一回ウラ.

 学生寮に程近い大きな川のほとりにある、少し広けたフリースペース。色々探した結果、そこが自分の新たな自主練場所となった。


 こちらの岸の申し訳程度の電灯に加え、対岸の大きな工場の明かりも手伝って、夜が深まってもそれなりに明るいし、川沿いを走ったり散歩したりする住民のためなのか、小さなベンチも等間隔に置かれている。


 土手を寮に向かって越えてすぐのところには、車道に面してコンビニやファストフード、学生御用達の牛丼チェーン店なども軒を連ねているので、夜食や水分補給などにも事欠かない。自主練するには色々と好都合な場所だった。


 そこでそいつに出会った時のことを、自分はこの先の生涯でもきっと忘れないだろう。川沿いの桜はまだまだ満開で、川からの涼やかな夜風で静かに揺れる木々たちが、季節を間違えた大ぶりな雪のような花びらを静かに降らせていた。高校入学式の後初めて迎える金曜日の夜。いつもの通りに日課の素振りをしている最中、不意にそいつは現れた。


「ボールも来ないのにバット振ってたってなんにも起きないよ?」

 

 見当外れなセリフの主は、ヘラヘラと笑いながら土手を下り、真っ直ぐにこちらに向かって歩いてきた。そいつは天京高校の制服を着ていた。どうやら同じ高校の生徒らしい。中性的な顔立ちと声色ではあるが、制服が男子用なので多分男だろう。胸の部分に規定のバッチをつけていないので、スポーツ特待生ではなく一般生だ。唯一そいつの身なりの中で目を引いたのは、首元の、正面に一つ白い珠が付いたチョーカーだった。珠は、夜闇を照らす電灯の光を、淡い虹色にぼんやりと反射させていた。見たことはないが真珠だろうか。


 自分たちスポーツ特待生と一般性とは、そもそも通う校舎から違うため、関わる機会などほとんどない。すでに校内ですれ違ったりして会っているという線も薄そうだった。実際、これと言って特徴のない平凡な容姿にはまるで見覚えがない。ただ、状況的に明らかに自分に話しかけられている以上、無視するわけにもいかなかった。


「素振りしてるんだよ。見りゃわかるだろ」


「何をそんなに怒ってるんだか」


 胡散臭さを感じるほど大袈裟な手振りで呆れた事を表現しながら、そいつはなおも軽やかに距離を詰めようとしてくる。こちらが忘れてしまっているだけでやっぱり実は知り合いなのだろうか。そんな不安を覚えるレベルのフレンドリーさだ。


「俺が見てわかるのは、君が何もない場所でバットを振ってるってことだけ。野球というのはそれを使ってボールを遠くに飛ばすんだろ? 飛距離が出るほど得点が入る」


 微妙に、いや完全に見当外れな事を言いながら、そいつは自分が手に持つバットを指差し「ここまではいいかい?」とでも言うようにこちらを見てくる。


 別段怒っているわけではなかったが、色々あって気が立ってはいたので、明らかに不愉快な表情を向けているはずなのに、向こうは少しも意に介した素振りを見せない。


「でもここにはボールもなければ投げてくれる相手もいない。バットの利用目的から考えて、君のしていることは意味不明だ」


 はい論破。とでも言いたげな雰囲気を出しながらそいつは肩をすくめてこちらを見る。しばらくの沈黙。どうやら今度はこちらのターンのようだ。イラつきをできる限りセーブするべく、極力事務処理的な対応を心がけて回答を始める。


「えっと、まさか本気で言ってるわけじゃないよな?」


「何を冗談だと捉えたのかわからないな。本気も本気さ」


 一回返してやればふざけただけだと種明かしがあって終了だと思っていたのに、相手は意外と強情だった。今度は少し会話に怒気を滲ませる。


「からかいに来たんなら、頼むから帰ってくれ。練習の邪魔だ」


「からかうって君を?」


「そうだ。からかってるとしか思えない」


「失敬な。さっきの完全なる論理に何か綻びがあったってのかい?」


 突然現れた不審者の馬鹿げた話に付き合ってやっているだけでも上等だと思ったのだが、そもそも会話自体がさっぱり成立しない。あくまでも本気で”素振りを理解できない風”を装うつもりらしい。


