56話
街中は夜に沈んでいる。
一人と一匹はその後、何件か雑貨屋を巡ったり、本屋などに立ち寄ったりした。両者とも空元気を絞り出し、まるでツリー脇のベンチでの会話は初めからなかったかのようにして楽しい時間を過ごした。何回も笑い合い、何枚も写真を撮った。その様子は、傍からは年の離れたカップルか仲の良い兄妹に映ったかもしれないが、一人と一匹はあくまで飼い主と飼い犬だった。
クリスマスプレゼントということで、城崎は財布を気にすることなく色々と買い込んだ。少しでも小春が気に入った素振りを見せたらすぐに買ってやった。小さなインテリアや書籍が主な物だった。
一人一匹の並んでの散歩は、小春が興味を示した所へひたすら歩くというもので、行き当たりばったりだったが、街中ということもあってか話題には退屈しなかった。買い物デートも無事に済み、ぶらぶらと街中を巡り歩いてから、一人と一匹は車に戻っていた。
後部座席が買い物袋で埋まりきっていたわけではなかったものの、小春は何も言わずに助手席に乗った。変装用のニット帽とリュックを外し、隠していた犬の部位を全開に広げる彼女を横目に、城崎はエンジンを入れて暖房をつける。
「帰る?」
彼女は運転席にいる飼い主に首を傾げて訊ねた。
「そうだな……君をドリームボックスまで送らなきゃならんし」
城崎は名残惜しそうに言って、助手席にいる小春にシートベルトをつけるよう指示する。
「……うん」
雪はもう止んでいた。暖房を調整してから駐車場を出る。何時間も停めていたので料金は高かった。
夜の街。長く続く道路。等間隔に並んだ照明灯が夜の空を切るように、過ぎ行く車に近づいては遠ざかっていく。季節行事の街中だが、渋滞ではなくスムーズな走行を保っていた。その間、なんとなく会話はなかった。抑えていたベンチの時の空気感がまたじわりと出てきた。
車が交差点の赤信号で止まる。車は停止したが、車内に燻っていた沈黙は加速した。それを取っ払うようにして、城崎は助手席にいる小春の右肩に手を置いた。その手は次第に少女の頬へと伸びる。
「しろさき?」
「眠くないか?初めての外で疲れただろ」
「ちょっぴり」
小春は、城崎の手に自身の手を這わせる。どちらの手も温かく、血の巡りを互いに感じさせた。それからまた数秒の静寂があった。城崎は短い深呼吸の後、思いつめた表情で口を開ける。
「……あのさ。このまま逃げるか?」
視線を向けずに彼はそう問いかけた。それは突拍子のない質問だった。
感情の起伏がないその声に小春はどきりとする。恐怖を覚えたのではなく、飼い主の中には何か揺るがすことが出来ないほどの強い決心が芽生えていると悟ったからだった。
「え?逃げるってなんのこと?」
「分かってるんだろ、小春も」
はぐらかすように茶化して聞き返した小春だったが、城崎の重い切り返しで口を噤んだ。直前に察した、飼い主の決心というのはやはりこのことだった──。肯定も否定も示せない小春は、彼の手を絶えず握っていることしか出来なかった。
「今日は楽しかったな──……。でも今日みたいな日は多分もう来ない。だろ?」
小春は相槌も打てなかった。
赤信号は未だ青く灯らない。
「首輪の件があったから今夜は君を外に連れ出すことができた。けど、残りの数ヶ月の間に同じことが都合よくあるとは僕には思えない。だからさ、小春……」
フロントガラス越しに赤信号だけを捉えていた城崎の視線が助手席へと滑るように移る。
「なに?」
「やっぱりドリームボックスには戻らないことにしないか?それで……今から僕と一緒に逃げないか?」
小春は目を見開いた。
*
同時刻。佐中はドリームボックス南棟最下層にある生成プラント区画にて、独りで冷めきった紅茶を飲んでいた。
彼は仕事の間にここに立ち寄ることが多かった。このエリアは上層部の面々と、他に作業を許された極小数の人間しか立ち入ることが許可されておらず、下っ端の研究員からは幾分と都市伝説のように恐れられるような場所だった。
