三回表.

 部活戦士に巷のような楽しい連休など与えてもらえるはずもなく、数キロあるランニングコースの一往復目にして、部員たちの息は早くも切れてきていた。少しずつ早くなっていくハッハッという自分の息のリズムが、川沿いの道をめいめいに踏む足音に混じって耳に届く。昨日までの練習の疲労も抜け切っていない中でまた今日の練習が始まることに、身体は不満たらたらだった。


 横目に映る川沿いの桜の木々たちは、もうすでに花びらを完全に散らしていて、鮮やかな緑に染まり切った葉が川からの風に揺られている。川面は昼前の太陽の光を反射してチラチラと光っていた。ランニングのペースはどんどん早くなっていく。涼やかな景色の中で、自分たちの周りだけむさ苦しい真夏の時空になっているようだった。息苦しさのあまり、より多くの酸素を求めるように顔を上げる。目に飛び込んできた空は、連休折り返しの今日も恨めしいほどに晴天だった。


 天京高校野球部二軍の面々は、地獄のような練習の只中にあった。筋トレサーキット数セット、ダッシュメニュー数セット、体幹のトレーニングをみっちり仕上げて午前中身体を散々いじめ抜き、最後に今こなしている”軽い”ジョグを終えてやっと、午後からボールを使った練習が始まるのだ。


 呼吸をすること、足を前に出すこと、それ以外何も考えられなくなるほどに追い込まれるハードワーク。その過酷さについていけずに集団から離される部員も少しずつ出始めていた。そのほとんどは今年入った自分と同じ一年生。この練習に一年耐え抜いてきたのであろう上級生はキツそうに顔を歪めながらではあるが、なんとか走るペースをキープしていた。


 そんな光景を先輩方のすぐ後ろで見ていると、場違いにもなんとなく嬉しい気持ちが湧いてくる。この練習になんとかついていくことができれば、きっと体力や実力は上がる。そしてそれが試合において結果を残すことに繋がる、と思ったからかもしれない。そこで無意識に足を前に出すペースが落ちる。雑念にかまけているほど余裕はないはずだったのだが……。


「気合やー!」


 息も絶え絶えになりながら間の抜けた雄叫びをあげ、自分を追い抜くヒデが横目に見えた。こんな体たらくではいけない。静かに歯を食いしばって再度ペースを上げ、彼に追い縋るように、自分も先頭集団の中核まで位置を上げた。


 午前中の地獄をなんとか乗り越えた戦士たちが、ようやく練習グラウンドのすぐ外へ移動する頃には、もう昼前になっていた。今は食事時間を兼ねた、ひとときの休憩時間だ。


「あー、あっつ……。しんど……。毎日朝からこんなにって、殺す気かい……」


 ふらふらになった部員たちの気持ちを代弁するかのようにヒデが嘆く。疲労困憊の中めいめいの日陰で昼食を食べ終えた二軍Aチームたちは、昼からの練習のため、専用グラウンドに入っていく。入れ替わりに一軍の面々が帰っていくのが見えた。


「一軍はもう帰宅かい……。ええなあ……」


「明日が春大一回戦だから、今日は調整なんだろ……」


「そんなもん俺も分かっとるわ。愚痴くらい言わせてえな……」


 ヒデがこちらに噛みつきたくなる気持ちもわかる。噂に聞いていた通り、やはり天京の練習量はとんでもないものだった。……午後からが本当の本番なのだけれど。


 疲れていてもやらなければならない練習においては、自分の気持ちについて極力何も考えない。それがこれまでの経験により身につけた鉄則だった。そのライフハックを忠実に実行しつつ、黙々とスパイクに履き替え、グローブをカバンからひっぱり出す。午後の練習はキャッチボールからだ。


 丁寧に手入れしてきた野球道具一式は、中学二年生の時に、父親とともに時間をかけて選んだものだ。少しずつ小さくなってきてはいるが、それ以来一度も買い替えていない。少しずつ年季の入ってきたこのファーストミットも徐々に自分と同化してきて、その特有の油の匂いまで自分の身体の一部という感じがしつつあった。


