三回ウラ.

「毎日毎日、君もよく飽きないね」


 腰掛けた足をパタパタさせながら、半分馬鹿にしたような調子でマレビトは言った。自分は答えないまま、黙々とバットの用意を始める。


 電灯の真下にあるベンチに座って、興味深そうに自分が素振りする姿を見つめるのが、いつものマレビトの時間の過ごし方だ。だが、最近ではその変わり映えしない観察対象に飽き飽きしてきているらしい。


 こいつはいつも素振りの最中に気まぐれに現れ、思いつくままに勝手に話をして、素振りが終わる頃にはどこにともなくいなくなっていた。話の題材は様々で、いつも突拍子のない展開で進んだ。その日の天気の話をしていたかと思えば、流れるように哲学的な小難しいことを語り出し、その次の瞬間には、最近知ったらしい俗っぽい食べ物の話をしていたりする。


 最近はコンビニにて、"イカ飯"という食べ物を発見したらしい。イカの内臓から何から全て取り除いて外皮だけにし、中に穀物を詰めて、挙げ句の果てには煮て食ってしまうなんて、極悪非道が極まっている。と例によって謎の感性を爆発させ、愚かだ愚かだと楽しそうに一人勝手に大笑いをしていた。そしてひとしきり笑った後


「ああ、でもそういえば世界大戦前の中国に行った時には、現地のヤクザが同じようなことして抗争相手の拷問とかをしていたっけな。いつの世も人間はやっぱり愚かなんだねえ」


 と、さも昔の見てきた実体験を思い出したかのようにしみじみと呟いていた。どう考えたって冗談でしかない内容なのに、笑って済ませられないような大真面目な雰囲気を感じて、少し背筋が凍った自分は、その話題を振り払うべくいつにも増して集中してバットを振ったことを覚えている。


 そんな感じで、基本マレビトが一人でペラペラと語りたいことをひとしきり語り、自分は素振りの合間に余裕があれば適当な相槌を打ったり、そうでない時は無視したり、という形でいつも時間が過ぎていた。


「頭の中の仮想敵と戦うのもいい加減飽きてこないかい? 君は脳内で色んな人と対戦しているのかもしれないけれど、俺から見たら何にも変わらない光景だからもう暇で暇で。ヒデ君でも誰でも、適当に友達を誘ってきて、ボールを投げて貰えばいいのに。ああ、先に断っておくけど、俺に頼むのは無しだよ? やってあげてもいいんだけど、あまりに強すぎて君の練習にならないだろうからね」


「うるさい」


 いつもは適当な態度でマレビトと接しているのだが、今日は積もっていた嫌な感情が出てしまった。結局ヒデとの問答で生まれた暗い感情は寮の部屋で振り払えるはずもなく、ここまでばっちり引きずったままだった。自分の機嫌の制御ができない自分も悪いのだろうが、こっちの神経を逆撫でしてくるようなマレビトの態度も悪いと思う。


「おやおや、今日はいつにも増して機嫌が悪そうだね。俺で良ければ相談に乗ってやろうか?」


 案の定というか、ますます面白がった調子でマレビトが混ぜっ返してくる。こいつにお悩み相談するくらいなら、壁に言葉を投げかけていた方がまだマシだ。なんせ「人の心なんて分からない」と常々公言しているようなやつなのだから。


「相談なんて受けるガラじゃないだろ。ばかにしてんのか?」


「バカにしてる、か。まあ半分はそうだね。いや、やっぱり七割くらいはそうかな。あとの残りは実験の一環、被験体に対する調査目的ってところだ」


 マレビトが実験と言って自分に与えた”必要だと感じた時に結果を出す力”は、今のところあの打撃セレクションの一打席以来、発揮されてはいなかった。あれ以降試合らしい場面はなかったので、発動条件が揃う機会がなかったのだろう。


