55話

 クリスマスイヴの街並みはどこもかしも人だらけで、視界には必ずと言っていいほど、色鮮やかなイルミネーションの光があった。

 車を駐車場に停め、ひとまずの目的地であるツリーを目指す道中。城崎と小春は自分たちを横切るカップルたちに紛れて、手を繋いで歩いていた。


「しろさき。服、ありがとね」


 小春は今にもスキップしそうな軽やかな足取りで、横にいる研究員に微笑む。マフラーに埋まる彼女の小さな口からは白い息が出た。

 そこにいるのは犬耳と尻尾の存在を悟らせない、ごく普通の少女だった。城崎は彼女に顔を向ける。


「どういたしまして。似合ってて可愛いよ」

「んふふっ」


 今の小春の犬耳と尻尾は外からは全く見えなかった。誰の目にも、その辺にいる女の子にしか映らないことだろう。

 城崎が事前に調達した変装用の服は充分に効果を発揮していた。一回り大きいニット帽は彼女の耳をすっぽりと隠し、背中と接する部分に穴を開けた、女子高生に人気なブランドのリュックは彼女の尻尾を収納している。外からだと彼女の犬の部位は完全に見受けられない状態だ。

 ニット帽とリュック以外の服も、このデートのためだけに用意した。犬人の施設内での冬着は一般人も着用するようなパーカーだが、逃亡対策として上下とも群青などの色を用いた特徴的な色合いの服となっているので、万が一ドリームボックスの関係者に見られると一瞬で事態が発覚する恐れがあった。

 そこで城崎は、F型がベースの小春のサイズに合う服を予め通販で購入しておいたのである。女性のファッションに疎い城崎にとっては、これが脱走作戦で一番悩んだことになった。

 とはいえ──。城崎は満足気に小春を横目に見る。彼女の服装はどこもおかしくない。むしろ似合っていて普段に増して可愛らしかった。時間をかけて選んだ甲斐があったと素直に思えた。変装における数少ない懸念としてあったのは、F型犬人に特有の白髪と青い瞳のことだが、これは周りから浮くほどのものではなかった。

 現に、小春を注視する通行人は一人もいなかった。現在の日本は犬の殺戮の原因にもなった犬由来の感染症による人口減から立ち直れておらず、外国人労働者の受け入れを積極的に行っている。なので髪や目の色への関心が昔よりも薄くなっているし、高等学校なども欧米化に伴って髪染めやカラーコンタクトなどの規制が格段に弱まっているのが現状だ。


 ──そういえば、F型は日本人の少女がベースになっていると聞いたが?


 小春の格好について少し考えていた城崎は、ふとその事が頭に湧いて出てきた。

 犬人は、原形質培養液・あばら液という言わば人工的な生命のスープの中に、人間と犬を組み合わせた遺伝子を投下して栄養を送ることで製造される。双方の遺伝子情報の種は、犬人の子宮とも言うべきドリームボックス最深部の生成プラントと共に厳重に保管されているらしい。施設内でも上層部の人間しか立ち入ることが許されていないので、城崎も実物は見たことがなかった。


 ──日本人の遺伝子を起用しているのに、どうして小春たちF型の髪色は白いんだ?


 犬人の製造方法についての論文を読んでも、そのことについては何も言及がなされていない点が余計に不自然だった。F型以外の種は元の人間の髪色をしているが、F型だけは違うのである。

 これは一体どういうことなのだろうか──疑念が止まらないが、この辺で城崎は中断する。それを知ったところで横にいる小春の価値は何も変わらないのだから。


 人の波に揺られながら、街中のだだっ広いタイル張りの歩道を歩いていると、当初の目的地たるツリーがその姿を覗かせてきた。小春の目が一層の輝きを放つ。


「わっ!ね、見てよしろさき、あれ車の中から見たツリーだよ!」


 小春が駆け出しそうになるのを察知して、城崎は彼女の肩を抱き寄せるようにして制止する。


「分かってるって。慌てなくていいから」

「あ……ごめんね!外ってこと忘れちゃってた」

「次から気をつけてくれればいいさ」

「うん……」


 犬人の全速疾走は自家用車に引けを取らないスピードだ。街中で彼女が普段のように走ってる様を披露したものなら、ネットでは大騒ぎ、翌日には連れの男性こと城崎がドリームボックスから追放されるのは容易に想像できる。


「行こうか」


 小春の手を引くようにして、他の通行人たちと同じペースでゆっくりと移動する。

 街中なのにやけに静かだった。人のざわめきがないわけでもないが、クリスマスイヴの今夜は街全体は厳かな空気感に浸されているようだった。微かな高揚感にあるといって良いだろう。人混みが絶えない都市部が嫌いなはずの城崎も、この時ばかりはこの奇妙だが美しい空気を堪能していた。間隔を開けて整然と立ち並ぶ橙色の街灯が、一人と一匹をはじめとした街の人間たちを優しく照らしてる。そこに小ぶりな雪の結晶が舞い、幻想的な空間を演出する。

