四回表.

 ゴールデンウィークが終わった頃から、宗、中島の204号コンビは少しずつ一軍の試合に抜擢されるようになっていた。そして二人は二人とも見事にその采配に応え、一年生とは思えない上々の結果を残していた。


「くそ! 今日は俺の負けや!」


 練習試合の帰りのバスの中でヒデが悔しそうに話しかけてくる。今日の練習試合での二人の成績は、自分が途中出場で二打数二安打、ヒデは代打で一打数ノーヒットだった。


「結果的に試合には勝ったからいいだろ別に……」


 バスの外の景色を見ながらそう返す。自分だけが活躍した試合の後は、正直あまりヒデの顔を見たくなかった。


「あほ。練習試合の勝ち負けなんか意味ないわ。今は個人の結果がすべてや」


 苦しい誤魔化しはすぐに看破される。この数日の練習試合の裏にある意味は、部員たち誰もがわかりきっていた。


 監督が夏の甲子園に向けたベンチ入りメンバーを選出するため。それしかないだろう。大会前の大事な時期にも関わらず、一年生である自分たちが積極的に起用してもらえたのも、そういった意味合いがあるからに違いない。


 部員誰しもがそれを理解しているからこそ、全員がアピールに必死だった。もちろん自分も例外ではない。そしてそんな、どうしても結果が欲しい状況において、自分は文字通り無敵だった。これまでの通算打率は三割五分。だが、得点圏打率に限って言うなら二打数二安打三打点。未だに十割をキープしていた。一年生にも関わらず勝負強い打撃が魅力。周囲からはそう評価されているに違いない。


「ガラスのハートみたいに見せといて、土壇場で一番強いのがお前っちゅうんが腹立つわ。そういうギャップ萌えとかいらんっちゅうねん」


 ヒデのやっかみ半分だが裏表のない称賛が何より心に突き刺さる。最近上手くなってきた狸寝入りを決め込みながら、寮までバスに揺られて戻った。


 その後しばらく本気で寝てしまい、ヒデに揺り起こされて寮の前に到着したことに気づいた。慌てて荷物をまとめ、バスから降りる。


「おい、204号コンビ」


 バスから降りると突然、監督から声をかけられた。


「はい!」


 ヒデと共に返事をし、慌てて監督の元に駆け寄る。彼のことを、六十代くらいの物腰柔らかな好々爺だと油断していた新入生は多かったが、とんでもない間違いだったことを知るのにそう時間はかからなかった。練習中、試合中、選手たちに喝を入れるその瞬間、般若のように豹変する様に、みんなすっかり度肝を抜かれたものだった。


 監督は二人が目の前に直立したのを確認すると、ゆっくりと二人の目を交互に見つめた。何か部屋で問題でも起こしただろうか。と一瞬二人で顔を見合わせる。


「来週土曜の練習試合が夏の県予選までの最後の練習試合だな?」


 ゆっくりと帽子の鍔を手に添えながら噛んで含めるように監督は話し始める。


「……はい」


「その試合、お前ら二人とも先発。ヒデはレフト、ソウはファースト」


 監督と二人の間の妙な緊張感がさらに高まる。監督が何を言いたいのか、わかるようでわからない。まるで読唇術でも使おうとするように、二人して監督の次の言葉を待った。


「以上。今日はお疲れさん」


 だが肩透かしだった。監督はそれ以上何も言わず、二人を背に去っていった。


「おい、どういうことやと思う?」


「さあ……」


 二人して幽霊でも見た後かのように、呆然としながら寮に戻った。交代で風呂に入る時も、夕食時も、なぜか二人とも言葉を交わすことはなかった。普段積極的に話しかけてくるヒデが珍しく無口だったため、こちらからも話しかけづらかったというのもあったように思う。


 その夜、日課の素振りから帰ってくると、珍しくヒデがまだ起きていた。雨も降りそうだったので早めに切り上げて帰って来たからだろうか。とも思ったが、どうやらそれだけではなさそうだった。何か神妙な面持ちをしている。