あながちそれも間違いではないな、と佐中は薄く鼻で笑う。プラント内には莫大な量の液体が貯められている。それは犬人製造には欠かせない原形質培養液・あばら液。このドリームボックスがどんな侵攻からも守り通すべき代物だった。
あばら液が満たされているのは、水泳用のプールに似た貯水設備であり、それがいくつもこの広大な地下空間にずらりと整列されている。いつ見ても壮観だと佐中は思った。本物の犬人を飼育する地上の施設階よりも、こちらの方が遥かに厳重な監視と管理の元に守られていた。そこを一望できるプラントの指揮所に佐中はいた。ラジオの放送局のような内装だが、違う点は、プラント全体を眺めるために部屋の半分が露出してガラス張りになっていることだ。
佐中はそのガラス越しにあばら液を見ながら、もう一口紅茶を飲んだ。ここは彼にとってはやり落ち着く場所だった。
だが後ろで扉の開く音がした。振り向きもせずに佐中は「誰だ」と発する。彼にはもうそれが誰なのか分かっていたが、入室してきた人間に対する牽制の意味合いもあった。
「いやぁ探しましたよ、主任」
飄々としていて掴みどころのない声。佐中の予想通り、指揮所に訪れてきたのは部下である能登谷だった。相変わらず彼は「所長」呼びはしない。
「何の用だ?」
「まだ施設に残ってると聞いたんであなたのお部屋に行ったんですがね、いらっしゃなかったので。まったくどうしてこんな夜中にこの場所に?」
「質問にだけ答えろ。用件を言え」
佐中はようやく部下に顔を向ける。身体は変わらずプラントの方で、尻目にあしらうといった感じだ。上司のその態度の悪さに、能登谷は喉の奥で笑ってから、わざとらしく肩を
ぎろりと佐中は能登谷を睨む。それにもお構いなしに彼は近づき、抱えていた資料──数十枚からなる紙の束を手渡した。
「例の204の経過観察記録をもういっぺん確かめたんですが、ビンゴでしたよ。どうも計算が合わなかったんです。主任の仰った通りでした。これは大幅な下方修正が必要ですね」
「……そうか」
奪うようにその資料を受け取った佐中は、部下に早く退室しろと言わんばかりに視線を強めた。
「何か?」
能登谷がへらへらと視線の含意を訊ねてきた。あまりに鬱陶しかったので、佐中は隠す様子も見せずに舌打ちする。
「暇だろう?204のデータ採取を今からでもやってくれ」
*
赤信号が青く染まる。凍りつくように固まっていた城崎はそこではっとして、小春から前方へ意識を戻すとアクセルを踏んだ。
道路を車が走る最中、小春は今さっき飼い主から投げられた質問を自分の中で噛み砕いたのか、やがてぽつりと呟く。
「それって告白?」
「……間違いではないな」
城崎は運転しながら飼い犬の言葉を笑いもせず肯定した。
「小説で読んだことあるもん。これって逃避行ってやつだよね?」
「そうだな。で、小春。どうなんだ?もちろんいいよな?僕と一緒に来てくれるよな?」
「……今のしろさき、ちょっと変だよ?ねぇどうしたの?」
「どうしたもこうもあるか」
吐き捨てるように城崎はハンドルを切り、乱暴に曲がり道を大きく右折した。
「周りが君の生存を拒むなら、僕も周りを拒んでやる。それで……小春が生きられるなら、今の職場も住んでる場所も全て捨てるって言ってるんだよ」
城崎は近くで車を停止して路駐させる。それから助手席にいる小春の方に身体を向けて話を続けた。
「な?どこか遠くに行こう。ドリームボックスの手が届かない所に一緒に住もう。誰の目も気にすることがないような静かな土地に……」
ぶつぶつと言う城崎の目は努めて穏やかなものだった。それを聞いて小春は俯いた。靴を脱いで足を席に上げた彼女は、助手席の上で体育座りのような姿勢をとった。
「しろさき。私のこと大好き?」
「当たり前だろ。大好きだ。じゃなきゃこんな話をしない」