「っておいおい、そんなに凄まじい顔するなよ怖いなあ。眉間の皺が取れなくなっちゃうよ? せっかくのイケメンが台無しだ」


 無言のまま険しい顔をして素振りを続ける自分を見て、マレビトは降参と言った風に両手をヒラヒラとあげた。そうしたリアクション一つとってもムカつくやつだ。


「ハァ。まあ君も何故だかおかんむりみたいだし、ふざけるのは一旦やめにして、ここらで正式に、実験の経過を確認してみようかな」


 黙々とスイングを続ける自分の姿を見つめながらそう言って、マレビトは少しベンチに座る姿勢を正した。


「どうだい? 君は今幸せかい?」


「これが幸せなように見えるか?」


 反射的に、苦々しげにマレビトに噛み付いていた。「"結果を出す力"を与えられることによって、宋忠晴は幸せになれるのか?」それがマレビトの言う実験の内容だった。今の問いかけはあくまでその経過観察に過ぎず、きっとそれ以上の深い意味はないのだろう。それだけに余計にイラついた。


「おっかしいなあ。さっさと幸せになりなよ」


「そう簡単になれたら誰も苦労しないんだよ」


「君の言うその"苦労"ってのがさ。俺にはわからないんだよね」


 マレビトはベンチに座りながら、どこか遠いところを見通すように夜空を見上げる。サーっと川から風が吹いてくる。昼の暑さは少しずつ厳しくなってきていたけれど、ここの夜風はまだ涼しいものだった。マレビトはなおも続ける。


「君は今後の人生において、少なくとも野球と言う分野において、苦労をする必要なんてないはずなんだよ。だって結果を出せる力があるんだからね」


 そんなセリフを呟いた刹那、さっきまでベンチで座っていたはずのマレビトが、一瞬で自分の目の前に移動した。手にはさっきまで自分が振っていたはずのバットを持っている。やはり普通の人間ではありえない芸当だった。


「毎日続けているこの"素振り"? ってやつもそうだけれど、それだけじゃない。君がせっかくの連休の昼一日を使って、汗だくになってこなしていた練習だって、その全てが今となってはもはや不要なもののはずなんだ」


「……」


 マレビトが奪ったバットをコンコンと地面に当てながら、こちらを直視する。答えを出せなくて、いや出したくなくて、目を逸らしてきた。でも心の中には確かにあった問題を、マレビトは何の躊躇もなく抉ってくる。


「あと、さらに加えて言うのなら、君のルームメイトがどれだけ才覚に溢れていようとも、やっぱり何の問題もない。君はそれを軽々と凌駕できる力を既に持っているんだからね」


 ヒデへの嫉妬、それに対する自己嫌悪。力を与えられた事による練習の意味の消失、そして後ろめたさ。自分の心の中の闇など、マレビトには最初から全部お見通しだったのだろう。それらを理解した上で、なぜそんなことで思い悩むのかが分からない、と言っているのだ。いずれにせよそれら全てを踏まえた上で「今幸せか?」なんて言葉を問いかけに選ぶあたり、やはりこいつは意地が悪いと思う。


「君はもう積み上げるまでもなく、ヒデ君のはるか高みにいる。積み上げることが君にとっての苦労であり、幸福を遠ざけるものならば、そんなことをする必要なんて今や君にはないんだぜ?」


 しんどい練習や、その後の自主練。これらは全て野球技術の向上のためにやっていることだ。じゃあなんのために技術を磨くのか? それは試合で結果を残すためだ。そこまで来て、自分の思考は一つの結果にぶち当たる。マレビトから与えられた力のせいで生まれる歪な結果に。


『自分は練習などせずとも、既にその目的を達成しているのではないか?』


「天才であるヒデ君が今からそこに努力を積み重ねようが、俺の与えた力を持つ今の君の足元にも及ばない。だったら一緒に素振りでもなんでも好きにさせてあげればいいじゃないか」


「……うるさい!」


 自分でも今まで聞いたことがないくらいドスの効いた声が出た。怒りなのか何なのかよくわからない感情のまま、マレビトの手からバットをひったくり、再び黙々と振り始める。漠然とした怒りというのは恐れすら凌駕するのか、と心の冷静な部分がどうでもいいことを考えた。


「理解に苦しむなあ」


 突然バットを奪い返されて手持ち無沙汰になったマレビトは呆れたように一言呟き、今度はとぼとぼ歩いてベンチに戻る。そのまま座って頭をぽりぽりと掻き、こちらを見ながらため息をついた。