「なんだよ起きてたのか。良い子はもう寝る時間だぞ」


「アホ、お前の俺の親父か。お前が帰ってくるんを待っとったんや」


「俺を待ってたって、なんで?」


「お、おお」


 ヒデにしては言葉に歯切れが悪い。どうしたのだろうと思っていると、意を決したようにヒデが切り出した。


「今日の監督の宣言あったやろ。俺は直接対決せえって、対決して取り合えってことなんやないかと思う」


「直接対決?」


「そうや」


 珍しく言葉を選びながらヒデが話しているのを感じる。直接対決。そこで取り合うものには容易に想像がついた。窓の外からはシトシトと雨音が聞こえ始めていた。


「次の試合で活躍した方どっちかが、夏の大会のベンチ入り。そう言うことやと思うとる」


 つまりは背番号。あの聖地、甲子園でプレーするために必要な権利。それをどちらが手にするかが次の試合で決まる。ヒデはそう言っているのだ。


「別に二人とも入る可能性だってあるだろ」


「天京は夏大会には毎年、必ず一年一人をベンチに入れる。毎年一人だけや」


 思わず息を呑む。自分が徐々に袋小路に追い込まれていくのを感じた。シトシトと形容できていたはずの雨音は徐々に雨足を強め、今ではザーザーと窓の外で大きな音を立てていた。外からの湿気がそのまま狭い部屋の中に入り込んだような、嫌な空気が充満してきていた。


「監督なりに、次の最後の試合で白黒はっきりつけろて伝えてくれはったんちゃうかと思うんや」


 ……白黒で言うなら、自分はすでに真っ黒だ。おそらく自分の負けはない。この直接対決の話を聞いてしまった以上、次の試合の自分はきっと大車輪の活躍を見せることだろう。


 だが、それでいいのか? 力を持つ自分がヒデを蹴落としてしまっていいのか? それで直接対決に勝ったなんて言えるのだろうか? ……仮に勝ったとして、本当に自分は幸せだろうか?


「監督の真意は分からん。ただ少なくとも俺はそう思った。そしてそう思った以上は」


 一度ヒデが言葉を切る。そして最後の言葉を言い放つ。


「次の試合、お前には死んでも負けん」


 しばらく部屋に沈黙が落ちる。死刑宣告の後のような空気に居た堪れなくなって、こちらから口を開く。


「ヒデは……なんでそんなに甲子園でプレーしたいんだ?」


 毒気をぬかれたようなヒデは少し目を丸くして、それから笑った。


「甲子園でやりたい言うんは高校球児なら当たり前や思うけどな。まあ、あと俺の場合は家族に見てもらえる良い機会やからかな」


 少し遠い目をしながらヒデは付け加える。


「うちは大家族やから基本貧乏やねん。特待生として金かからんようにこの高校に入れて、ちょっとは親孝行したかなとは思うけど、実家から離れるんはやっぱり迷惑かけとるなと思う。こっちまで来る金もこっちから行く金もないからなかなか会えへんし。笑うかもしれんけど、電話するのにも通話代気にするような家なんや」


 そう言ってヒデが少し悲しそうに笑う。彼が大家族の長男である話は前にも少し聞いた気がする。ライバルの事情なんて聞かなければよかった。胸がさらにズキズキと痛み始める。


「甲子園出たらテレビに映るやんか。流石にテレビはちゃんと持っとるから、それで俺が元気で頑張っとるゆうんをあいつらに見せたれると思ってな」


 そこまで言って、ヒデはこちらに視線を戻す。真っ直ぐな視線が自分を射抜く。対して自分は何も言えなかった。言葉を発する資格などどこにもないような気がした。野球の才能、人間的な魅力、そういったものたちをほしいままにしている目の前の男が、その上いかにも主人公です、みたいなエピソードまで持っているなんて卑怯だと思った。何も持っていない、持てていない自分がますます哀れに思えた。


「はっ! まあ実際こっちの事情はどうでもええことや。家族のために野球やる部分は……まああるかもやけど、でも本筋やないからな」


 もうやめてほしい。そう思ったところで目の前の天才は止まらない。ただ力があるだけの凡人の身勝手な感情になんて、考慮などしてくれない。


「そんなもん関係なく、絶対に甲子園に出たい。あそこでプレーできたら間違いなく楽しいやろうから。やから、次の試合まではお互い本気の本気でライバルや。もしかしたら試合までちょっとピリピリするかもしれんけど、先に謝っとくわ。堪忍な」


