57話
「だ……脱走ですかっ?小──204が?」
上司の能登谷からの突然の電話に、城崎は生きた心地がしなかった。横目に飼い犬の小春を見る。彼女も不安げな表情だった。痒いのか、しきりに目をこすっていた。その目は仄かに赤みがさしている。
「目下、捜索中だが……今回はやられたよ。奴は首輪を外された今夜に逃げたんだろうな。それで警報装置が正常に作動しなかった。犬人には位置情報チップを体に埋めりゃいいのにと俺は何度も上に言ってたんだが──」
能登谷の無駄話は耳を通り抜け、城崎はこの場をどう切り抜けるか模索する。ここから音信不通になって、職場にも赴かないものなら、それは小春を奪取して逃亡したことを事実上ドリームボックスに伝えることになるだろう。
──いいや、今更……何を恐れてるんだ。
城崎はぐっと不安感を胸の奥へとしまう。どのみち彼は職場に戻る気はなかった。
追われることになろうと構わない。小春のその命が尽きるまで地の果てまでも逃げてやる──。そんな歪んだ決意が形となって、彼の口を動かす。
「あの、能登谷さん。そうは言われましても……前みたいに偶然204の脱走現場に居合わせたりしてるわけじゃないので。僕はお力になれないと思うのですが」
「そんなこと分かってる。だが、お前は奴の元担当だろ?それに195から担当を外された今だって、204の方に随分入れ込んでるみたいじゃないか?処分が決まってるのにな」
鼓動が早まった。まさか能登谷は今回の逃避行について勘づいてるのだろうか。城崎は「それはそうですが」と曖昧に濁す。
「これから夜通しで捜索する。お前も来れるなら来い。少しでも人手が欲しいんだ。犬の行動原理や心理を勉強してきた人材が特に」
「そうですか……」
早く電話を切っておくべきだった、と城崎は思い悔やむ。益々逃げづらい状況になってしまった。
「お前今どこにいるんだ?」
「名古屋周辺です。ドリームボックスに行くのはちょっと……」
「この平日に何してんだよ」
「……クリスマスイヴなんで、少し街中を。察してくださいよ」
「お前、女なんていたのか?はぁ……いいさ分かったよ。お前は別にいい。じゃあ樗木にでも当たるから」
多分、樗木も似たような理由で断るだろうが、そのことは城崎は口に出さなかった。
ぷつりと電話が向こうから切られる。どうやら城崎が小春を連れ出し、共に遠方へ逃げようとしているなんて突拍子もない事態は、流石の能登谷も想定できていないようだった。
「しろさき」
深くため息をつき、端末を持つ手を座席に惰性で下ろす研究員に、助手席に座る犬人の少女が声をかけた。
「どうした小春?」
「このままだと……しろさき、本当にドリームボックスにいられなくなっちゃうよ?」
「何度も言わせないでくれ。僕は今の職場も住む場所も捨てるから別にいいんだよ。そんなくだらないこと……」
「どうしてそこまでするの?」
要領を得ない小春に、城崎は物覚えの悪い子供を相手している気持ちになった。どうして分かってくれないんだ──。彼は半ば投げやりに返事する。
「……全部君のためにやってるのに」
「ウソ」
小春は今までになく冷たげに発した。彼女は何の話をしているのだろうか。
城崎は、怪訝な目つきで小春を見る。彼女は信じられないようなものを眼前にしたように固まり、どこか上の空といった様子だった。
「嘘って……何が?」
「ね、しろさきって私のこと好き?」
小春の泣き声は変わらず冷たい。それでいて、憤怒で煮えくり返ったかのような感情の昂りをどこか感じさせた。何の話をするつもりなのか分からず、城崎は呆気に取られながらも頷く。
「そうなんだ。ならね、なら……その、ケータイの画面……なんだっけ?待ち受け画面っていうの?それにさ、どうして私以外の犬が写ってるの?」
彼女は、飼い主が手に持つ携帯端末を指さした。能登谷からの電話を終えた端末はまだ電源がついていた。その画面には、昔の愛犬ことシロを遠くから捉えた古い画像データが背景画像として設定され、映し出されていた。
城崎は絶句した。小春に──シロのことは未だ伝えたことはなかったのである。二匹の犬種は同じ柴犬の雑種だ。
小春からすると、愛する飼い主の端末に自分と同種の──それでいて、自分ではない犬の写真が収められていることになる。
「あっ──いや、違うんだ!これはっ!」
咄嗟に端末を隠して電源を落とそうとするが、瞬時に小春から奪い取られた。慌ててそれを取り戻そうと手を伸ばすが、犬人の動体視力によって、ことごとく動きを先読みされて避けられる。万年筆の時と同じだ。
狭い車内の中であっても、貧弱な身体能力の飼い主は少女の手からそれを取り上げることはできなかった。
「……なにも違わないよね?」
