二回ウラ.
打撃セレクションが終了したその日の夜、時間は夕食後。いつもより少し早めに始めた日課の素振りには、しかし全く身が入らなかった。川のあちらこちらから聞こえてくるカエルの声が、今日はやけに大きく聞こえる。
昨日と同じ場所、同じ時間に、自分は再びやって来ていた。その意味を考えれば、集中することができない理由は明白だった。
「明日で俺が君を救う存在だってことは多分わかると思うから、話はそれからかな。もしまた俺に会いたいと思ったなら、今日と同じ時間にここに来なよ。色々面倒だから必ず一人で」
昨日出会ったあの不思議なやつの指示を、自分は今忠実に守っているのだ。あれだけ怖い思いをしたというのに、我ながら頭がおかしいとは思う。しかし、どうしてもやつともう一度話がしたかった。
「ふふん、やっぱり来たね。時間前行動とは感心なことだ」
昨日とまったく同じように、土手の方から不意にそいつは現れた。抵抗するだけ無駄なのは半ば分かっていたが、せめて威嚇する意思だけは示そうと、すぐにそいつにバットを向けて牽制する。
「それ以上は近づくな」
「おっと、これはまた大層な警戒だね。君みたいなガタイのいいやつが、ひょろひょろな俺に対してこんなことしていたら、周りからは恐喝してると思われちゃうよ? あ、こういう時には脅されている奴がその場でジャンプをするのが鉄則なのだと噂に聞いたのだけど、その儀式は今やった方がいいかい?」
おどけた口調で言いながら、そいつはわざとらしくホールドアップをして見せる。虫たちの集まるベンチの側の電灯は、時折不規則に明滅しながら、その芝居がかった様子を照らしていた。改めて、そいつの外観を注意深く観察してみる。
顔立ちは中性的で、背格好も平均くらい。首に光る珠付チョーカー以外には特筆すべき部分は本当に何もない。やはり外見だけ見れば、どこにでもいそうな普通の高校生だ。だが、その異質さは昨日、身をもって知っている。
相手のペースになってはいけない。こちらが詰問するという姿勢を強行するため、喉の奥に溜まった唾を一度飲み込み、深く深呼吸をする。肺にきちんと空気が入ったことを確認してから、改めてバットを握り直した。
「昨日、俺に何をした?」
「ふふ、そうくるだろうと思ってたよ。研究者としては、反応が筋書き通りだと話が早くて助かるね」
こちらの精一杯の威嚇はやはり歯牙にもかけず、相変わらず世間話の延長のように楽しげに頷くと、そいつは一転、意地悪く微笑んだ。白い灯りによってできた陰影によって、どこか悪魔じみた不気味さに見えた。
「じゃあそんな君に逆に聞いてみよう。どうしてまたここに来たんだい? 昨日あんなに怖い目に遭ったってのにさ」
「……まず俺の質問に答えろ。昨日俺に何をしたんだ?」
「ふうん、こっちの質問には黙秘ってわけかい。極悪非道な相手でさえも、食べれば必ず泣きながら本心を自白するというエグい食べ物、あれがカツドンというのだっけ? ん? カツアゲだったっけか? まあいいや。そういうものでもあれば良かったのだけど、困ったね」
困ったと口では言いながら、今の自分の反応もやはり想定通りなのだろう。不敵な笑みを一切崩さないそいつは、人差し指を宙でくるくる回しながら、ゆっくりこちらに近づいてきた。また身体の動きが効かなくなっているのを自覚する。バットを握る手にじわりと嫌な汗がつたった。
「まあいいや。ご要望通り、まずは君の質問に答えてあげよう。しかも君が一番望む答え方でね」
そう言って、そいつは再び笑みを濃くした。それに呼応するかのように、周囲の電灯が一瞬不吉に明滅し、川辺を生暖かい風が吹く。人間の本能的な部分が恐怖を感じている気がする。目の前に立っているのは、やはりただの人間ではない。
「君には力を与えた。”結果を出す力”をね」
「……結果を出す力?」
「君が一番求めていた力だ。そうだろう?」