 小春もこの空気に呑まれるように、蕩けたような表情で歩いていた。彼女は横にいる研究員の腕に巻きつく形でくっついている。その少女を見下ろす城崎は、この時の小春がなぜか愛情を注ぐ犬には見えなかった。その訳もわからず彼は当惑した。


「なぁ」

「ん?なに、しろさき?」

「その……なんだ。あれだ、耳と尻尾が外に出てないと、どんな感じなんだ?やっぱり不自由なのか?」


 城崎は自身の内に潜む妙な気持ちを振り払うべく、雑談がてら小春に聞いてみる。彼女の方は考える仕草をして、自分の耳をニット帽越しに摩った。


「そうでもないよ?しろさきみたいにフツーの人間よりね、犬人は感覚が大きいから。隠してても問題ないよ。今だって、しろさきの声はちゃんと聞こえてるし」

「そうか」

「いつもはどっちとも外に出てるけどね……。あ、今の私は私服ってことになるのかな?」


 今度は小春から質問をされた。


「そうだと思うけど」

「ふぅん。じゃあしろさきとおそろいだね。しろさきも今は私服でしょ?」


 小春がまた身体を寄せてくる。城崎はぎょっとすることもなく、それに呼応するように腕に巻く彼女の手を握った。


「そうだな。おそろいだ」

「うんっ。えへ、一緒だね?私たち」


 一人と一匹はそうして、この街の空気感に合わせるように、控えめながらもどこか甘ったるい会話をしていた。

 少し経ってお目当てのクリスマスツリー付近に到着する。ツリーの背は高く、頂点には大きな星のオーナメントがある。

 見上げるその先は高層ビル群が作り出した四角い空が浮かび、そこに星は見えなかったが、夜空の代わりとして光を放ち続けるこの街がある。この感動は昼間には味わうことはできないだろう。


「わ〜!ツリーおっきいねっ。すごい!」


 初めて間近から見上げるクリスマスツリーに、小春ははしゃいでいる。暗く殺伐とした過去の犬人の彼女はいない。いるのは幸せそうな少女だった。数ヶ月後、この世から処分される少女がただ笑顔で喜んでいた。

 城崎の中で、鬱々とした感情の水滴がぽたぽたと垂れる。その時、彼は自分の目から涙が出ていることに気づいて、慌てて腕でそれを拭った。


「しろさき?」


 振り向く小春に、城崎は作り笑いをする。


「どうした?」

「カメラって今日持ってる?写真とってほしいの」

「もちろんあるぞ。ほら」


 その要望は想定していたものだったので、城崎は趣味用のカメラを一台持参してきていた。そのカメラを鞄から取り出すと、小春の笑みがまた増した。それはかつて小春に外の世界を見せるべく、保存してあった画像たちを自由に閲覧させたカメラと同じ物だったからだ。

 当時の感動を彼女はまだ覚えているのだろう。あの時、外への漠然とした期待感を写真で潤わせてくれたこの小さな機械に。


「じゃ、小春。撮ってやるからツリーの前に立ってくれ」

「うん!」


 こくりと頷く小春はツリーの前に立った。早速ピースサインをした。写真を撮られることに慣れていないのか、彼女のそのサインはぎこちないものだった。城崎は彼女に向かってカメラを向ける。自動の調節機能が画面に映る彼女との距離を調整し、ピントを合わせて、顔認証の照準がはたらく。


「瞬き厳禁だぞ」

「はーい」

「はい、で撮るからな。いち、にの、はい」


 軽いシャッター音。城崎は早速捉えた写真を確認する。良い写りだった。そこにはこちらに向かって無邪気な笑顔でピースサインしている画像が表情されていた。


「しろさきー?私にも見せてよ」


 通常の速度で駆け寄ろうとするも、すぐに人間の小走りの速度にセーブして城崎の方へと戻ってきた小春は、飼い主の手の中を覗き込む。そんな彼女に城崎はカメラごと渡す。


「ほれ。ちゃんと写ってるよ」

「ホントだ。あ、私こーいう服装だったんだね?鏡見てなかったからわからなかったの」

「そういやそうだったな」


 ──なんだ、その目的で撮ったのか?


 城崎は内心苦笑いした。


 どうやら小春は、自分の変装用の格好がどんな風に見えているのか気になって写真を撮らせただけのようだ。

 犬人の彼女にとっては、自分の姿を他人のカメラに撮らせておくことにあまり意味はない。七夕の時も、彼女はカメラに収められた外の世界の写真には興味津々だったが、自分の姿が写真の中に保存されることに対しては無関心そうだったことを城崎は思い出す。


「……これでしろさきはいつでも私に会えるね」


 だが小春のその発言で、城崎は自分の中に今しがた構築していた思い込みが掻き消された。

 少女の顔を見る。彼女は、さきほどまでの笑顔を途端に暗く、悲しいものに変えていた。その目は充血していた。飼い主の目に届かないところで、彼女は今後への不安に怯えて泣いていたのだろう。