「今の君の行動原理がさっぱりわからないね。もはや意味などないのに苦しいことを好んでやりたがるなんて。いわゆる"ドエム"? とか言うやつなのかな?」


 まったく不完全極まりないね。と再びマレビトは空を見上げる。確かに、今の自分が何を望んでいて、何が不満なのか、頭の中はモヤモヤしていて何も分からない。不完全だし非合理的なんだろうとは思う。でもそれを、心のなんたるかをまるで知らない、知ろうともしないマレビトから指摘されるのはただただ癪だった。


 だめだ。マレビトの姿を見るだけで心の中の黒い感情がいらない波を立てる。一度深呼吸した後、彼をその存在から無視するべく、なるべく心を無にしてスイングを数え始める。四百二十一、四百二十二、四百二十三……


 そんな、やはりお世辞にも幸せとは言い難い自分の様子をぼんやりと見ながら、マレビトは独り言のような調子で口を開いた。


「このまま続けても現状が変わらないのであれば、今回の実験は失敗だったってことで、君の能力を元に戻してしまうのも、アリなのかもしれないなあ……」


 その声、そのセリフを聞いて、怒りで熱っぽくなっていた身体に突然冷や水を浴びせられたような感覚に陥る。きっとマレビトの方は、声色など何一つ変えたつもりはなかったことだろう。それでも自分の耳には、これまでとは打って変わった冷徹な言葉として届いた。


 四百五十六、四百五十七、四百五十八……。必死で自分のスイングに集中しようとするも、その努力も虚しく、心は少し前までとは全く反対のことを考えていた。


『そんなに早く戻してしまう必要なんてないじゃないか』


『まだ一回しか力を使っていないのだから』


 気がつけば、どうやったらマレビトに力を剥奪されないか、いかにして思い留まってもらうか、そんなことばかりを考えてしまっていた。都合のいい言葉を無理やり切り貼りしたような、ダサい言い訳ばかりが頭の中を埋め尽くしていく。


 四百七十八、四百七十九、四百八十……。どうしても自分の気持ちが袋小路に入っていく。なぜこんなに心がざわつくのだろう。与えられた力のせいで、自分が思い悩んでいるのであれば、彼の言う通り、力なんて初めからなかったことにして返してしまえばいいのだ。


 今マレビトに力を返して、高校入学した頃のごく普通の自分に戻れば、ヒデに打ち勝たなければならない、という大きな問題は残るにしたって、自分が練習を続ける意義を揺るがされると言う事態だけは解消される。今心の中に存在する重石も、半分近くは取り除かれるはずなのだ。なのに、でも、だけど……。


 不意に、夕焼け色に染まるバックスクリーン電光掲示板が頭によぎった。ぼやけた視界、膝から崩れ落ちた時の黒土の匂い、相手チームの歓喜の声と味方の堪えるような啜り泣く声。


『ああ、嫌だ。やっぱりもう嫌だ』


「ま、今はまだ力を振るう機会もあんまりないみたいだし、もうちょっと気長に経過観察してみるか。時間ならそれこそ死ぬほどあることだし。モモクリ三年、カキ八年? というらしいしね」


 ……四百九十九、五百。そんなふざけたマレビトの独り言を聞いた時、きっと自分は失望と安堵がごちゃ混ぜになった、相当酷い顔をしていたに違いない。


「というか、カキというのはおそらくあの貝類の牡蠣のことなんだろうが、モモクリってのはどんな海洋生物なんだろうね。クリオネの仲間なのかな」


 マレビトは今しがた感情に揺さぶられてぐちゃぐちゃになった目の前の哀れな自分のことなど、少しも気にも留めていないかのように、いつものように馬鹿げた一人語りを続けている。


 結局、最後までちっとも集中できないままに、今日の素振り五百回のノルマは完了してしまった。静かに寮へ戻る支度をする間中、なんだか様々なものに打ち負かされたような、惨めな気分だった。


「おや、もう五百回か。今日はやたらとペースが早かったね? ちゃんと集中して練習したのかい?」


 自分の見苦しい葛藤すらも全部お見通しのくせに、白々しい。またしても苦しい胸の内をわざわざ聞いて暴こうとしてくるマレビトに、もはや殺意めいたものすら感じた。でも、この殺意の矛先というのは本当のところ、何も決断できなかった弱い自分自身に向けられているのだろうと言うことも同時に分かった。


 それがまた、たまらなく悔しかった。

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