二回表.

「うおっ! よかった! 目ぇ覚めたんやな!」


 再び意識を取り戻した時、最初に視界に飛び込んできたのは、学生寮のルームメイトであるヒデ、中島秀人ヒデトの、驚きと安心の混じった顔だった。それから見知った木製の低い天井、ゴワゴワの安っぽい布団の感触を順に認識していく。どうやら知らない間に寮の自分のベッドに戻り、寝ている状態みたいだった。


「お、おはよう……?」


「おはよう? とちゃうわアホ!」


 状況を理解できず、とりあえず挨拶から入る自分に、ヒデが大きな声をあげる。そのがっしりした体つきもあいまって、第三者から見れば、まるで息子を看病する父親、とまではいかなくとも、弟を気遣う兄のように見えたことだろう。野球部特待生として、ルームメイトの同級生と比較した結果そんな風に見えると言うのはなんとも情けない話ではあるが、一般人よりは十分体格の良い自分がそう見えるほどに、ヒデはゴツかった。


「いつまで経っても自主練から帰ってんから、心配して川辺の方に探しに行ってみたらな。ソウ、お前バット持ったまま川辺で倒れてたんやで? なんかやたらうなされとったしヤバい感じやったから、とりあえず部屋まで運んで寝かせといたけどもやな……」


 そう言われて、額に乾きかけた濡れタオルが乗っていることに気付く。ヒデの尊敬するプロ野球選手の背番号がプリントされた、赤いスポーツタオルだった。どうやら昨夜、色々と看病してくれていたらしい。


 部屋まで運んで、と簡単に言っているけれど、自分も身体は大きい方だ。寮から川沿いまで近いとはいえ、相当な重労働だったことだろう。


「そうだったのか……マジでごめん」


「ええよ。変に気ぃ遣うな。それより熱とか測った方がええんとちゃうか?」


「大丈夫。たぶん風邪とかじゃない」


 そう言いながらベットから出て、軽く身体を動かしてみる。熱っぽさはなく、動きも特に問題なさそうだ。ほら、という調子で自分の肩をぐるぐる回して見せたけれど、ヒデはなおも心配そうにこちらに視線を向けていた。


 まあ、前日に倒れてうなされてたのを目の当たりにしているのだし、心配になるのも無理はない。ただ、昨日のよく分からない邂逅をそのまま伝えたところで、信じてもらえるとも思えなかった。とにかく、気を遣うなと言われはしたけれど、確実に迷惑をかけたわけだし、今度何か奢ってやらなくては。


 近くのコンビニで何を買ってやるかに思い馳せていると、こちらのことを案じた顔のままのヒデがまた尋ねてくる。


「ほんまに大丈夫か? 今日の練習休んだ方がええんちゃうか?」


「……それ本気で言ってんの?」


 一瞬で自分の声が険悪な調子に変わる。そして自分から発した言霊にあてられたかのように、身体もズシリと重くなった。良きルームメイトであるヒデからの提案であっても、いや、他ならぬヒデからの発言だからこそ、余計にピリピリせざるをえなかった。


 休む? 今日の練習を? 冗談じゃない。あの忌まわしき最後の試合の後も、その後の自分に対する罰の後も、当然春休みも、そしてここに入学した後も、「結果を残す」それだけのために、ストイックに練習を重ねてきたのだ。そして今日はその初戦とも言える大事な日だ。休めるはずもなかった。


「そら今日は大事な日やけど、無理はいかんやろ。体調あっての野球や」


「お前と会って数日の俺でも分かるくらいガラにもないこと言うな。打撃セレクションは絶対に休めない。みすみすお前にアピールの先手を奪われてたまるか」


 入部直後の新人がレギュラー投手と一打席ずつ勝負する、強打の名門天京高校の伝統行事、打撃セレクション。他校の偵察はもちろんのこと、プロのスカウトまで練習場にやってくるほどの重要なイベントだ。ここでの結果如何で今後の野球人生が大きく変わってくると言っても過言ではない。


 もちろん強制参加ではない。体調不良だと言えば休むことはできるだろう。だが、これまで結果を残すためだけに日々練習を積み重ねてきた自分としては、初戦不戦敗などと言う不甲斐ない結果など許されるはずがなかった。なんとしてもここで爪痕を残さないといけないのだ。