 キャッチボールはなんだかんだでいつもヒデと組んでいたので、日陰の水道の水を頭から被って体力回復に努めているヒデに代わり、先にボールを取りに行く。昼になって日差しはまた強くなったようだった。


「お、ソウ君お疲れー」


 グラウンドの隅では、マネージャーの瀬戸恵が練習用のボールをまとめていた。


「メグさんお疲れ様です。ボール準備ありがとうございます」


「どもども。まあこれが仕事だしねー」


 そう言ってメグさんはカラカラと笑い、「あっちー」とか言いながら白いTシャツをパタパタと煽ぐ。反射的に目を逸らしてしまった。裏方仕事をしてくれているマネージャーに変な気持ちを抱いたことに申し訳なさが湧く。それをめざとく見つけたメグさんはおもちゃを見つけたかのようにニヤニヤと笑った。


「ふふん、若いな少年。ウチみたいなのでそんなウブな反応してちゃ、この先の人生やってけないぞ? サヤさんにユーワクされたらもう鼻血モノよ?」


 メグさんは自分のことを過小評価しているみたいだったが、大間違いだ。彼女の竹を割ったような性格や、キャップの下の可愛らしい顔立ちから繰り出される満面の笑顔には、部員の中でもやられている人が数多い。先ほど話の中に出てきた、メグさんの先輩にあたる三年生マネージャーの楠木紗香、通称サヤさんとどちらがタイプかという派閥抗争も密かに行われているくらいだ。


「すごい人生の経験者ぶったこと言ってますけど、メグさんも俺より一つ上なだけじゃないですか」


「こないだまで中坊だったやつが生意気な。一年違えば全然大人なんですー」


 いーだ、という顔をしながらメグさんがボールを一球こちらに投げてよこす。こういうどこか子供っぽい反応もまたメグさん人気の秘訣なんだろうなとなんとなく思った。


「ま、午後からも死なないように頑張りな。今日までで懲りてると思うけど、ヘイゾーのしごきはマジで半端ないから、水分補給はしっかりね」


 そう言ってメグさんは再びボールを拭いて袋に入れる作業に戻っていった。その後ろ姿を見ながら、自分はどちらかと言えばメグさん派だな、となんとなく思った。


 ボールを持って戻ってくると、ヒデはいつものように、チームメイトたちとはしゃいでいた。


「おうヒデ。お前シャツ濡れて乳首透けてんぞ。これからはセクシー路線かよ」


「やかましいわ。こちとらオーバーワークで死にかけとんねん。そんなん言うたらお前かて透けとるやないか。その乳首、引きちぎったろか」


「こわっ。関西ヤンキーかよ」


「あ? 関西のヤンキーはこんなヌルいもんやないで。お望みやったらケツから手突っ込んで奥歯ガタガタ言わしたろか」


 口は悪く見える、というか実際悪いが、裏表はなくおちゃらけて明るいヒデの周りには、いつも人が集まって楽しそうにしている。自分はといえば、その輪の中の一人として、静かに笑って日常ショートコントを楽しんでいる側だった。


「にしてもやっぱソウはすごいわ」


 ボールを持って帰ってきた自分に気づいたヒデは、しみじみと感嘆の声をあげる。共にふざけていた他の同級生とともに木陰に入りながら、先ほど着替えた練習着を、なおも暑そうにパタパタと仰いでいた。


「何が?」


「さっきの練習でも一個も弱音吐かんかったやないか。ちゃんと最後のランニングでも先頭集団で走っとったし。今かて同期先輩含めてお前が一番ピンピンしとる」


「俺だってしんどいよ。でも弱音吐いたってしんどさは変わらないから」


「はー、なんかカッコええな。ムカつくわ。ブーたれとる俺があほみたいやないか」


 ヒデはそんなわけのわからない悪がらみをしながら小突いてくる。ヒデいわく”カッコええ”返答をしてお茶を濁したが、自分が弱音を吐かなかった、正確には吐けなかった本当の理由はと言えば、こういったスパルタな練習に昔から慣れっこだったから、なのだろう。良くない言い方をするならば、一種の長期にわたる洗脳の結果だ。