小春は失望した様子の暗い瞳でせせら笑う。城崎が端末を取り返すことを諦めると、彼女はそうして苦笑いの表情で暫く黙って、じっと画面を食い入るように見ていた。
だがある時、途端に堰を切ったようにその顔が歪むと、瞬く間に少女の泣き顔になった。車内全体に少女の押し殺した泣き声が溢れる。
「小春!ごめんっ。これは本当に違うんだよっ!僕は、僕は小春だけが──」
「黙ってよ!!」
研究員は犬人の少女の肩に手を置いて弁解しようとするも、強く拒まれ振り払われた。
ぎょろりと小春に睨まれて、城崎は息が止まりかけた。深い群青色にコバルトブルーの絵の具を何滴か垂らしたかのような青く美しい色合いの彼女の瞳。その周りの白目は充血して酷く血走っている。
小春の息遣いは荒く、かつて屋上で195と対峙した時以上の敵意を今は飼い主に放っていた。彼女からの殺意は、城崎も何度か受けたことがあった。出会って間もない頃、糧食を取り上げた時も、書籍を返還するよう迫った時もそうだった。その後の地下牢でも鉄格子越しに遠慮のない威嚇を受けた。しかし今回はそれらよりも格段に強いものだった。怒りも、悲しみも。
「……私ね……私、わかっちゃったの。ぜんぶ。ぜんぶね」
肩で息をし、僅かに冷静な言葉遣いになった小春。ついさっきまでの怒りのボルテージは嘘のように抜けて、彼女の犬耳と尻尾は死んだように垂れて微動だにしなかった。それは犬にとっては最大限の負の感情表現だった。悲哀に打ちひしがれる小春に、城崎は何も言えなかった。
「前からずっと不思議だったの。しろさきが、私と会ったばかりのあなたが、なんで私なんかに一生懸命になってくれるのかって。でも今……わかったよ」
小春は助手席の上でちょこんと正座座りし、運転席側に体を向ける姿勢だった。彼女は涙を手で拭っている。掌で受け止めるようにしても抑えられないほどの涙が湧いて、彼女の太ももに雨の如く落ちた。変装用の彼女のロングスカートが涙で濡れる。
「ね……しろさき。この世界ってさ、二十年ぐらい前に変な病気がひろまって……それで病気を人間に運んでくる犬が殺されちゃったんだよね?」
「……そうだ」
呻くように答えて、城崎は彼女が言いたいであろうことを説明する。
「それまで犬の間でしか流行らなかった感染症が人間にも伝染するようになったんだ。沢山の人が死んでいったよ。世界人口がたった数年で全盛期から三割も減るぐらいにね。それだけ……人と犬の接触が多かったんだ」
シロのことが頭によぎった。
研究員は彼女に言葉を絞り出す。
「冷戦……昔はそういう時代があったんだけど、それの終結以降、人類は初めてこの感染症で絶滅の危機に晒されたんだ。実際、先進国の中でも無政府状態になった国もあった。ウイルスに対抗する手立てがまるでなかったんだ。だから……人は選んだ。感染源を断ち切る──公衆衛生保全のための虐殺を始めたんだ。一ヶ月で……地球上の犬の九十九パーセントが殺された」
城崎は小春を見た。犬人を。人間が造り出した──恐ろしいモノを。彼女は下唇を噛んで涙ぐんでいた。
城崎は彼女と目を合わせているのが辛くなり、視線を伏せて続ける。
「そこで一旦は止まった。感染症はなくなった。でも、色んな国が感染症の再発を恐れた。だからこの国は、ドリームボックスを築いて……人と犬の共通性を見つけるため、遺伝子工学技術を用いて極秘の研究を始めたんだ。そして禁忌を犯した。人と犬を結びつけたんだ。犬人は、そうして生まれたんだ」
「……私、そんなこと聞きたいんじゃないの」
小春が耳元で囁いた。はっとして、城崎は顔を上げた。彼女の手にはシロを映す携帯端末が握られている。
「それで、しろさきは感染症で……この犬と別れちゃったんだね?」
「……そうだよ。飼い犬じゃなくて、この子は野良犬だった。君と同じで最初は全然懐かなかったけどね。段々仲良くなってさ。でも、感染症騒ぎで……会えなくなった」
「この犬もしろさきも病気にならなかったの?」
「うん。この子は雑種だったんだ。だから血が綺麗だったし、感染症にはかからなかった」
「血がキレイ……?ごめんねしろさき、ちょっとわかんないや」
難しそうに首を傾げる小春に、城崎はかいつまんで解説した。
犬は遥か太古から人間と関わってきた動物であること。人間に奉仕するように交配させて生まれたので、様々な種が存在し、他の生物たちとは全く異質な進化を遂げてきたこと。けれどこの過程で、「犬種」という理想を無理に維持するために、人間は犬を血の近い個体同士で交配させ、犬そのものを遺伝学的に脆弱な生物にしてしまったこと──そして現在まで続いた「犬種の維持」により、遺伝的多様性の乏しさが起因となり、感染症が壊滅的に広まってしまったことを。