心の一番脆い部分をいきなり鷲掴みにされたような感覚に、思わず言葉を失った。バットを必死に握っていた腕は知らぬ間にダラリと下がり、気づけばそいつから目が離せなくなっていた。
「そして、今日その力を実感したからこそ、君はここに来たんだ。違うかい?」
正解だった。全てこいつの掌の上、といった感じがした。虚勢で行った威嚇は、もはや完全に剥がされていた。
「さあ、俺は情報の開示義務を果たしたよ。今度は君の番だ。被験体からの正確な情報提供無くしてこの実験は成り立たない。俺が託した力を使った感想を、できるだけ細かく教えてくれるかい?」
マレビトの首の白い珠の怪しげな光に操られたのか、単純な恐怖からかはわからないが、自分の口から勝手に言葉が、回答となって漏れていく。
「打撃セレクションのあの時……打ちたい。……どうしても結果を出したいと思ったら、身体が勝手に動いたんだ。自分でも気持ち悪いくらいにバットが完璧にボールを捉えてた。……その次の瞬間にはもう打球は場外に消えていた……」
恐々と呟きながら、今日対戦の只中に起きたことを改めて思い返した。
その時のカウントはツーストライク、ツーボール。五球目に放たれた球は桐生先輩渾身のカットボールだった。コーナーギリギリのアウトコース低め。打ち取るならばここしかないという最高のボール。その最高の勝負球に、自分の身体は勝手に反応していた。腕、体幹、下半身、スイングする際に駆動する部位の全てが、自分の意識通りに、いやそれ以上に、不気味なほどに綺麗なフォームで動いた。そして、これ以上ない絶好のタイミング、絶好の位置で、バットはボールを捉えていた。
インパクトの瞬間に、すでにホームランを確信できた。そして実際、自分の想像を軽々と超えるほど、信じられないくらいの飛距離でボールはレフトスタンド奥のネットを越えていったのだった。
自分を含めた球場の誰もがボールが消えていった方向をただ呆然と眺めていた。一瞬の静寂、そしてその数秒後、野次馬からの大歓声がこだました。
「ナイスバッティング!」
おそらくあの球場内で、誰よりも自分が呆然としていたことだろう。ベンチのヒデの大声でやっと我に返り、熱に浮かされたような、夢遊病のような足取りでダイヤモンドを回った。
守備についていた先輩方からはグローブで叩かれたり色々言われたり、様々な称賛を受けたが、身体中の空気が抜けたように力なく笑いながら、ただヘコヘコすることしかできなかった。ファーストを守っていた三年の先輩が、ボールの消えていった先の夕暮れになりつつある空をずっと眺めていたのが妙に目に焼き付いた。
ベンチに帰ってきてヒデに手荒く迎えられてからの記憶はほとんどなかった。自分自身の身に何が起こったのか、まるで理解が追いつかなかった。本日分の打撃セレクションが終了するまで、仲間への声援も送れないまま、ずっとベンチの隅で茫然としていた。
終わってみれば、今日のセレクションに参加した中で、ホームランを打ってのけたのは結局自分一人だった。ヒット性の当たりが出たのすら自分とヒデの二人だけ。今日の桐生先輩は、プロのスカウトも唸るほど上々の仕上がりだったようで、だからこそ、そんな彼の渾身の一球を場外へ弾き返した宗忠晴の名前は見にきていた人々に知れ渡った。らしい。
ポツポツと一通り、そんな経緯を語り終えると、そいつは満足げに笑った。
「へえ、初陣でちゃんと結果を残せたわけだね。偉い偉い」
賞賛しているようでいて、こちらを煽っているとしか思えない物言いだった。
「で、今日発揮された自分でも理解できない"力"の正体を知るために、君はまたここに来て俺に会いたかったわけだ。一度"力"を形にしてあげれば少しは建設的な話もできるかなと思って試しにやってみたわけだけど、どうやら大当たりだったようだね。よきかなよきかな」