「……そんなストレートに言われると、どう照れていいのかわかんないよ。私ね、前にも言ったけど──しろさきのことが好きで好きでしょうがないの。どれくらい好きかっていうとね……ううん、例えられないぐらい好きなの」
「なら──」
「でもね、ダメだよ。帰ろ?」
「……どこに?」
城崎の顔から笑みが失せた。
「どこって……ドリームボックスだよ?」
次の瞬間、小春の左頬に衝撃が炸裂した。肉と肉がぶつかる鈍く鋭い音が車内に伝わる。咄嗟のことに彼女は何が起こったのか呑み込めず、ひりひりと痛み始める顔の半分に手を当てることしか出来なかった。
他でもない城崎が──飼い犬の小春に平手打ちしたのである。
「……え──っ?なんでっ?えっと、し……しろさき?しろさきが、なんで私のことを……っ?」
「君は僕の犬だよな?」
「う。うんっ!当然だよっ。それは……そうだけど」
冷ややかで
「なら言うことを聞いてくれ。頼むから。小春が何を考えてるかは知らないが、僕はもうこれ以上犬を失うわけにはいかないんだよ。従っ──」
電子音の着信音が後部座席に置いていた城崎の鞄から漏れる。間が悪いことに電話が鳴ったのだ。
「……出ないの?しろさき」
「もういいんだ、こんなの」
城崎は眉間に皺を寄せた。鞄から携帯端末を出すなり、電話先の主を確認することもなく端末の電源を切ろうとしたが、小春は彼の手を掴んだ。
犬人の力でしっかりと、それでいて口は少女のようなたどたどしい論調で、飼い主を宥める。
「私ね……しろさきにはお仕事やめてほしくないの。仕事してるしろさき、すっごくかっこいいもん。資料まとめてたり、パソコンで何かしてる姿とか……だからねっ。そのね……!」
「だから電話に出ろってか?笑わせないでくれよ小春。あんなに僕が他人と会話するのを忌み嫌ってたのはどこの誰だ?」
ずいっと睨まれて、小春は萎縮した。
「それは……私、私だよ。ごめんなさい。私、お仕事のジャマはもうしないから……しろさき、お仕事して?」
電話先の主はかなり切羽詰まった事態なのか、数十秒経ってもコールは鳴り止まなかった。
城崎は小春を見つめていたので誰が電話してきているのか知らなかったが、大方、また樗木が変なことを言い出すのだろうとうんざりしていた。そんなことよりも、城崎には小春の言動の意味がまるで把握できなかった。
「……小春。どうして分かってくれない?施設に大人しく帰ってみろ。三月の殺処分で君は殺されるんだぞっ?でもここで逃げれば……もしかしたら、犬人としての寿命を迎えられるまで長く生きられる可能性があるんだぞ?」
微かに充血した目で怯える小春を前にして、城崎は途端に正気に戻りかけた。さきほど大の大人とあろう自分が、歳下の少女に手を上げたことに凄まじい罪悪感を覚えたのだ。
だが城崎も必死だった。飼い犬の延命のため、彼女自身を諭そうと懸命に語りかけた。
しかし小春は首を振る一方で、殺処分の話が上がっても尚、何故か施設に戻る主張を下げることは決してしなかった。
車内に響きわた着信音は一度止んだものの、再度かけ直されてから、またしつこくコールが鳴っている。
「電話……出てよしろさき」
一人と一匹は車内での口喧嘩に近い感情のぶつかり合いを終えて、心身ともに疲れ切っていた。
「……そうだな」
施設に戻る姿勢を崩さない小春を相手に、城崎は一旦彼女に譲歩して、態度や会話の空気を和らげることを目的に渋々電話に出ることにした。
ため息をつきながら、端末の画面に浮かぶ応答の文字を指でスライドする。
「もしもし?」
「やっと出やがった!おい城崎っ!」
電話先は上司である能登谷だった。彼から珍しく緊迫した声が伝わってくる。
──まさかっ。
背筋が凍った。城崎の額にだらりと汗が垂れた。
「204がいないっ。脱走だ!」
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