四回ウラ.

 直接対決が自分の完全勝利に終わったその日の夕食後。涙で目を腫らし、口数が少ないヒデから、一人にしてほしい雰囲気を感じ、いつもより早めに素振りに向かった。なんとなく、今日はマレビトに会える気がしていた。


「やあ、暫くぶり。先週は顔を見せてあげられなくて悪かったね。ちょっと当世の観光をしておこうかなと思い立ってさ」


 予想通り、やつは先に来て待っていた。もはや定位置になっていたベンチに座り、ニコニコしながら何かを食べている。


「ああ、これかい? ゆで卵ってやつさ。ふふん、残念だが君の分はないから、そんなに物欲しそうな視線を向けても分けてなんてやらないよ」


 マレビトはそう言って嬉しそうにゆで卵を頬張る。物欲しそうな顔など断じてしてはいなかったのだが、そう言ってこちらから訂正したところで、きっと聞く耳など欠片も持たないことだろう。


「この前コンビニで見つけたんだが、この食べ物はいいね。完全な一つの命だ。過不足がない。肉とか魚とか、一部分だけ食べる、というのはなんだかイライラするからね。あと形状もいい。球体というのは完全性の具現化だ」


 ……なんだか、味とかではない妙な部分を評価しているようだ。世紀の大発見をした後のように興奮したマレビトの饒舌は止まらなかった。こうなると自分が聞いていなくても勝手に喋り続けるので、無視して黙々と素振りを始める。


「おまけにこいつは巷で”完全食”とまで呼ばれてるそうじゃないか。最初に書店でそんな見出し見たときには、大きく出たものだと思って少々バカにしていたのだけれど、これがなかなか侮れない。商標に偽りなし、だね」


 そこまで言ってからようやく全く話を聞いてもらえていないことを認識したらしいマレビトは、こちらに聞こえるようにわざとらしくゴホンと咳払いをした。


「失礼。俺としたことがつい熱くなってしまった。まあ偉大なるゆで卵の話はもうこれくらいにしておいて」


 そう言いながら一息にゆで卵を飲み込もうとしたマレビトは、次の瞬間ゴホゴホとむせ始める。大慌てでそばに置いてあった水を飲み、体勢の立て直しを図っていた。なんだかしょうもないコントを見せられているみたいだった。


 水を喉に流し込み、一度深呼吸して、ようやっと落ち着いたらしいマレビトは、おもむろにベンチから立ち上がり、こちらに歩いてきた。


「練習試合、及びヒデ君との直接対決、お疲れ様。まあ君が勝利する以外の結末なんてありえなかったわけだけど、一応おめでとうとは言っておこうかな」


 人のいない静かな夜に、マレビトの乾いた拍手の音がペチペチと響く。ヒデの涙に濡れた顔を思い出し、目の前の薄っぺらい賞賛にどうしようもない苛立ちを感じた。


「君はきっと大活躍だったんだろうねえ。ふふ、目に浮かぶようだよ。観客の黄色い歓声を一身に受けながら、ダイヤモンドで躍動する君の姿が。それはもう最高の時間だっただろう?」


 マレビトの演劇みたいな歯の浮くようなセリフを契機に、今日のハイライトが頭の中を駆け巡る。そして


「……そう、だな」


 躊躇いがちに、そんな言葉が小さく自分の口から出た。自分で引き出した言葉のくせに、マレビトは一瞬ポカンとした表情を見せた。そしてその後すぐに、満面の笑みを顔いっぱいに広げる。


「そうだろ? そうだろうとも! そうこなくっちゃ! やっっと君もこの力の素晴らしさに目覚めてくれたってわけだね! まったく、最初は打てども響かず状態だったからさ。ずいぶんヤキモキしたよ」


「……でも幸せかと言われると……分からないんだ」


 ガッツポーズしながら小躍りしそうなほど喜んでいたマレビトは、自分の口の端から漏れ出た小さな言葉に少しだけクールダウンした。静かにこちらを見つめて問いかけてくる。


「ふむ。というと?」


「……分からないんだ」


 同じ言葉を繰り返す他なかった。言葉通りだった。自分がどうなったら幸せなのか、今日の試合を経て、改めて分からなくなったのだ。未だにぐるぐると思考が堂々巡りする自分の脳内では、今日の試合の最大の山場が再生されていた。