 こちらの気も知らずに好き勝手にそこまで言うと、ヒデはベッドに入り壁側に顔を向けてしまった。その大きな背中を見つめながら、自分はただただ絶望していた。雨は途方に暮れて何もできない自分を責め立てるように、しきりに窓を叩いていた。


 それからの一週間は本当に辛かった。ヒデの顔を見るたびに週末の対決のことを思い出す。向こうは向こうで、宣言の通りに交わす口数もめっきり減って、いつもの軽口も全く言わなくなってしまった。


「ソウ君、最近ヒデ君と喧嘩してんの?」


 木曜日あたりには、メグさんがそんなふうに声をかけてきた。打撃練習のボールを拾いに外野のファールゾーンまで来たところで、同じく玉拾いをしていた彼女とばったり出会った時のことだった。


 バッターボックスではまさにそのヒデが、気迫あふれるフリーバッティングをこなしていた。憎らしいほど気持ち良いあたりが何球も外野の深いところまで飛んでくる。それを見て惚れ惚れしているようなメグさんを見て、言いようのない感情が自分を飲み込んだ。彼女の目線をなんとかこちらに戻そうとしたのか、応える声が少しだけ大きくなった。


「喧嘩というわけではないです。ベンチ入りを競ってて、お互い気が立ってるだけです」


「ああそっか。もうそんな時期だね」


 メグさんは深刻そうな顔を作って頷く。腕組みしながらブンブンと首を縦にふる様子は、頑張って有識者ぶっている子供みたいで可愛らしかった。


「ウチとしては、204号コンビにはいつも通り楽しく漫才しててほしいんだけど、こればっかりはしゃーない気もするなあ」


「いつも漫才してるみたいに言わないでください」


「してるじゃんか。まあソウ君はヒデ君に引っ張られてるだけだと思うけど」


 再びムッとしたのは例の試合の直接対決が原因なのか、それとも他の理由があるのか、自分でもいまいち分からなかった。視界の端ではヒデの打球がまたしてもバックスクリーンに突き刺さった。これで四球目。自分と対決しようとしている相手が化け物であるという事実確認を、無意識に行ってしまう自分にげんなりする。


「とりあえず、選手諸君は大いに悩み、切磋琢磨して頑張ってくれたまえ。そしてウチを必ず甲子園まで連れて行くように」


 腕組みをして少し監督のモノマネも入ったような妙な物言いをしながら、メグさんはケラケラと笑う。


「ライバルが切磋琢磨しながら強くなっていくとか、なんか少年漫画っぽくていいじゃん」


「あんな奴と俺を一緒にしないでください」


「お、なんだよ強気だねえ」


「いや、そっちじゃなくて……」


 続く言葉は不思議と言えなかった。モゴモゴする自分を見ながらメグさんはやはり朗らかに笑った。


「ま、ウチはマネージャーとして基本中立じゃなきゃなんだけど、今回はどっちかと言えばソウくんを応援しておいてあげよう。甲子園まで連れてってくれたら、そん時はアイスバーくらいまでなら奢ってあげてもいいかな」


「アイスバーて。ケチくさいですね」


 メグさんの少しだけ贔屓にしている、と言うたった一言だけで、それまで沈んでいた心が一気に晴れた気がして、軽口まで言えるようになってしまえる自分の現金さには呆れたものだ。


「うっさいなあ。今金欠なんだよ」


 そんな情けない台詞とともにメグさんは向こうの方へと去って行き、会話は終わった。バッターボックスの方に向かわないようにと念じる自分がなんとも情けなかった。


 なるべく寮の部屋にいたくない、という最高に最低な動機でいつもより毎日の素振りの回数も増えた。傍目には直接対決に向けて自主練習にも気合が入っているように見えるというのが、なんとも皮肉なものだった。暗い川沿いでスイングを数えながら頭の中では様々な雑念が渦巻いていた。


『次の試合の時だけ力が発動しないようにマレビトにお願いするのはどうだろう?』


『でもそれで負けたらどうする』


『せめて力のことをヒデには話すべきじゃないか?』


『話したところでどうなると言うんだ?』


『少なくともフェアにはなるのでは?』


『そんなこと、ただの自己満足だ』


『いっそ、病欠してしまえば対決自体がなくなるのでは?』


『それでは不戦敗になるだけだ』


 そんな風に堂々巡りを続けながら淡々とバットを振り続けた。梅雨の湿気と空を覆う雲は、出口のない問答に苛まれる自分の心をそのまま写しているように思えた。不思議なことに、その週は一度もマレビトと遭遇しなかった。