 そんな自分の鬼気迫る思いが伝わったのか、ヒデは心配そうだった表情を一転させ、不敵にニヤリと笑った。六畳一間の寮部屋の空気全てが、一瞬でヒデに支配されたような錯覚を覚える。


「まあ確かに、ソウがそない言うんももっともや。俺がお前の立場でもそう言うやろしな。それに俺かて、お前との勝負は楽しみにしとったし」


 決死の覚悟で左ストレートを打ち込んだ相手から、綺麗に何倍も強烈なカウンターを食らった気分だった。ヒデのそのセリフと迫力だけで、情けない自分の硝子の心臓はすぐにすくみ上がり、身体にかかっていた空気の重さは倍増した。追い討ちのように、なおもヒデは続ける。どこまでも強気に、どこまでもカッコよく。


「この代で一番のバッターは誰なんか、今日で白黒つけよやないか」


 豪快。打席でのフルスイングも、人間的な部分も、ヒデを語るならばその一言で事足りた。フルスイングの比類ないパワーと同居する天才的な打撃センス。そうした確かな実力に裏打ちされた無尽蔵な自信、相手を威する圧倒的な貫禄。ひるがえってそれらを全く鼻にかけない普段の裏表のない人当たりのいい性格。どれもこれも、ただ寡黙に努力を積み上げていくことしかできない自分にはないものばかりだった。


 だからこそ、スタートダッシュのこの時期に、誰よりもこいつにだけは遅れを取るわけにはいかないのだ。一度離されてしまえば、追い縋ることすらできなくなる気がするから……


 ヒデに奪われ尽くした部屋の空気の支配権を、自分の声の力で取り戻さんとするように、腹に無理やり力を込める。


「お前と勝負するわけじゃない。相手は天京レギュラーの投手陣。桐生さんのストレート、関さんのスライダー、田丸さんのフォーク。プロのスカウトも来る以上、新入生だからとか手加減は一切してくれない。全力で潰しにくる。俺らは全力でそれを打ち返すだけだ」


「はっ、まあそういう答えもお前らしいわ。さすがは俺のライバルや」


 精一杯の強がりを"お前らしい"と一蹴して、ヒデは楽しそうに笑った。圧倒的な才能との正面勝負を避けたような逃げの口上しか言えない状況が"自分らしい"とでもいうのだろうか。そんな風に自分勝手にひねくれた解釈を展開して、余計に気持ちは落ち込んだ。目の前の余裕を湛えた好戦的な笑顔を見て、つくづく世の中は不公平だと思った。


「お前の覚悟はよう分かった。野暮な心配して悪かったわ。ただ、体調悪かったから負けたとか、変な言い訳はすんな?」


 ……ヒデはいいやつだ。短い期間ではあるが、ルームメイトとして共に過ごしてきて、それは間違いなく言える。ただ、一緒に過ごしていると、こっちの精神だけが勝手にガリガリと削りとられていくのだ。敗北宣言のようになるから、絶対口には出さないけれど。


『この化け物が。お前みたいにお気楽に勝負を楽しんでいられるほど、こっちには才能の持ち合わせなんてないんだよ』


 そんな風にぶちまけてやりたいところをグッと堪えて


「そっちこそ、看病してたから寝不足ですとか言うのはなしな」


 となんとか返し、いそいそと練習着に袖を通す。通した手足の先からは、早くも緊張の蔓が体の中心へと侵食を開始していた。そうだ。こいつとルームメイトであるという事実も、ましてや前日に変なやつに遭遇したことだって、もちろん何の言い訳にもならない。今日必ず、これまで地道にやってきた、その結果を残すのだ。


 午前中いっぱいを使って全体でのアップは終わり、昼食後、ついに運命の打撃セレクションが始まった。寮を出て練習グラウンドに向かう自転車に跨った時には、まだ東の端で起き出したところだった太陽も、今は真上の位置に陣取って、真剣勝負の行方をギラギラと見守っている。


 今日参加するのは新入生全体約百五十人のうち約二十名。これまでの成績も加味し、すでにある程度実力を見込まれた面々が選ばれているのだろう。広々とした天京高校の野球部専用グラウンド。そのバックネット裏、金網の後方、ネットで作られた擬似的なスタンドの向こう側には、イベント開始時点からすでにたくさんのギャラリーが駆けつけていた。