 二対〇、二点のビハインドで迎えた八回裏、ツーアウトランナー二、三塁。この試合で初めて、ランナーがいる状態で自分に打席が回ってきた。神明館のエースに対し、天京高校はここまで無得点。なんとか得点が欲しい場面だった。


 チームメイトの必死な応援を背中に感じながら打席に入り、迎えた初球。甘く入ったカーブを、さも決まっていたシナリオであるかのように自分のバットは真芯で捉えた。一週間ぶりにカラリと晴れた青空に白球が消え、次の瞬間にはバックスクリーン上段に飛び込んでいた。文句のない逆転スリーランホームランだった。


 そこから勢いに乗ったこちらの打線はさらに一点を追加して、その回一挙四得点。土壇場でこの試合をひっくり返し、天京高校はそのまま勝利を決めたのだった。終盤に流れを呼び込んだ自分は、間違いなく今日のヒーローだった。チーム全体にとっても、最後の練習試合で、前回大会で土をつけられた強豪校に勝利したことは、本戦に向けたこれ以上ない追い風になったように思う。

 

 ここまでの試合中、ヒデが思うようなバッティングができていない姿をずっと見ていた。もしかしたら勝負に気負うあまりに、スイングが硬くなっていたのかもしれない。対して自分はすでに三安打を放って十分な結果を残していた。ベンチ入りをかけた直接対決だけ考えるのであれば、もうこの打席で自分が打たずとも、勝敗は決していた。


 しかし、チャンスの打席で、少しでも結果を残したいという思いさえあれば、自分の中の”結果を出す力”は問答無用で発動する。どうせ打ってしまうんだろうなという諦めと、ヒデに対する後ろめたさが、どこまでも心と身体を重くしていた。我ながらなんて冒涜的な感情なのだろうと思っていた。


 しかし、会心の一撃を放った瞬間からベンチに戻るまでの時間の中で、そうした鬱々とした気持ちは嘘のように消し飛んだのだ。味方の歓声、相手の呆然とした顔、ベンチに戻ってチームメイトに手荒く迎えられるひと時。そこにいる誰もが自分の出した結果を喜んでいた。直接対決と息巻いていたはずのヒデですら、その瞬間だけはそんなことなど忘れたかのように、手荒く歓迎してくれたのだ。


 その全てが……自分にとってとても幸せだった。


「最初は疑い半分にだけど力を受け入れた。でも日が経つにつれて、こんな嘘っぱちな力で結果を出したところで、嬉しいわけがないと思い始めていた。自分の心の弱さのせいで力を返せないだけだと思っていた。でも……」


「でも今日は掛け値なく嬉しかった。力を持っていて良かったと心から思った。そう言うことかい?」


「……そうだ」


「自分の想定した結果と違った。だから今悩んでいるというわけ?」


「まあ……そういうことだ」


「俺としてはこれこそ望んでいた形だから、なんの違和感もないんだけどね」


 マレビトは含み笑いを浮かべながら再びベンチに戻る。自分の思い通りにことが進むのが好きなのだろう。これまでになく上機嫌だった。


「君の今の喜びは当然のことだ。そうとしか俺からは言えないな。むしろ何をそんなにうじうじ悩んでいるのか、そっちの理由を聞きたいくらいだね」


「だから言ってるだろ。ズルしてるんじゃないかと思って」


「ズルって何だっけ。ああ、浅い知恵による不正というような意味合いだったかな」


 マレビトは心底不思議そうな顔をしながら真っ直ぐに自分を見た。黒目がちな瞳はこちらの奥の奥まで見透かしているようでいて、逆に自分のことなどまるで眼中にないようにも思えた。


