、その先で舞台に立つことを許された自分たちにできることは、彼らの立ちたかった場所で、彼らが出したかった結果を残すことしかないのだ。


 それなのにお前はまだ自分との勝負に拘るのか? そんな勝負なんてここにいる誰も望んでいないのに? 自分本意もいい加減にしろよ。そう言ってやりたかった。だが後ろめたい力を使う自分に表立ってそんなことを返す度胸はなかった。代わりに自分は静かに覚悟を決める。


「俺は、ちゃんと結果を残すよ。みんなが望む最高の結果を」


 ヒデは自分の見当外れな返答にポカンとしていたが関係ない。背番号3を背負って試合に立つ。金田先輩をはじめ、自分のエゴで蹴落とした周囲の思いも背負って打席に立つ。そして試合に勝つ。甲子園に行く。そこでも勝つ。自分がすべきことはそれだけだと思った。


 こんなに多くの人の期待を背負うような重圧、マレビトに会う前の自分なら逃げ出していただろう。背番号も監督に返却して、金田先輩に譲ってしまっていたかもしれない。だが、マレビトからもらった力があれば、どれほどの期待にも、必ず応えることができる。


 マレビトからもらった力を行使することに対して、相変わらず納得できる答えは見つかっていない。でもこれだけ多くの想いを踏み躙ってしまった以上、腑に落ちないから使わないなんていう自分だけの綺麗事、わがままはもはや通用しない。この力を行使して勝ち取ったレギュラーであるからには、それは自分の実力であると受け入れなければならない。それがたとえ良くない決断だったのだとしても、もはや関係のないことだ。チームが勝利するという、負けていった彼らも望む輝かしい結果に比べれば、些細なものだ。


 この力は……自分のものだ。そしてそれを行使する義務が自分にはあるのだ。心の中で再び唱えるそんな言葉は、霧から解放される福音のようにも、新たな鎖が生まれる呪いのようにも感じた。


 かくして、天京高校の夏は始まる。遠くに見える入道雲は、ゴロゴロと不穏な音を発しながら、ゲリラ豪雨の前触れを静かに運んできていた。

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