 妙な高校デビューにこれ以上話を合わせてやる時間も余裕もないのだが、こちらがリアクションしたことによって会話がスタートしてしまった手前、こちらから唐突に終わらせてしまうのも気が引けた。


「……ボールを打つ練習をするには投げる人が必要だ。でもいつも練習に付き合ってくれる人がいるわけじゃない。だから投げる人がいない時には頭でボールが来るのをイメージしながらバットを振るんだよ。……そういう練習を素振りと言うんだ」


 ピッチャーってなんだ、だのとまた面倒なことを言われることも想定し、なるべく丁寧に言葉を選びながら説明してやった。我ながら面倒見のいいことだと思う。


 自分の解説を聞いたそいつは、しばらくの間独りでぶつぶつ言いながら思考するようなそぶりを見せ、やがてパチンと指を鳴らした。静かな川辺の暗がりに乾いた音が響く。動作ひとつひとつがいちいち芝居がかっていてやたらと鼻についた。もしクラスでもそんなキャラで通しているなら、きっと周囲からは疎まれていることだろう。


「ああなるほど。避難訓練みたいなものか」


「……避難訓練?」


 予想だにしなかった単語が返ってきて、思わず怪訝な声でおうむ返しをする。そいつは一人で勝手に納得しながら、解説モードに入った。


「相手がボールを投げてきてそれを打ち返す、という状況が一人では作れないから、不足してるものはイメージで補完して練習する、というわけだろう? 避難訓練も、人間には実際に火事や地震が起きる状況が作れないので、そのイメージを脳内で補完して避難の練習をするわけじゃないか。なるほど一緒だな、と思った次第だよ」


 なんだかよくわからない納得の仕方ではあるが、主張を聞くに、とりあえず意味は伝わってはいそうだった。というかそもそも、いくら野球に疎くたって、"素振り"と言う単語が伝わらないこと自体ありえない。


 ここまでの会話のあまりの空々しさと、話の通じなさそうな雰囲気が、普通に怖くなってきた。高校デビューするにしても、方向性が尖りすぎている。明日は勝負の日だし、もう少し素振りを続けたかったけれど、今日はもう切り上げよう。変なやつからは一刻も早く距離を取るのが得策だ。


 無言のままバットをケースに戻し、学生寮に帰る支度を整え始めるが、なおもそいつは馴れ馴れしくこちらに声をかけてくる。今やバットを振れば当たるかもしれないくらいのところまで距離を詰めてきていた。


「あれ? もう帰るの? せっかく君に美味しい話を持ってきてやったのにさ」


 ……ああ、どうやら自分の見立ては違ったようだ。変な高校デビュー野郎などと言うのはなんとも生ぬるい判断だった。こいつはおそらくアウトローだ。カツアゲとか変なクスリとか、きっとそういう類に繋がっていくヤバいやつだ。そういう奴らは弱ってる人を見抜くから気をつけなさい。と寮に入る前に言ってきたあの母のお節介がまさか現実のものになろうとは。一体どんな特殊能力なのだ。


 そこに思い至った途端、じわじわと心臓が早鐘を打ち始めるのを自覚した。なるべく視界に入れないようにしながら、逃げるようにやつを迂回して、スタスタとその場から離れようとしたが、その後ろからまた楽しそうな声が聞こえてくる。


「カツアゲ、と言うのはまた美味しそうな響きだね。唐揚げとかトンカツのお仲間かい? でも残念ながら、そういう意味の美味しい話じゃないんだなあ。変なクスリ……と言うのは麻薬やドラッグ的なことを言ってるのかな? でもそれもハズレだね。研究対象としてはとても興味深いのだけれど、ああいう手法は好きじゃないのでね。主義に反するというか……まあその辺は今はいいや。ただ、弱ってると思ったから声をかけたと言うのは本当だ。ズバリ的中。母はなんでも知っているってね」