思い通りにことが運んだことがよほど嬉しかったらしい。知恵の輪が解けたかのような愉快な表情で、そいつは自分の横を通り過ぎ、川をバックにこちらを振り向いた。なんでもない川辺の一風景の中で、そいつの周りだけがやはり異質な空気を纏っていた。
「さて、話を始めるのならばまずは自己紹介からだね。俺のことは……マレビト。そう呼んでくれたらいい」
そいつ、改めマレビトはそう言ってうやうやしくお辞儀をする。対岸の工場の明かりが、まるでマレビトの後光のように見えた。
お辞儀を終えたマレビトは、すぐそばにあったベンチにストンと座り、こちらに向かって手招きする。どうやら「お前も座れ」ということらしい。近づく恐怖と逆らった時の恐怖を天秤にかけ、渋々最大限距離を置いたところに腰掛ける。
「ねえ君、なんで人類はこんなにも不完全なんだと思う?」
自分が座ったことを確認すると、マレビトは星がチラチラまたたく夜空を見上げながら、当然そんな大きなことを問いかけてきた。先ほどまでの戯けた口調から一転し、不思議と厳かな雰囲気だった。先程まで聞こえていた周囲の音は、今や不思議なほど聞こえない。本当にこいつは何者なのだろう。
「不完全?」
「そう。まあ人類に限った話じゃないけどさ。この世界の生命はどいつもこいつも不完全だよね。足が遅いのがいる、頭が悪いのもいる。縄張り争いだの、つがいを取り合うだの、すぐに同じ種族どうしで殺し合いを始める。すぐ病気になるし、すぐ死ぬ。人間に至っては、主義主張なんて何の益にもならないことで争ったり、果ては自分で自分を殺すやつだっているそうじゃないか。なんで世界はこんなに欠陥品で溢れてるんだろうね」
要は「この世の生き物はみんな出来損ない。とりあわけ人間はひどい」と言われているのだけれど、淡々と単なる事実を述べているようなマレビトの雰囲気に妙な説得力を感じ、不思議と何も反論できなかった。
「不完全だから、欠陥があるから、色んな不具合だって起こってくるわけだ。君なんかもそうさ。スポーツに関して完全無欠な能力がありさえすれば、もっと愉快痛快な人生が送れるわけじゃないか。不完全だから失敗したり、失敗を恐れて疲弊したり、自分より優秀な個体を羨んで余計な消耗したりもする」
憐みではなく、純粋な興味を基にマレビトは話しているように感じた。だからなのか、自分の事を悪し様に言われていると分かっていても、マイナスな感情はあまり湧かなかった。
「と、前置きはこれくらいにしようか。要は、完全な存在にはなるのは無理でも、少しでもそれに近づくことができたならば、生き物は、人間は、今より幸せになれるんじゃないかと思ったわけさ」
だからね。そう言いながらマレビトが急にずいっとこちらに距離を詰めてきた。下から頭突きを食らわされるかのような勢いだった。
「俺はそれを実験することで確かめたいのさ。君はその被験体」
「じ、実験? 被験体?」
「昨日君に与えたのは”スポーツに関する能力を特定の状況下でのみ完全にする力”だ。いつでもじゃないぜ。君が本当に必要な時、つまり結果がどうしても必要な時にのみ、それらは発揮される。こっちの都合上そういう設定にしておいた」
「それが今日の……」
「その通り。君はこれから君が本当に必要だと感じた時ならば、確実に"結果を残す"ことができるようになった。君が切実に望みさえすれば、当然のようにホームランが打てる。目をつぶっていたってファインプレーができるし、エラーなんて決してしない。素晴らしいと思わないかい?」
マレビトはそんな夢のような話を劇役者のように流れるように語った。そして、その馬鹿げた夢物語に少なからず前のめりになる自分がいた。望んだ時に確実に結果を出せる力。まさに自分が欲しかったものだ。
「君はこれまで何度も結果を求められて、その度にプレッシャーに押しつぶされそうだったんだろう?」