 そんな風にして、生きた心地のしなかった一週間がようやく終わり、運命の練習試合当日はやってきた。自分はどうしたらいいのか、どうしたいのか、結論はやはり出なかった。


 望んでいた雨天試合中止もなく、ヒデの体調も万全、気合も十分なようだった。自分はといえば、すでに色々な感情に身体中を蝕まれてはいたが、体調に特別な違和感は残念ながらなく、仮病を使うような勇気も決意もなかった。


 今日の対戦相手は隣の県の強豪、神明館高校。去年の甲子園初戦で、天京が辛酸を舐めた相手だ。先輩方からすればリベンジマッチでもある。球場へ向かうバスの中が今までにない緊張に包まれる中、自分だけが他とは決定的に違うものに追い込まれていた。会場に着くまでの数分が、今の自分には何時間にも思えた。


 やがてグラウンドに着いたバスが停車し、メンバーが黙々とバスから降りていく。そこに混じって目の前で外に降り立ったヒデがこちらを振り返り、ニヤリと不敵に笑いかけてきた。今週ずっと顔すら合わせようとしなかったため、久々に見る笑顔だった。


「さあ、今日で白黒つけよやないか」


 同室の天才からの堂々たる宣戦布告に、必死で強がりの笑顔を返そうとした瞬間、どうしようもなく吐き気が込み上げてきた。


 ヒデへの対応もそこそこに、バスから見えるトイレへ走る。どうせ吐けないことは分かっていたけれど、胸の奥から湧き上がる不快感を我慢できるはずもなかった。


 駆け込んだ個室の中で、まるで便座に向かって懺悔するかのように必死でえずく。このまま汚い内臓まで吐き出してしまって、全て終わってしまえばいいと思った。


 自分という存在が何かの拍子に消えてなくなればいい。そうすれば、名将である監督に、不正な力のおかげで信頼された、本物の天才スラッガーであるヒデに、間違ってライバル指名された、ハリボテを被った凡才なんていなくなる。ルームメイトがずっと夢見てきた甲子園出場を、嘘っぱちな力で踏み躙るような最低なチームメイトなんてこの野球部にはいなくなるのだ。それはどこまでも正しいことに思えた。


 胸いっぱいに湧き上がる気持ちが混じり気なくそれだけだったなら、今この状況から逃げ出してしまえば良かった。仮病でもなんでも使って試合に出ることを拒否すればいいのだ。


 でも……違った。自分だって甲子園に出たい。あの夢の舞台で結果を残してみたい。そんな思いも確かにあったのだ。イカサマみたいな力をコソコソ使っている分際で、よくもそんなことが言えたものだと自分でも思う。でも嘘の力でヒデを蹴落としてでも、活躍したい、結果を残したいという気持ちがあることもまた真実だった。


 胸をムカムカと詰まらせる不快感も、汚らしい思いも、その全てを吐き出してしまえと、必死で指を喉の奥まで突っ込む。しかし身体から出てくるものは粘ついた唾と、涙と鼻水だけだった。


「……最悪だ」


 諦めて個室から出た後に見たトイレの鏡には、およそ幸せとは程遠い、哀れな自分の姿が映っていた。


 いくら逃れたいと思っていても、いくら結論を先延ばしにしたくとも、それでも試合は始まり、直接対決は監督の宣言通り、現実のものとなった。宗、中島の一年生コンビは今回初めて揃ってスタメン出場を果たす。そしてその日、勝負の結果は否応なく出た。


 宗忠晴 四打数四安打三打点一HR

 中島秀人 四打数一安打二三振


 歴然と出た両者の差は、これ以上なく残酷に、直接対決の勝者がどちらなのかを示していた。試合には四対二で勝利したにも関わらず、ゲームセットのその瞬間、ヒデはレフトで両目いっぱいに涙を浮かべ、静かに唇を噛み締めていた。そして、それを慰めにも行けず、ただぼんやりと内野から見つめる自分がいた。


『幸せってなんなんだろう』


 そんなことを呆然と感じながら、涙をたたえた悔しげな表情でこちらを睨むヒデを、一つの風景画を見るようにただ見つめていた。

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