小春はそこまで聞くなり、わざとらしくため息をついた。
「……イヤな話だね。しろさきがこの犬と別れることがなければ、私はこの世に生まれてないもん。病気がはじめからなかったら、私なんてここにいないし、しろさきはこの犬と楽しくすごせたんだよね」
「それは……憶測というか、もしもの話だろ?結果的には僕の隣に……その、小春がいる」
「はぐらかさないで。じゃあさ、つまり私って、この犬の代わりだったの?」
「それは──」
「この犬の名前って……もしかして、しろ?」
小春が悲しげに言った。
思わず城崎は息を呑んだ。彼は犬人の彼女に命名したあの日のことを思い出した。小春という名前を思いつく前に、自分の口が発していたのは、昔の愛犬の名前だった。そのことを彼女は今でも覚えていたらしい。
過去の小春に聞かれた質問も思い起こされる。
『しろさきは犬飼ってたの?』
以前から小春は、城崎という飼い主の無償の愛情をありがたく受け取りながらも、心のどこか片隅ではやはり少々おかしいと感じていたのだろう。それが犬の勘なのか、それとも女の勘なのかは分からないが。
「……そっか、そういうことだったんだね」
小春は独りでに続ける。
「だからしろさきは、私にシロって名前をつけようとしたんだ。それでシロがいないから、私を……シロに見立てて可愛がってくれてたんでしょ。そういうことになるよね?」
飼い主は黙る他なかった。その沈黙が首肯の裏返しであることは小春にも読み取れたそうで、彼女は顔を両手で覆った。
「しろさきのっ……バカ。バカ……!」
車内には再び彼女の泣く悲痛な声が響き渡った。
とはいえ、城崎の沈黙は全てを肯定した訳ではなかった。確かに小春とシロは似ていた。研究施設内でぞんざいな扱いを受けて、人を信じられなくなって孤立していた小春の存在に、かつての孤高の野良犬・シロの姿を城崎が心の中で勝手に重ね合わせて、彼女のために行動していたのは事実だ。しかしその後、本格的に関係を構築するにあたって、小春はシロに似ていたものの、やはり根本は人間の少女であり、両者が違う存在であることを城崎は思い知った。
その上で、小春のことも大切に思うようになった。どれだけ職場から低い評価を受けようと、同僚から蔑まされようと、小春のためならどんな屈辱にも耐えられたのはそのためだ。
ただ、ここでそれを伝えたところで小春の嘆きはおさまらないだろう。どのみち彼女からすれば、自分が誰かの代理として愛情を注がれ始めたことに変わりはないのだから──。城崎には、発言が許される空気になかった。そのことを彼自身がよく心得ていた。彼にしても惨めで死にたくなるような時間だった。その後何分か経っても車内は重苦しい沈黙で満ちたが、泣き疲れた小春が背もたれにぼんやりと頭を預けて、腹話術の人形のように生気なく口を開く。
「……しろさき。私ね、怒ってる」
「うん」
「嫉妬深いかな?しろさきが他の子といることも、昔にいたことも、ぜんぶ許せないよ」
傷心の彼女は身体をなんとか起こすと、飼い主の方に仰向けに寝転がった。彼女は車の天井と城崎の顔を見上げながら、片手の小指を掲げる。
「でも私、今ね……もうそんなのいいの。だって決めたの!しろさきが幸せなら、なんでもいいんだって」
彼女は飼い主の膝枕に心地よさそうにしながら笑った。それが作り笑いなのか本心の笑みなのか、城崎には判断できなかった。
「小春?」
「ううん。小春って呼ばなくてもいいよ。シロでもなんでも、しろさきが好きなように呼んでくれればいいんだよ。だから約束して?私が死んでも、もうシロや私の代わりなんてつくらないこと……」
先程から彼女の言い分を否定しなかった城崎であったが、そのあまりの申し出に耐えきれず、彼女を上から抱きしめた。
「ち、違うっ。違うんだよ小春……ごめん。ごめんな、本当にすまん!最初はな、小春が言ったみたいに君のことをシロの生まれ変わりのように扱っていたよ。でも今は……君が大切なんだ。シロじゃない。小春が大事なんだっ。本当なんだ!」
「ほんと?」
城崎は無言で何回も頷き、しっかりと彼女の身体を抱きしめた。少女の全身はとても熱かった。
起き上がり、ぐるりと身体の向きを反転してから、小春は城崎の鼻先に自分のそれをぴたりと合わせた。呼吸が聞こえるその距離で、小春はいつもの微笑混じりの口で呟く。
「なら、一個だけお願いを聞いて?」
「いいぞ。なんでも……」
「ドリームボックスに帰ろ?理由は聞かないで。それが、一番しろさきのためになるから」
城崎は困り果てて逡巡したが、やがて静かに頷き、小春の頬に小さくキスをした。
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