 今度こそ本気で背筋が凍る。脳内の完全トレースをしていなければ決して出ないであろう単語の数々が、心臓の鼓動を加速度的に上げていた。本当に恐ろしい時には身体は動かせなくなるものなのか、それともそいつが自分に認識できない何かをしたのか、さっきまで動いていたはずの足は、まるで地面にびっしり根を張ったかのように動かなくなっていた。


 脳みそは「早くここから離れろ」と警鐘を鳴らし続けているのに、身体はただ嫌な汗をかくことしかできない。パニックのあまり大渋滞する頭の中で「せめてバットを振り回したら威嚇くらいにはなるだろうか」などと必死で思考を巡らせたが


「アッハハ、勇ましいな。でもそれってショウガイジケン? とかキブツソンカイ? とかになるんだろ? 今はめんどくさい世の中なんだからやめときなって」


 「ついこないだ覚えました」みたいなイントネーションで、またも楽しそうに脳内発言を混ぜっ返される。こいつは本気で只者じゃない。きっと代々伝わる天京高校七不思議とかにノミネートされてる類のやつだ。ああ、夢であってほしい。そして夢ならさっさと醒めてほしい。


 そんなことを思っても身体はやはり石みたいに動かない。動けたところで怖くて振り返れないだろうけど。追い打ちをかけるかのように後ろから軽やかに足音が近づくのが聞こえた。さりっさりっと河原の草が踏まれる音が聞こえる。やめろ! 来るな! と心の中では絶叫するのだが、今や喉から上すらもさっぱり言うことを聞いてくれなかった。


「逃げるなんてつれないなあ。俺は君を救いに来たんだぜ? 世に言う救世主ってやつだ。とはいえ」


 楽しそうに言いながらそいつは自分の肩にぽんと手を置いた。脳がパンクした結果、ついに皮膚の感覚までバグってしまったのか、身体中から冷や汗が出ているにも関わらず、触れられた肩の部分から変な熱っぽいものを感じた。


「今の俺はありえないくらい疑われてるっぽいし、なんならそう言うのを通り越してもはや怖がられてるっぽいし、まずは誤解を解くところから、かな。まったく、罰当たりにも程があるってんだよ。俺の心が広くてよかったね」


 その存在同様どこか浮世離れしたような発言に、しかし耳を貸している余裕などなかった。自分の肩にぼんやり光が宿ったようにも見えたが、それはきっと涙で視界がぼやけたせいだろう。高校生にもなってオカルトの類で泣かされる日が来るとは思わなかった、とよく分からないことを心中で呻く。


 自分の目が機能したのはその光景が最後だった。あとはもう、一生開けられなくなるのではないかと思うくらいにしっかりと目を瞑り、早くこの状況から開放されてほしい、とただ願うばかりだったからだ。


「ま、明日になれば、俺が君を救う存在なんだってことは多分わかると思うから、話はそれからかな。もしまた俺に会いたいと思ったなら、今日と同じ時間にここに来なよ。色々面倒だから必ず一人で」


 自分の横に立つバケモノじみた存在はそう言って、そのままポンポンと自分の肩を叩く。話しながらもクスクス笑うのが堪えきれないようで、明らかに馬鹿にされていたのだが、そんなことに気付けるような余裕もなかった。


「貢物は、そうだな……当世風の、なんか面白そうなやつを希望するよ。土手の向こうにあるあの建物とか、俺の知らない色んなものがありそうでなんだか楽しそうだから、迷ったらそこでヨロシク。仕事熱心なことに真夜中でもちゃんと開いているみたいだしね。てなわけで、今後ともよろしく。宗忠晴そうただはるくん」


 なんで自分の名前を知ってるんだ。と考えたその先のことは覚えていない。恐怖のあまりその場で気を失っていたのだ。これが自分と、マレビトと名乗る不思議なやつとの最初の出会いだった。

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