 地元少年野球の監督だった父には、野球を始めて以来、ずっと厳しくしごかれてきた。チーム練習が終わった後に、ダッシュをし、ノックを受け、バッティングセンターに行き、素振り五百本で終わる一日が一体どれほど繰り返されてきたことだろう。


 もちろん好きでやっていたわけではない。時間が経つにつれて、半分当たり前みたいにこなすようになっていったけれど、その生活が始まった当時は、本当に死んだ方がマシだと思いながら、父の打つボールを足が棒に成り果てるまで追いかけていた。


 チームの他のメンバーが練習を終えて帰る中で、自分だけがなぜこんなに辛い思いをしないといけないのか、さっぱり分からなかった。


 辛さのあまり手を抜いたり、打球を追うのを諦めたりすれば、それらはすぐ見抜かれて、更なる量をこなすハメになった。もう無理だと泣き言を言っても同じことだった。弱音など、その当時に泣きながら何度も父に吐き、その度に跳ね返されてきた。


『外からの見た目なんて関係ない。努力したその行動だけがお前の血肉になるんだ』

『もう嫌だ』と自分が嘆くたび、父はそんな常套句を言いながら後一本、後一球、と仏頂面のまま、黙々と練習を進めた。その言葉自体が真実なのかは今となっては分からないけれど。


 そんな生活の代償なのか、寮生活となった今でも、夜になれば素振り五百本には自然と足が向くようになってしまっているし、チームの練習の中で手を抜いたことだってただの一度もない。周囲の誰よりも多く練習する。そして練習には絶対に手は抜かない。気付けばそうした不文律が自分の身体に染み付いて離れなくなってしまっていた。ある種の呪いのようなものだと思う。


「色々言いながらヒデだってちゃんとこなしてただろ。ランニングだって同じ集団で走り切ったわけだし。見た目なんて関係ない」


 ヒデに対して自然と自分の口から出た言葉が、再三父に言われ続けてきたセリフをなぞったような発言になっていて、少し複雑な気持ちになる。これもまた呪いなのだろうか。


 自分のそんな神妙な表情を見ていたのかいなかったのか、仲間と戯れていたのと同じトーンでヒデはあっけらかんと返す。


「あほか。見た目は大事やろ。かっこよく野球せなおもろくならんやないか」


 ……これだからこいつは嫌いだ。自分と全く違うイズムを持って、圧倒的に、かつ楽しそうに野球をしている。そんな姿を見せられたら……こんなにも苦しんでいる自分がまるで、ずっと前から道を間違えて進み続けて来てしまったみたいではないか。


「集合!」


 突如グラウンドの方から二軍コーチ、加藤平蔵、通称ヘイゾーの声が飛ぶ。体力的にも気力的にももうちょっと休んでいたかったけれど仕方ない。かつての父に負けず劣らずの鬼からの檄に


「はい!」


 こちらも皆と共に腹から声を出して応じる。スパイクの紐を改めて結び直し、ヒデやチームメイトたちと共に、コーチの元に円形に集合した。改めて周囲を見渡す。


 この中でこれまでの自分よりも練習してきた選手は一体何人いるのだろう。その一方で、これまでの自分よりも活躍して、素晴らしい結果を出してきた選手は何人いるのだろうか。それら二つの要素が必ずしも相関しないことを、自分はもう実感を持って知ってしまっている。自分はもう父の語る神話を無邪気に信じられるような子供ではない。無意識にすぐ隣のルームメイトを視界に入れる。


 自分より体格に恵まれている。自分以上に持って生まれたパワーがある。練習も不満を言いつついつも楽しそうにこなす。時々彼にしか真似できないようなとんでもないスーパープレーをやってのける。プレーだけでなく、言動の全てに華がある。そんな奴が誰よりも近くにいれば嫌でも自覚する。悔しいけれど、世の中に天才は確かにいるのだ。


