高校球児とマレビト
群青
一回表. プレイボール
そこは選ばれし者だけが立てる聖地。球児たちはその場に立てる幸福を、そして更なる高みを目指せる幸福を、その一瞬一瞬のプレーに込める。
しかし、そこには魔物が潜む。ある者は不安のあまり、普通ではありえないミスをする。またある者は、周囲の期待に応えんとして空回りする。
待ち受ける魔物に仲間とともに勇ましく向かっていく、そんな綺麗な冒険譚などでは決してない。球児たち皆の心の内に常に潜む魔物が、その宿主に牙を剥く。自分の汚い、暗い部分と対峙する。そんなおどろおどろしい物語なのだ。
その物語の舞台は甲子園。全国の球児たちにとっての憧れの地であり、血も涙もない戦場であり、己の弱さと向き合う場所。どうしようもなく特別な……
「車移動中に本なんて読んでたら酔っちゃうわよ」
高速道路から降りるために車線変更を始める母からの忠告に、読んでいた雑誌「月刊甲子園」から視線を上げる。ナビを見ると、これまで二時間ほどかかった車移動も、目的地まではあと数十分と言ったところのようだった。車移動は最近好きではなくなったので、解放されることには安心はする一方、後のことを思うと気が重くなる。気持ちのトータルで言えばマイナスの方が強かった。
「大丈夫だって」
「まあもうそろそろ着くだろうから大丈夫だろうけど。あ、忘れ物とかもし見つけたら早めに言いなさいね」
「昨日何回も見直したし、大丈夫だってば。もう高校生なんだし過保護はいいって」
「それが言えるのは四月になってからでしょ」
「もうあと一週間じゃんか。誤差だよ」
いつまでも子供扱いしてくる母に呆れたように笑って答える。若干その表情が取りづらい感覚はきっと気のせいではない。膝に抱えるエナメルバッグから入寮当日説明用のプリントを取り出す。そこには今日から三年間を過ごすことになる野球部特待生専用学生寮の情報が書いていた。目を落とした瞬間すぐに表情も落ちた。自分が入ることになるのは二人部屋。自分と同じく、野球特待生として今年入学する生徒と相部屋になるらしい。肝心の人物については、このあと寮長より発表があるそうだ。これが今の自分の心が重い理由だった。
部屋番号は二〇四号室。先日この資料を見て母は「マンションとかって縁起が悪いとかで下一桁が四の部屋って作らないんじゃなかったっけ」と縁起でもないことを言っていた。ただでさえ、と一瞬思いを巡らせかけて、その思考を無理矢理止めた。そうやってどんどん連鎖的にネガティブになっていくのが自分の悪い癖だ。
思い出して再び後ろ向きな気持ちが育ち出す兆候を、首を振り、頬をピシリと叩いて追い出そうとしていた時、フロントミラーの母と目があった。少し気まずい。信号待ちをしている母が苦笑しながら違う話を振ってくる。
「そういえば、寮の寮長さん? に何か手土産とかいらなかったのかしら? 結局なんの用意もしていないけど」
「そういうのは禁止だって資料に書いてるって昨日も言ったでしょ」
「うーん、毎年たくさんあるからってことなのかしらね」
表に見える建前としては多分そうだろうけど、裏の思惑もきっとあるのだろう。賄賂というと響きが悪すぎるけれど、それに似た、少しでも印象をよく見せようという競争が毎年繰り広げられるんじゃないかと思う。
寮に住む学生は全て野球特待生だ。ルームメイトであると同時に競争相手でもある。我が子がこれから飛び込む競争に、できる限りサポートをしてあげたいというのは親心として多分当然のことだと思う。もうすでに始まっているのだ。と考えるとまた心がキリキリ万力に締められるような感覚を覚えた。
「なんか難しい顔してるわね」
母が心配そうに聞いてくる。正直、自信がない。特待生として名門高校に入学できた当時は曲がりなりにも嬉しかったのに、今では本当にそれが望んでいたことなのかすら分からない。全国から集う才能の塊たちと、これまで通り努力だけで渡り合うことなんて、到底無理だ。
「嫌になったら、いつでも帰ってきてもいいんだからね? 相談にだって乗るし」
「いや、大丈夫」
優しい気遣いには言葉少なに返した。そうしないと、不安が口をついて出てしまって、せっかく固めてきた決意が簡単に瓦解しそうだったからだ。入寮日の当日になってそんなことになるのは絶対避けたかった。信号が青に変わり、車が再び走り出す。ナビからのこの先数百メートル直進、という無機質な指示が車内に響いた。
車に揺られながら、気を紛らわすようにぼろぼろのグローブと、もう何代目かもわからない手入れ用具一式をエナメルバッグから取り出す。こんなになるまで練習してきたのか、と感じるその心境はなぜかどこか他人事のようだった。
「そういえば、これからも日課の自主練はやるの?」
「うん」
「……そう。ちゃんと場所はあるのかしら」
「多分。名門なんだしあるでしょ。なければどこか探すだけだし」
「そう? まあ他の人のご迷惑にはならないようにね」
母は苦笑しながら一言付け足す。
「ほんとに好きなのねえ」
それには何も答えないまま、黙々とグローブの手入れを続ける。少し古びた革の感触、数年の歳月を経てついたほのかな土の匂い。それらがまるで自分の手になっていくかのように、静かに馴染んでいく。隣の座席に無造作に置いてあるバットにも少し目線を移し、先程の母の言葉をもう一度頭の片隅で反芻させた。その時自分がどんな表情をしていたのかは、ミラーに目線を向けたくない自分には確かめようがなかった。
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