 デート中ということで笑顔ばかりを振る舞う彼女だったが、実際は城崎と同様に幸福と恐怖が入り混じる──曖昧で不安定な精神状態だったのだ。


「なんでそんな悲しいこと言うんだよ……」


 城崎は人目に注意を払うこともなく、小春のことをきつく抱きしめた。一分ほどの長い抱擁だった。やがて小春は彼の腕を身体から解けさせた。


「なんでって、ホントのことじゃん。でも写真にとっておけば、しろさきは寂しくなくてすむよね?」


 困ったように微笑する小春のことがいたたまれなくて、城崎は少女一人──犬一匹も救うことができない己の無力さを悔恨の末に深く強く憎んだ。

 次第に城崎の目からは大粒の涙が出てくる。止まる気配がなかった。彼はもう一度、小春のことを抱き寄せて離さなかった。


「馬鹿っ。君がいなくなったら寂しいに決まってるだろ──前にも言ったよな?写真なんて……こんなもの……こんなものはな、ただのまやかしだって。過去を焼き増ししたものにすぎないんだ」

「……でも、そんなものでもないよりはいいよね?写真はフェイクだって、しろさきは前に言ってたけど、それでもフェイクが必要な人もいるって……そうも言ってたじゃん」


 小春は城崎の話を覚えていたようだ。それが城崎の悲しさの濁流を後押ししたが、彼の方はさっきより様子が落ち着いていた。これ以上、愛犬を失う嘆きに打ちひしがれても仕方がないことを頭では嫌というほど理解していたからだ。


 彼は小春に「あぁ」といつもより少しだけ低い声で頷いてから、腕を解いて彼女を自由にした。


「……君を死なせたくない。何があっても生きていてほしいだけなのに」


 城崎はそれだけ言うと、生気の篭ってない虚ろな目でツリーを仰いだ。


「無理だよ、そんなの」


 小春は独り言のように呟いた。その声には怒りや悲しみなどの怨嗟は微塵も含まれていなかった。彼女のその態度が城崎を苦しめた。彼は視線を小春に戻す。


「どうして僕を恨もうとしないっ?僕は……君を助けると言っておきながら、結局は何も出来なかったんだぞ?」

「それはそうかもしれないけど……でも、しろさきが私のために色んなことをしてくれていたこと知ってるもん。その上でしろさきに怒るだなんてこと、私にはできないよ」

「だから結果的にはその努力が全部無駄になったじゃないか……っ。くそっ!」


 飼い主の本気の怒声を聞いて、小春は肩をこわばらせた。彼女は飼い主にどう切り返せば良いのか困惑し、両手の指をもじもじと絡ませて黙っている。

 出会った初期のように怯えて挙動不審になる小春に、城崎は目を伏せた。首を振り、彼は「ごめん」と泣き声で謝った。



 それからしばらく城崎と小春はお互いに黙り込んでいた。ツリー脇のベンチが空いていたのでそこに並んで座り、共に街を行き交う人々の中でぴたりと静止していた。

 不仲になった訳ではない。むしろ、互いを想うばかりに関係が壊れていきそうな状況に晒されていることを黙認し合っていたのである。それでも一人と一匹は、手を固く握り、寄り添って座っていた。依然として一人と一匹を街灯とイルミネーションが照らし、その上から雪が舞い降りている。


「……僕は本当にどうしようもない奴だよ」


 ぽつりと、城崎の方からクリスマスイヴの沈黙を破った。


「あの災害競技の時……君が瓦礫の中から時間ギリギリでようやく出てきて、マネキンじゃなくて195をおんぶして建物に戻ってきた時……正直、僕はこう思ったんだ。って」


 小春の手を握る城崎の手の力が強まった。犬人は何か言いたそうにしていたが、俯きがちに彼の手を見つめ、黙っていた。


「それはさ、なんで小春はマネキンじゃなくて195を助けたんだとか、僕よりも195なんかの方が大事なのかっていう怒りじゃなかったんだ……最初のうちはね。純粋にこんなタイミングでヘマをした195に対する怒りだったんだ。小春の救助行動が評価されれば、来年の秋の試験を待たずに、冬の間とかでも追試の望みもあったかもしれないから。でもそんなことはなかった。必死になって回避したはずの君の殺処分は……改めて決定された」


 城崎の声が涙で震えていた。


「それで……それからというもの、あろうことか……僕は小春のことを恨みそうになってしまったんだ。怪我人?知るか。そんなものより、どんな時でも、僕を……僕だけを選んでくれよって──」


 嗚咽しそうになる城崎はそこで区切ると、項垂れたように、モダンなタイル張りの足元を情けなく見つめた。


「……ごめんな小春。僕はこういう身勝手で自分のことしか考えれない酷い人間なんだ」

「そんなことないよ?そのね、私だって──」


 小春はそこまで言って、躊躇ったように口を閉ざした。だが彼女は空いていたもう片方の手で、城崎の手を壊れ物を扱うように優しく上から包んだ。研究員の手は犬人の少女の可愛らしい小さな手に挟まれる。


「……握力百キロだっけ?いっそのこと、今からその手で僕の手でも潰してくれよ。もう何もしたくないんだ」

「悲しいこと言わないで?」


 小春は上に重ねた手を離し、その手で城崎の頭を撫でた。


「何があっても……私はしろさきのことが大好きだからね」

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