マレビトが語りかけるような口調で囁いてくる。今日だけじゃない、何度も経験してきたどうしようもない重圧が、脳内にフラッシュバックする。思い出しただけでも不快感が襲ってくるようだった。周囲からの期待、日々積み上げてきた自負、そういうものがあればあるほど、失敗すること、結果を出せないことがどんどん怖くなっていった。そんな不安をなんとか振り切ろうとして、無心にがむしゃらに日々を積み上げてきた。ぐらつき続ける積み木の土台を自覚していながら、上に乗せていくしかなかったのだ。一気に崩れてなくなってしまうことに目を向けるのが何よりも恐ろしかったから。
「誰よりも近くに、丸腰じゃ立ち向かえないようなライバルがいて、そいつよりも結果を出さなきゃと思って焦っているんだろう?」
自分にはない途轍もない才能を持ったルームメイト。自分がこの先やっていくにあたって、間違いなく競うことになるだろう相手。中島秀人。人並みよりもハイレベルな環境で野球をやってきた自負はあったが、その中でも他人に対してどう足掻いても敵わないと思ったことは今までなかった。だがこの春、まごうことなき天才である彼に出会ってしまった。どんな努力をしようともこいつには勝てる気がしない。そんなことを思ってしまった。認めたくはないが、それが残酷な現実だった。
「でも安心していい。これからは俺が与えた力が君の味方だ。不完全だったために苦しみに満ちていた過去は終わって、ここから幸せな人生が始まるんだよ」
救いに満ちた、慈愛に満ちた、福音のような語りだった。今日のようなホームランが切実に願えばいつでも打てる。そんなことになれば、本当の天才だって簡単に圧倒することができるだろう。試合前の緊張や不安などももはや無用だ。自分が試合を勝利に導くのは約束されたようなものだし、まして敗北の責任を負うことなど以後一切なくなるのだから。
自分がしくじってチームが敗北しないだろうか? 自分よりも才能のある誰かに不甲斐なく押し退けられて、不要な選手に成り下がってしまわないだろうか? そうしたプレッシャーに幾度となく苦しめられてきた。それらから逃れるべく、努力してきたし、辛いことでも積み上げてきたのだ。しかし、もうそんなことで苦しまなくてもいいとマレビトは言っている。これは積み上げてきた自分へ神様がくれたご褒美なのかもしれない。耳障りの良い、それらしい言葉が頭の中に浮かぶ。
これまで積み上げてきたところに少し外から手心を加えるくらい、ヒデも、周囲も許してくれるはずだ。それがたとえ良くないものだったとしても。
「本当にそれで良いのか?」
心の遠くの方で、待ったをかける声が聞こえた気がした。誰の声なのかは判然としなかったが不思議と懐かしい響きを感じた。こんなにも良いことずくめなのに、何を迷うことがあるのだろうか。そう思っているのに、声は脳裏に響いてなかなか離れなかった。まるで呪いのように。自分は頭を一度振ってその声を無理矢理に思考の奥底に押し込めて黙殺し、首を縦に振った。
それを肯定の意思表示と見たマレビトは満足そうに笑い、唐突にパチンと指を鳴らす。その瞬間、どこか荘厳だった周囲の雰囲気はスッと消え、マレビトも元の芝居がかった軽いノリに戻っていた。先ほどまでは、マレビトの名演説を聞くかのように、不気味なほど静まり返っていた川辺も、蛙や虫たちが息をすることを思い出したかのように鳴き声を鳴らし始めている。
「では契約は成立かな。大いに喜びたまえ。君は今から晴れて俺の
これからもよろしく。そこまで一気に言って、マレビトは最後にニヤリと笑い、こちらに手を差し伸べてきた。握手を求めているらしい。頭の中で押し込めたはずの声が再度警告のように響き、一瞬躊躇った。だが、結局自分はそれに応じたのだった。
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