 努力した者が結果を出せるとは限らない一方で、懸命に努力する凡人を嘲笑うかのように、自分たちになしえる以上の結果を残していく天才が確かに存在する。そしてこの世の中はどう綺麗事で誤魔化そうとも、最終的には結果が全てなのだ。


 そんな世界の残酷な側面を、もしもあらかじめ知っておけたとしたら、幼かった頃の自分は、果たして父の猛練習に、泥と汗と涙に汚れながらでも、最後までついていくことができただろうか。骨の髄まで呪われきった今となっては分かりようがなかった。


 これからが本番だと思った自分の予感、そしてメグさんが半笑いでボールと一緒にくれた助言は、残念ながら正しかった。日も完全に傾く頃まで続いた猛練習からようやく解放され、やっと寮まで帰ってきたヒデと自分はすでに瀕死の状態だった。


 そのまま競い合うようにして風呂に入り、寮内の食堂で格安の夕食を頬張って、再び寮部屋に戻った頃には、もうどっぷりと日の暮れた後だった。


「ふいー終わった終わった! 今日も一日お疲れさんっと!」


「お前のそのガタイでベッドに全力ダイブしてたらそのうちベッド壊れるぞ」


「うっさいわ。こちとらこのためだけに生きとんねん」


 中年のおっさんが仕事終わりにビールをひっかけた時みたいなことを言いながら、ヒデは布団に入る。とても、とても”幸せ”そうだ。


 思わず『羨ましい』などと考えてしまい、慌てて頭から言葉を逃す。なおもしつこく追いかけてくる嫌な雑念を振り払うかのように、急いで素振りの支度を進めた。


「……お前、やっぱほんまにすごいわ」


 バットとともに部屋を出ようとする後ろからヒデが声をかけてくる。


「あんだけ真剣に練習して、その後まだ自主練やもんな。……俺もほんまはそれくらいやらなあかんのやろけどな……俺にはできん」


 逃げようとしていた感情に、あっけなく捕まった。こいつと一緒に過ごすようになってから何度も心を巣食うようになった例のドロドロした感情が、またしても心の中を蝕み始める。もういっそ、口に出して言い返してやりたかった。


『できない、じゃない。お前はする必要がないんだ』


 午後の練習でも相変わらずブーたれながら、それにも関わらず、なんだかんだで自分以上に素晴らしいプレーを見せていたお前が、これ以上努力する必要なんてないんだ。自分が努力して、苦労して、何年もかけて積み上げて積み上げて登った場所に、お前はもうすでにいるじゃないか。この上お前まで上がり始めたら、自分はこれからどうすればいいんだ。


 そしていつも、思いがそこまで至った後で気付くのだ。ライバルの足を引っ張ってどうするのだと。アニメや漫画の中で活躍しているような、人間のできた主人公なら、この場面で爽やかな笑顔と共にこう言えるのだろう。


『お前も一緒に素振りしようぜ。きっともっと上手くなれるさ!』


 切磋琢磨してお互いに高め合う。チームメイトとして、それが正しい在り方だ。それを分かっていながら、自分はヒデが結局一緒には来ないことに対して、心のどこかで安堵していたのだ。「俺も素振りするわ」といつヒデが言い出すだろうかと心底恐怖していた。そんな理想と現実のずれが、いつもたまらなく嫌だった。


 その上、あの打撃セレクションの日以来、あの不思議なやつとの会話以来、別の感情も同じくらい自分を追い詰めていた。


『そもそも、自分は今何を目標にして練習を積み重ねているのだろうか?』


『ヒデと競い合うことについて悩む必要なんて、今の自分にあるのだろうか?』


「まあ休息も練習の内だし。俺はやらなきゃ落ち着かないってだけだから」


 そう言ってそそくさと部屋を出る。休息も練習の内。ヒデを素振りに誘わない小狡い自分に対する言い訳までちゃっかり用意した、我ながら姑息な逃げ方だと思った。重く黒い感情の泥は、相変わらず自分の腹の内にずっしりと沈殿していた。

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