「今日君はズルいことをしたのかい?」


「それは……」


 言葉を紡げず口ごもる自分に、なおも上機嫌なマレビトが演説モードに入る。


「そもそも、君の言うズルとはなんだい? 例えば、相手と結託して勝敗を恣意的に操作する。これはヤオチョウ? と言うのだっけ。これは明らかにズルだろう。また或いは野球というスポーツのルールを破って勝負を有利に進める、というのもシンプルにズルかもしれないね。ルールをお行儀よく守って戦おうだなんて、俺からしたらお笑い種なわけだけど。と、そこはまあいいや。でも今回、いや今回に限らずこれまで君は、そう言ったズルい行いなんて一切していないじゃないか。正々堂々自分の力で勝利した。そうだろ?」


「じ、自分の力なんかじゃない。お前からもらった胡散臭い"結果を出す力"だ。だから俺は」


「同じことだよ」


 これまで悩みの種だった持論は、マレビトに一蹴される。


「様々なことが知りたいから辞書が生まれたし、体力を消費することなく移動がしたいから車が生まれた。今じゃ考えることだって、何かを決断することだって、君の手元にあるスマートフォン? やら人工知能? みたいな外部の"力"に頼りきっているじゃないか。ああ、俺は別にそれを否定するつもりはないし、むしろ素晴らしいことだと思ってるよ。人という生物がある側面において完璧じゃないのであれば、それを補うような外部のツールを作り出せばいい。機能を外注すればいい、というのはしごくもっともな理屈だし、正当な進化だと思うからね」


 ゆっくり、語り聞かせるようなマレビトの言葉に、なぜかは分からないが、またどうにもならない苛立ちが募っていく。


「もらった力は使わない。それを使うのがズルだと言う君の理屈で語るのであれば、今俺が例に挙げたそれらは君から生まれた固有の力じゃないから頼らないのが正しい選択になる。スマートフォンを作ったのは君じゃないし、辞書も車もかつて誰かが発明したものを享受してるわけだからね」


 そんなしょうもない屁理屈を求めているわけじゃない。そんな思いだけが渦巻いて、増幅していく。でもじゃあなんなのだと言われても分からないのだ。もやもやの元凶にたどり着けずに足掻く心が、まるで駄々をこねる子供のように思えて、自分で自分が嫌になる。


「そもそも、君が野球の試合で使うグローブだとか、バットだとか。そんなものだって君の外部から発生したものだろう? 形がないのが気に食わないというのなら、両親や指導者から受けた知識と比較してみたっていいさ。それらと俺が与えた力と何が違うと言うんだい?」


「違うんだ」


「だから、何がさ?」


「こんな力、嘘っぱちなんだ。実力ってのは努力して、積み上げて、手に入れるもののはずなんだ。なのに……」


 やはり子供みたいな理屈しか言葉にできない自分が無性に悔しかった。やるせなかった。情けなくて涙が溢れた。


「そんな嘘っぱちの力で掴んだ勝利を、最高の結果を、みんなが喜んでくれて、悔しいのに、嫌なのに、心の底から、すごく嬉しかったんだ。このためだけにやってきたんだって、そんなことまで感じてしまった……」


 喜んじゃいけないんだ。そう思っても抗えなかった。中学最後のあの試合で絶望した時自分が望んでいた世界が、今日のあの場にあったように感じてしまったのだ。口から出るうまく整わない言葉とともに、なぜか涙までとめどなく溢れてきて止まらなかった。バットを支えにして嗚咽を押し殺す。


 昼の試合中はあんなに晴れていたくせに、今になってポツポツと雨が降り始めた。思わず崩れ落ちてしまった自分の背中を瞬く間に雨粒が黒く濡らし始める。あっという間に豪雨になって自分の丸まった背中を突き刺す水滴たちは、正面切って目の前のマレビトに、力を使って勝利したその不正に、反論できずにいる情けない自分のことを責め立てているように感じた。


 マレビトはうずくまる自分から目を離し、ぼんやりと雨の降り注ぐ灰色の空を仰いだ。自分と同じくずぶ濡れになっているくせに、そのことに関してもやはり、特に何も感じていないらしい。再び川辺のぬかるみで嗚咽を漏らす濡れ鼠のような自分に視線を戻したマレビトは、やっぱり解せない、という表情を浮かべながら、ぽりぽりと頭を掻いていた。


「ああ、人間ってのはつくづくよく分からないね。やっぱり不完全な物は嫌いだよ」

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