 新入生と現役生の対決が一人、また一人と進むたびに、球場の盛り上がりが静かに、しかしじわじわ確実に高まっていく中


「……ふう。最悪」


 自分はまたグラウンドに併設されたトイレに駆け込み、えずいていた。今朝の練習が始まってからもう五回目だ。また吐けなかった。これまでも大事な場面では時々こういうことになっていたが、今日のは特に酷かった。


 先輩方のピッチング、先に打席に立つ自分のライバル達、グラウンド各所に点在するたくさんのスカウトや野次馬達、それら全ての情報が自分の中に否応なくインプットされて、一つのアウトプットを弾き出す。


『結果を出さなければ』


 世の中結果が全てだ。毎日欠かさず素振りをしようと、毎日自分を追い込んでトレーニングをしようと、負けてしまえばそれまで。努力はただの自己満足に成り下がる。大事な場面で結果を残す。努力は全てそのための過程なのだから。


「おいソウ、お前ほんまに大丈夫か?」


 トイレからベンチに戻ってきた自分にヒデが振り返って聞いてくる。五月蝿い。大丈夫なわけがあるか。誰のせいで今またトイレに駆け込んだと思ってる。目の前であわやホームランかという豪快なファールを何発も見せられた上に、最終的に左中間を破るツーベースを打って、今日のセレクションで唯一のヒットを放ったお前が。自分を含めた同期全員に痛いほどその才能を示しやがったお前が、今更こっちの心配なんてするな。そんな本音が勝手に口から飛び出さないよう、少し俯きながら静かに打席に入る準備を進める。


「大丈夫。大丈夫だから。あいつの次が俺?」


「お、おう。そうやけど……」


「どうも。で、今日の桐生さん、ヒデから見てどう?」


 自分の苦し紛れの強がりを聞いて、ヒデはどこか安心したような表情を見せる。ああ、競争相手に気遣ってもらっているなんて、なんてザマだろう。最低だ。


「ストレートとツーシームはかなり走っとるし、今日はカーブも抜群や。お前も見てたやろうけど、これまでみんなほぼ完璧に抑え込まれとる。俺のヒットも抜けた変化球をたまたま持って行けただけで、コーナーに決まりだしたらまずあかん。やっぱり甲子園経験済みのエースはモノがちゃうわ。早いカウントで仕留めにいかんと、追い込まれたらみんなええように料理されとる」


 ヒデの意見にまったく同感だった。今日の桐生先輩は相当厳しい相手だと思う。昨年の夏の甲子園第四試合。テレビ画面の先で披露されていた、テンポよく打たせてとるピッチングが今日もいかんなく展開されていた。目の前の打者も、その小さくきれこむツーシームに、平凡な内野ゴロに打ち取られた。次は自分だ。


「ソウ、一発かましたれ。俺らの代の意地、見せたれや」


 重々しい足取りでバッターボックスへと向かう後ろから、ヒデがそんなことを言って発破をかけてくる。カメラを片手に視察を続けるスカウトたち、後ろで腕を組み見守る監督コーチ陣、そして何よりお前。同期の中でも誰より共にいる存在にして、きっとまるで敵わない最高の天才バッター、ヒデという存在。ここまでですでに十分過積載だというのに、今度は”同世代の意地”まで背負わせてくるのか。他ならぬお前が? ふざけるな。


 春の日は少しずつ傾き始め、グラウンドで守る先輩方の影は少しずつ伸びてきていた。マウンド上の桐生先輩が一つ息を吐き、汗を拭う。ここまでの投球での疲労は少し見えるものの、表情にはまだ余裕があった。きっと今日の出来が良いことを自分でも理解しているのだろう。


 対するこちらはといえば、メンタルも、それに引きずられて体調も、未だかつてないほど絶不調だった。緊張のあまり今や手足の感覚はほとんどない。吐き気もまだ残ってる。何度深呼吸しても酸素は思うように体に入って来てくれない。


『それでも……結果を出すんだ』


 何度も繰り返したそんなセリフをもう一度心で反芻しながら、ヘルメットを被り直した。静かに左打席に入り、いつも以上にゆっくりと身構える。相手は甲子園級ピッチャーだ。やらなきゃやられる。そう言って弱い自分を無理やり奮い立たせながら、宗忠晴は高校生活第一打席に臨んだのだった。

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